2010年 5月 の投稿一覧

H小学校・研究授業の「思い出」。

 一昨日、はるばる北日本まで行き、公立・H小学校の教育研究会に参加した。これは公開授業を全校的に行う実践である。もう20年も前からこのような実践が行われてきたという。
 よくよく考えると、公開授業とは奇妙な現象である。生きた人間たちを、彼らより年長の人間たちが「観察」の対象にする。要は小学生版「動物園」なのだ。よく思想家は「動物園」を近代の特徴のように語る。それは観察される客体と観察する主体とを明確に二分割するからだ。中世的な「見世物小屋」と違い、「真面目」な「研究」の対象と取り扱われる。
 ミシェル・フーコーは〈見る―見られる〉関係性のうちに権力作用を見出した。とすれば、この授業研究会というのは大人の側が小学生たちを「監視」する権力作用以外の何物でもない。小4のクラスを「見学」する中でそれに思い至り、思わず気持ちが悪くなったのを覚えている。
 この小学校の児童たちは、興味深いことにこれだけ多くの大人たち(下手をすると、クラス内の児童と同じくらいの人数。しかも大半は「先生たち」である)に「見られて」いながら、普段通りの姿を見せてくれる。ある子は机に突っ伏し、私語し、鼻に人差し指を突っ込む(そこまで「観察」してしまう私は、すっかりゾウの檻の前に立って見ている動物園の客である)。巧妙に訓練を受け、餌付けされた「動物」たちの姿を思い出す。とすれば教員は調教師なのか。フーコーが「よきディシプリン(しつけ)はよき調教である」と述べた通りだ。
 授業が終わった後の分科会という「反省会」も非常に「面白い」。先ほどの授業中の「~~君」「~~さん」の言動が問題にされ、それに対する教員の今後の「教育」方針が語られる。この場において、生きた人間の処遇が語られる。語られた生徒は、そんな話し合いの存在を知る由もない。おまけにコメントするのはもう二度とこの小学校に来ない人々なのである。そんな人間たちによって、小学生たちは勝手に今後の生き方を決めつけられてしまうのだ。これを権力作用と呼ばずに何と呼ぶべきなのか。 

追記

●教員の語りに耳を傾けなければ、評価されることのない小学校の退屈さ。それこそ鼻でもほじるしかやることはない。対話は成立せず(1対30の営みは「対話」ではない)、教員の語りは児童の耳から抜けていく。
●私は研究授業や公開授業では、児童・生徒を観察する人を「観察」するのが趣味である。観察する側は、意外に無防備なので「素」が出るのだ。これはツタヤにおいてDVDを探す人を見る「楽しさ」と同じである。いかがわしいDVDを真剣に見つめる人を見るのはなかなかに愉快だ。
●教員たちの軽々しい「皆が仲良く過ごしました」という言説に気持ちの悪さを感じる。この一言には恐るべき「圧力」がかかっているのではないか。「仲間」という言葉や「学びの共同体」という言葉。これらの言葉のネガティブな部分に、本当に目がいっているのか? 「仲間」を構成するのはピア・プレッシャーでもある。つまり同調圧力。少しでも異なる「他者」を排斥する働きが裏にはある。その恐ろしさを知らずに軽々しく「皆」とか「仲間」とかいう言葉を使うべきではない。そう思う。
●教室の後ろの置かれた飼育小屋。いくつも並んだその姿が、私には複数の「棺桶」に見えた。飼育される動物たちは、はじめは可愛がってもみくちゃにされ、飽きられれば餌もやり忘れられるようになり、やがては知らないうちに「死んで」しまう。教員は死ぬことを予期した上でその死体を「デス・エデュケーション」の「教材」にする。そう、はじめから飼育動物たちは「死ぬ」ことを想定されているのである。ペットであればそうではない。
 恐るべきは学校である。どんな存在も「教材」にされてしまう。動物も、その辺にいる地域住民も、駅のホームレスも、すべてが「教材化」。この権力性についても、考察をしていきたい。

生徒によって「受けられた授業」とは何か?~『うる星やつら』的論考。~

学校空間は、生徒集団によって自分たちの生活文脈の中に再構成される。学校の各部署の名前は学校側のものと生徒によって命名されたものの間に落差がある。例えば、我が母校の寮では「みどじゅう」という場所が存在した。集会場の前にある、緑色の絨毯のひかれた空間のことをいう。空間と同じく、生徒たちは学校での「時間」も、自分たちの相応しい文脈のもとに「再構成」する。
 退屈な授業時間。一斉授業の名の下、聞いても理解しがたい授業が教授される。アニメ『うる星やつら』では担任の温泉先生(♨マーク)はまさに英語の教師であり、退屈な文法の授業を行う。どんなに授業の仕方が下手であろうと、生徒はそれに従わなければならない(評価権は温泉先生にある)。それゆえ、諸星あたるを始めとするキャラクターたちはいかにも退屈そうに彼の授業に「付き合う」。その付き合い方が、授業の「再構成」である。あたるはテキストを目隠しにして「早弁」(ハヤベン)をする。教員が黒板に向かう間に、こっそりと授業を抜け出す。そこまでしなくても、生徒たちはあるいは寝、あるいは「内職」をし、紙将棋もすれば紙飛行機も飛ばし、私語も行う(初期のアニメではラムがあたるに抱きついたまま授業が受けられる)。 彼らにとって教員の語りはBGM。音が強くなるときだけ聞き耳を立てる。
 それでも授業は苦痛だ。それゆえ退屈な日常(学校的日常)では「祝祭」が求められ、ラムやその関係者により授業がめちゃくちゃにされることが心待ちにされる(そうでなければ、こんなにトラブルやドタバタしかない学校に通い続ける義理はない)。 「祝祭」性を求めるがゆえに、どんな学校にも「七不思議」などの怪談話が創作される。これらは学校という退屈な日常を、楽しくすごすために作られた物語なのである。ストーリーテラーの周りには、学校的日常に退屈した生徒たちが集まり、耳を傾ける。『平家物語』を語った琵琶法師のような現代版・吟遊詩人なのである。
 学校は「学校」として機能しない。それは生徒によって「学校」は再構成され、自分たちに都合のいいものに作り替えられるからである。そのために、教員によって考えられた「学校」観と、生徒によって見られた「学校」観は常に相違するのである。教員にとって「問題」な生徒は、必ずしも問題児ではない。逆もしかりで、教員側からの「優等生」と、生徒にとっての「優等生」は評価観点がずれている。
 教員によってなされる授業・提供される学校空間は、生徒にとって過ごしやすい必然性はない。それゆえ、生徒たちは適当に遊び、「内職」し、「祝祭」性を求める中で学校的日常をやり過ごし、卒業して行くのだ。それが悪いとはいえない。だいたい、中高生にとっての学校の「思い出」の大部分は友人関係や部活動に集約される。そしてこの二つにはあまり教員側の意図が入り込まないのだ(学習指導要領では「友人関係」も「部活動」も規定はない)。

追記

●私語や手紙回し、早弁によって再構成された授業。再構成でもしなければ苦痛で仕方がない時間。生徒にとって授業を受けることは、いわば「労働」なのである。では、ボーッと過ごされた時間・机の上でなんとなくやり過ごした学校での時間は、生徒の生育史のうえにおいて「役立った」と言えるのであろうか? 内田樹も『下流志向』で「不快貨幣」の話を出している。

歌のもつ恐ろしさ

「時の流れに身をまかせ/あなたの色に染められ…」。テレサ=テンの「時の流れに身をまかせ」。昭和の名曲である。
 小さい頃、美空ひばりの「川の流れのように」とごっちゃにして覚えていた。恥をかいた記憶がある。
 さて、小さい頃、引用した箇所の前段の歌詞が印象深く、この歌のテーマのように感じていた。〈時の流れの速さ〉を歌ったものと思っていたが、実際重要なのは後段の「あなたの色に染められ」であったのだ。つまり人生経験の結果、ようやく「恋愛の奥深さ」を歌ったものであったことに気づいたのだ。
 歌は恐ろしい(ゲーテも言っている)。口に出したり文字に書いたりすると生々しいものを気軽に受けとも「消費」してしまうことができる。
 映画『魔女の宅急便』の主題歌「ルージュの伝言」も歌われた状況は18禁の状況であるが、小学生も歌ってしまっている(駆け落ち先の歌なのだ)。
 歌は気軽に性的なものを歌ってしまう。皆それを気軽に消費する。あたりまえの状況のようだが、その恐ろしさに気づくべきである。ゲーテの意識を身につけるべきだ。

努力教、あるいは努力「狂」。

 なかなか生きづらい世の中である。そう感じるのには理由がある。この世の中は常に「努力」を要求するためだ。いわば「努力教」(あるいは努力シンドローム)に形づくられているようである。
 努力しないことも、大事なのではないだろうか。昨年以来の勝間vs香山論争は、結局の所、「頑張る」「努力する」ことへの違和感を人々が潜在的に求めるようになったことの結果ではないだろうか。

 努力やガンバリズムを否定して生きていきたい。学習においてもそうである。「勉強」という言葉は「強いて勉める」と読む。それこそ「努力」シンドロームの現れた言葉だ。

 よく人間の尊厳として過酷な状況を努力して乗り越えた体験が語られる。会社再建の「美談」も、基本的には資金繰りに昼夜走り回った「努力」の結果として語られる。しかし努力とはそれほど美しいものなのだろうか? 「ほどほどに過ごす」のは駄目なのか? 皆が「頑張る」社会は病んでいる社会である。

 現在の状態で誰も満足してくれない。これは文明を進める要素ではあるのだろうが、『成長の限界』(ローマ・クラブ)以降の社会ではそろそろ「努力の終焉」を語ってもいいのではなかろうか。
 苅谷剛彦はインセンティブ・デバイドの存在を「嘆いた」。所得下位層に生まれた子どもは学ぶ「意欲」や努力する「意欲」が少ないという「格差」があると主張したのだ。けれど、考えてみれば努力するという「意欲」に格差が出るということは、「努力」の終焉に一部の人間が気づき始めた良い「兆候」とも言えるのではないか。
 ほどほどのところで、ほどほどの人生を送る。これでいいんじゃないだろうか。確かに「階層の固定」と言って批判する人もいるだろうが、本田由紀のいう「ハイパー・メリトクラシー」下で要求されるスキルについて考えてほしい。常に自らの向上を目指し、「さわやかに」努力し続けるスキル。本田はハイパーメリトクラシーが「努力し続ける」姿勢を要求することを描くことで社会批判をする。そうである以上、「ほどほど」(昔の宮台真司は「まったり」と言った)の生き方は、社会改革の一つのファクターであるように思われる。
 ニートでも、フリーターでも人は生きていける。何も努力するだけが人生ではない。

努力シンドロームの彼方に。

 久々に落ち込んだ。もう1週間になる。私は自分が不要だ、と感じるときガクッと落ち込むことが分かった。サークルにしても、ボランティアにしても、「あ、俺いなくても大丈夫かもしれない」と感じたとたんに落ち込む。今回もそんな文脈の中で落ち込んだ。
 宮台真司は『14歳からの社会学』において「代替可能性」というキーワードを提示した。自分の存在の代替不可能性を感じられない限り、生きている実感を失ってしまう、という文脈で語られていた。要は、「自分でなく、他の誰かでも構わないのではないか」という思いのことである。いまの私にも当てはまる。「俺なんて、いなくてもいいんじゃないか」と感じるとき、私・藤本研一という人間の「代替可能性」を感じてしまう。
 この現象は再帰性(ギデンズ)に特徴づけられた近代社会特有のものである。再帰性を英語で書くとreflexivity。絶えず自分自身を「振り返り」(=reflective)、自分の行為の結果について考察をしていく態度のこと。
 「自分とは何者か?」を、近代社会では誰も教えてくれない。前近代の共同体社会では「〜〜さん宅の息子さん」というアイデンティティがあった。生き方にしても、「まあ、親父と同じことをして一生を過ごすのだろう」という自明性があった。いまはそれが無い。だからこそ、絶えず自らを「振り返」り、自らを作り替えていくことが必要となった。
 この「振り返り」は、非常に面倒なプロセスである。中学生時代、何か行事の度に「反省会」が行われたことを思い出す。「もっと早く準備をしていればもっとよい企画になったと思います」という意見表明が連発される会議室。子どもながらに生産性のなさを感じていた。再帰性とは、要はこういうことではないか。面白くもなく単調な「反省会」を自らのうちで何度も何度も行う作業。そのうち「自分は何者か」判明する時もあるが、基本的にはただ「振り返る」だけで終ってしまうのではないだろうか。それこそ「反省会」を「努力して」行うことが必要なのだ。
 自分に必要なスキルを、自分で計画して身につける。それだけでなく、「自分は何者か?」「自分は何をしたいのか?」常に考える必要のある近代社会。「努力」し続けないと生きれないように巧妙にプログラミングされた社会である。まして都市に生活していると、日常的に「努力しない」存在の比喩としてホームレスの存在が目に入る。いやでも「努力」が要求される。けれど「努力」は楽ではない。にもかかわらず努力しないと地位やアイデンティティの獲得が手に入れられない。
 本当に生きにくい社会である。
 考えてみれば、「俺はもうダメだ」という状態を「振り返り」の結果として受け止めるのも、ある意味で自分のアイデンティティを形づくったこととなる。自ら「ダメ人間」を名乗るのだ。「ダメ人間」を名乗るとき、とりあえず「自分は何者か?」という問いにはきちんと答えがである。けれど私の自尊心はその状態で満足させてくれはしない。
 「ダメ人間」で満足できないのなら、結局自分自身で「努力」して自分を「向上」させる必要が出てくる。…ああ、努力しないと自分のアイデンティティを獲得できないのか。努力しないと「代替不可能性」に気づくこともできず、この「落ち込んだ」状態からの離脱も図れない。
 いまの状態からの解決方法は見えている。なのにその方法である「努力」をしたくはない。…この「救われない」状態から、どのように抜け出すか? 「努力」して方法を探し出すことにしよう(トートロジーである)。

星に願いを。

 「星に願いを」とはいうが、星は無生物である。願いをかけても叶えてくれるわけはない。にもかかわらず、人は星に願いをかけ続けてきた。このメカニズムは一体何なのだろうか?
 何かに「願い」をかけるとき、人は自らの願望を再確認する。潜在意識の中に「これをやりたい」という思いを上書きしていく。「これをやりたい」思いが潜在意識にあるならば、無意識のうちにそれに関する情報収集や行動を行い始める。「家を安く買いたい」人には、山のようにあるコンビニの雑誌棚の中から「1000万円台で買えるマンション特集」というキーフレーズが無意識的に眼の中に飛び込んでくる。
 神社の賽銭箱の向こうの空間、チベット仏教のマンダラ、キリスト教におけるマリア像。これらに願いをかけ、実際に叶うとしよう。このメカニズムは、人間が自らの願望を再確認する結果として「願いを叶える」という実践が起きてしまうだけなのではないだろうか。

 自己成就的予言というものがある。「社会状況についてのある思い込みが、人びとがそれを信じそれに基づいて行動することで、結果として実現し、当初の予想を正当化するような社会的プロセスのこと」である(『岩波小辞典 社会学』92頁)。予言されたことを無意識的に成就する方向に人が動いてしまうという状態のことだ。落ちこぼれというレッテルを貼られた子どもは「実際に落ちこぼれらしいふるまいを実現してしまう」のである。「星に願いを」かけることは、自己成就的予言とも言える。自分で自分の「予言」として「願い」をかけ、それに自分で応えようとしているのだ。
 こう考えるとき、「星に願いを」かける行為は自分自身に「願い」をかける行為であると言える。結局、願いをかけても叶えるのは自分でしかないということを表しているだけなのである。

たかが受験ごときで…

 修論で書く関係上、受験勉強法の本を本屋であさっている。
 勉強法の本のタイトルや中身は色々と面白い。たかが受験ごときで「科学的勉強法」や「脳科学に基づいた」学習法が語られる。「孤独に打ち勝つ力をつけよ」とアドバイスされ、「死ぬ気でやれ」と訴えかけられる。

 受験生当時、私はこれらの本を購入し、読み込み、そして必死に勉強をした。けれど大学を卒業した今から思えば、「たかが受験に、なぜここまで熱心にやる必要があったのだろうか」と疑問を感じる。

 「東大脳を作る」という言葉や、受験合格のための「食育」本。どっかの塾や予備校のヨイショ本(宣伝本)に怪しげな記憶法の本。これらを見て、受験生が踊らされているように感じられてしまう。

 勉強の仕方くらい、自分で決めさせてほしい。自分でやらせてほしい。山本哲士の名言「ほっといてくれ!」はこの状況でも有効である。

 そんな風に今の私なら思うが、これは受験を終えた立場だからこそ言えることなのだろうか。学習参考書や受験勉強の「仕方」について書かれた本を目にするたび、受験生がものすごく気の毒に感じられるのである。

「制度化」される読書行為。

 池袋のジュンク堂書店に行った。小学生向けの学習参考書の棚の隣に、児童書の棚があった。小学生の男の子が一人、立ち読みをしていた。あとは保護者のみが本を探している。横から見ていた私は、小学生の読書が「教育」に取り囲まれているように感じた。
 古来、読書が悪であった時代がある。それゆえに、読書が娯楽であった。
 現在「子どもに読ませたい本」一覧のように、読書が教育に入り込み「制度化」されている。
 
 もっとも、この傾向は明治末期から起きていた。夏目漱石の小説が良家の子女に「読ませたい本」になった時からだ。読ませても、「大人」や「親」たちに無害だ、と感じるがゆえに「読ませたい本」になったのだ。

 現在の子どもの悲劇の一つは、そんな制度化された無害な本しか与えられないところにあるだろう。
 『ズッコケ三人組』や『ハリー・ポッター』で夏休みの読書感想文を書く小学生は排斥をされる。それは「読ませたい」本ではないからだ。

マイノリティ論。

 昨夜、明治通り沿いのマクドナルドで(珍しく)勉強していた。席に座り、延々と本に向かい続ける。斜め前の席に、「日本語」と書かれたテキストを勉強する一団がいた。左横の席にも、「日本語検定」の教科書をもった若者が座っている。アジア出身の、おそらくはニューカマーの人々だろう。文化現象として見て、興味深いことだった。
 彼らは何故ここで勉強するのだろう? それもラフな格好で。おそらくは日本国内での「マイノリティ」を自認するがゆえに、相互扶助し合うことをお互いに要求するからであろうか。
 マイノリティは孤立すると、おそろしく弱い。「社会」から切り離され、絶望した感覚(アノミー、とデュルケムは言った)に陥れられている。それに対処するには「かたまる」(団結とはあえて言わない)ことである。
 
 社会的弱者であるマイノリティが「かたまる」のを見ると、マジョリティは恐怖を感じる。「朝鮮学校」という存在への「無償化」に日本人が反対したのも、マイノリティが「かたまっている」状態への恐れであるからだろう。
 マイノリティは「かたまる」が故にマジョリティからは脅威であるのだ。それゆえ、先の朝鮮学校の「無償化」論争のとき同様に、露骨な差別意識をなんだかんだ理屈をつけて合理化する。けれどマジョリティはマイノリティが何故「かたまる」のかを考えようとしない。もとはといえば自分たちマジョリティがマイノリティたちに「かたま」らないと生きていけないようにしていることに気付かないのだ。

「教育化」される社会。

 現在は教育が産業になる時代。あらゆることが教育に結びつけられる。例えば中学受験。昨年のプリジデント・ファミリーでは「父親力」なるものが要求されている。父親として子どもを適切に褒めたり叱ったりする力のことを言うらしい。

 現在、個人のあらゆるエネルギーが教育的価値の実現のために使役させられる時代になっているように思われる。

 カントは確かに〈人間は人間に教育されなければ、人間になれない〉と言った。それゆえ、親は子どものために/教師は生徒のためにひたすら自己犠牲的に教育に徹することが美談とされている。

 城山三郎の小説『素直な戦士たち』を思い出す。子どもを東大に入れることを夢見る女性が、そのためだけに結婚・出産し、徹底的に「東大に入れる」ために教育を行う。そのために徹して自己犠牲。「願掛け」として化粧を絶ち、子どもの教材には金を惜しまない母親像。これ、子どもからすると相当な負担である。親がそこまで「自分のため」にしてくれるのを見ていると、押しつぶされるほどのプレッシャーを感じる。

 昨年話題となった『東大合格生のノートはかならず美しい』(太田あや)には、「家族力」で合格した受験生の姿がドキュメントされている。タイトルもズバリ「『家族力』があったから東大に合格できました」。「合格へ向け家族一丸となる」という言葉が紙面に踊る。車いすに載った祖父も両親も、子どもの東大合格をあらゆる点でサポートする。家族全員の記念写真に写った笑顔。それを見て、急に怖くなった。もしこの受験生が不合格だった場合、家族ははたして成立しているのか、と感じたのだ。現在の『素直な戦士』であるように感じた。

 子どもの教育のために一生懸命働く親の存在。これは美談である。教育熱心な人は賞賛されるばかりで非難されることはない。しかし、この姿は同時に、教育のために人々が犠牲にされている姿の表れでもある。よく考えると悲しい光景だ。子どもの教育を行うために、人々から「自分」がなくなっていく。シングルマザーの出てくるドラマにも「あなたが居なければ再婚できるのに」と子どもにつぶやくシーンが印象深い。

 『子どもからの自立』(伊藤雅子)という本にも、この考えがあらわれている。子どもの教育に熱心な母親という「母性賛美」。社会は「母性賛美」をすることで、母親たちに子どもの教育のために自己犠牲をすることを強制している。そのため「母性賛美に陥れられることなく、追い込まれた道を自分の選択だとたぶらかされることなく、女の向上心や生真面目が巧妙に搦(から)めとられる危険を見ぬいて、自分の人生を生きる」(ⅷ頁)ことが必要なのだと筆者は語る。

 魯迅の言葉にこのようなものがある。〈若者の育成のために血を垂らすことは、我が身を削ることになったとしても楽しいものだ〉。「教育の持つ輝き」を信じていた頃、この言葉を感動して私は受け止めていた。しかし、今の私にはマゾ的行動のように思ってしまう。

 教員も親も、一般的に優しい。ゆえに軽々しく他人(子ども)の犠牲/他人の手段になってしまう。この傾向は正しいのだろうか?

 M・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、プロテスタンティズムの教義が人々に働くことを「人生の目的」と規定するようになった、と説明する。人々のあらゆるエネルギーや時間が「労働」にかけられていく。「世俗内禁欲」を訴え、人々が欲望の充足をすることなくひたすら労働に意識をかけるようになる。いまの社会はすべてが教育に結び付けられ、教育的価値の実現のため簡単に自己犠牲が説かれる。皆が「美談」と感じる。…冷静に考えると、おかしなことではなかろうか。

 教育が重要だと言えば言うほど、あらゆるエネルギーが教育に一本化される。エネルギーの提供側はいつまでたっても自由になれず、教育される側はあらゆる教育者の「期待」に応える必要がある。私も言われてきた。「いまの日本社会の問題の解決は君たちにかかっている」。今まで教育されてきたのはそのためかよ。いささかの苛立ちを感じてしまう。

 こんな私もやがては学校教員になるだろうし(院生が生活していく一番手っ取り早い方法)、結婚したら子どもを持つことにもなるだろう。そのときに、「子どもの教育が大切だ」と考え過ぎると、「自分」の生活が無くなってしまうような気がしてならない。けれど、誰もそれを真面目に考えようとしない。私のような発言は「クレイジー」として片付けられてしまうのが、いまの日本の悲しい点である。