2009年 11月 の投稿一覧

コーヒーが飲める「異常」性。

 11月8日。早稲田祭が終了した。我がサークルで睡眠時間を削りまくって戦っていた。酒も絶っていた。そんな中、私はコーヒーをやたら飲んでいた。缶コーヒーをひどい日は5缶。あんまり飲まない日でも朝に1本は飲んでいた(ワンダのモーニング・ショットは中毒性がある)。つらくなった時は、喫茶店にいった。「どんなことがあってもコーヒーだけは温かい」という少し前の缶コーヒーのキャッチ・コピーの秀逸性を感じる。

 前回のO先生のゼミでもコーヒーの議論をした。コーヒー豆は中南米や東南アジア、アフリカの一部くらいでしか生産できない。けれども、日本を含めた先進国あちこちに「喫茶店」があり、缶コーヒーが普及している。
 本来、コーヒーは世界中で飲まれるはずがない商品なのだ。一部の地域でしか生産できないからだ。にもかかわらず、世界中で飲まれている。これは文化伝達というよりも、「異常」と見たほうがよいのではないか。
 世界中で同じものが嗜好される。これにはコマーシャリズムの影が見える。
 近年、日本では緑茶の消費量をコーヒーの消費量が上回った。この事実は「コーヒーは万人に愛されている」ということではなく、「人々がコーヒーを好むよう、商業主義がコントロールをしている」と解するべきであろう。
 イリッチは「場所性」を主張する。田舎が都会をまねる必要はないし、都会も田舎をまねる必要はない。それぞれの場所が、それぞれの場所固有の生活・文化を維持していくことが必要なのではないか。イリッチのこの考え方を頭に置いた場合、現在のコーヒー文化のもつ「異常」性が見えてくる気がする。

幕引き

4年間やってきた大学のサークルも、昨日でついに幕となる。早稲田祭企画のあと、終了式→飲み会→高田馬場ロータリーで騒ぐ、という流れを過ごした。このサークル、軽いサークルでは全然なく、話し合いの場で泣き出すものも出てくるほど「熱い」、別の言い方をすれば「恐ろしい」サークルなのである。

何事も、最後までやりきることが必要なのだと実感した。
このサークルで学んだこと。それは「思い」を語ること・「思い」を込めて行動することである。
私は形式的に行動することが多い。サークルのメンバーへの励ましも、企画の準備も、日常の活動も、「やらなきゃいけないから」、型どおりに行っていた。「やっていないじゃないか」と叱られないために。はじめはうまく回っていたが、3年生の途中からつらくなってきた。「やりたくない」という思いが強くなってきた。けれど、「嫌だけれど、やらなきゃな。仕方ない」との意識で行っていた。
 4年生の9月。どうしようもなくなった。全くやる気が起きなくなった。でも、サークルに行かなければ。しんどさが付きまとっていた。
 サークルの話し合いをサボった翌日、尊敬している人からメッセージをもらった。自分に対する期待が感じられた。「もう一度、素直に・謙虚に、やり直すことからはじめよう」と決意した。
 それ以来、叱られたなら素直に聞いて「よし、改善しよう」と努めるようにした。特に意識したのは「絶対に諦めないという執念を持つこと」、それと先ほどの「思いを語る・思いを込めて行動する」ということであった。
 サークルのラスト1ヶ月で、自分の考え方が大きく変わった。
 途中で投げ出さずに済んで、本当によかったと思っている。最後の最後に、私に欠けていた部分を知り、克服のために動くことができたからだ。
 さて。来年このサークルに私はいない。昨日、ロータリーで校歌を歌ったが、そこの一節が非常に胸にしみた。
「集まり散じて/人は変われど/仰ぐは同じき/理想の光/いざ声そろえて/空もとどろに/我らが母校の/名をば讃えん」。
 

私教育と公教育

 教育には2つある。それが公教育と私教育である。
 本来的な教育は私教育。「学校」ができる数万年以上も前から、私教育は行われていた。集団の中で、地域の中で。
 国家がつくる「学校」は、設立されてたかだか200年だが、私教育は常にあった(人間が生きるために)。
 しかし教育学は「学校」でおこなう公教育しか語ろうとはしない。

 あえて私教育としてのフリースクールを語り、私教育性を担保するのが私の使命だ。

 学校だけが人生でないし、喫茶店だけが人生でもない。
 どんな人生がいいのかも、自分で決めることが大切だ。