2009年 11月 の投稿一覧

「自分に合った仕事」という幻想

 友人が就職活動を行っている。その際、リクナビやマイナビなどに希望する条件を登録し、そこから送られてくる情報をもとに行動を行っている。

 「自分に合った仕事を探そう」と、最近の就職関連の本には登場する。「自己分析」がやたら騒がれ、「一生の大半は仕事をするのだから、自分に最もあったものを選ばないと不幸になる」とすら語るものもある。

 しかし、本当だろうか? 自分という個が先にあって、その個に合う仕事を探す。このプロセスは真理なのだろうか。

 かつて、仕事は「一人前になる」ために行うものだった。「自分に合った仕事を探す」のではなく、仕事を通じて自分を作り上げる、というプロセスをとっていたのだ。
 
 私の家は、代々職人の家系であったらしい。祖父の代までは建具屋さんをしていた。建具屋とはたんすなどの家具を作る人のことをいう。そのため家の納屋にはカンナや金槌などがたくさん散らばっている。
 木にカンナをかける。なかなかうまく出来ない。力を均等にし、慎重にカンナをかけていく。この作業を繰り返し、きれいにカンナがけができるようになったとき、少し「一人前になる」ことが出来たのであろう。仕事を通しての人間成長があったのだ。
 仕事を通じて、かつては人生における真理を学んでもいた。先のカンナがけ。カンナをかけるだけでなく、「ゆっくりと慎重に行うこと」「練習をすれば必ず技術は習得できるようになるということ」すら学ぶことができていた。表面上は単調にカンナがけをしているようでも、作業を通じて人生の真理を学んでいた。

 いまは個があって、「自分に合った仕事を探す」というプロセスをとっているが、かつてはそうではないのが一般的だった。仕事は何でもいい、けれどその仕事を通じて「自分」を作り上げろ、というメッセージが社会に広まっていた。

 就職活動に行き詰っている友人にこの話をすると、非常に喜ばれたのが印象的だ。いまの就職活動は何か誤っている点があるのではないだろうか。

鈴木雅之のCDを聴きながら。

 最近、鈴木雅之のCDをずっと聴いている。「♫もう涙はいらない…」。名曲である(現在のBGM)。

「もう涙はいらない 僕が側にいるから」(「もう涙はいらない」)

 この一節に鳥肌が立ってくる。
 もう一カ所、彼の別の歌から。

「後悔するよ きっと こんなさよならは
 今日までの二人 どこへ 消えてしまうのか
 追うことさえ 出来なかったのは 俺の方で
 泣くことしか 出来なかったのは 君の方で」(「さよならいとしのBaby blues」)

 この歌詞が、いつぞやの苦い記憶を呼び戻す(ような気がしてならない)。

 ブックオフで買ったのは鈴木の「Best Love Song Album」たる、「MEDIUM SLOW」である。流していて、色々気づく。「あれ、どこかで聴いたな?」。思案した結果、もともと父のカーステレオで聴いたことがあることを発見した。

 幼き日、父のワゴン車の助手席で聴いた曲の数々。サザンオールスターズ、TUBE、そして鈴木雅之…。私が、いわゆる「懐メロ」を愛好する理由には父のカーステの存在が大きい(同じ懐メロでも さだまさしが好きなのは母の影響から)。

 そのためか、鈴木雅之にしても何にしても、「全くの未知」の曲よりも「あ、この曲はカーステで聴いた!」と分かるものの方が私の好みである。

 鈴木雅之の存在は、いろいろYOU TUBEを散策するなかで偶然見つけ、「この歌手、すごいじゃないか!」と発見した。いざCDを買ってくると「あ、この曲はカーステで聴いた!」と改めて認識したのである。

 結局、人間は自分の育った環境から離れることができないのではないか、と気づく。意図的に離れようとしても、油断すると気づけばその環境に戻っている。そういうものである。
 一人で生活していると、あんまり両親の存在を意識することはない。月末にキャッシュカードを使う際、「今月も仕送りがしてある」と事実に感謝するときくらいである。けれど、実は自己の内面の「趣味」「興味」という位相には常に両親が存在している。

 さて、全く関係ないが昨日「思い」が通じた瞬間があった。「思い」が通じるのは実に嬉しいことだ(恋愛のことのようだが、そうではない、念のため)。

映画 マイケル・ジャクソン『This is it』

 私は今まで色々な映画を見てきたが、観客の拍手で始まり拍手で終る映画は始めてである。まるで昭和の映画館のよう。マイケル・ジャクソン(MJ)のコアなファンの多さを実感した。映画の合間にあがる歓声と拍手。光るブレスを付けた人の多さに驚く。

 映画を見ていて。MJは「変化し続けたかった」のではないか、と思う。顔を白くしたのも整形したのも、すべてその意志の現れではないか。
 「変化する主体」としてのMJ。リハーサルをしながら演出や振り付けを考えていくのも、「変化する主体」ならではではないか。
 変化。人間生命の本質にはこれがあるのではないか。まさに「万物は流転する」。

(・・・)
 映画が終わる瞬間、観客は日常に引き戻される。突然に、それこそ唐突に。新宿バルト9のエスカレーターで新宿の夜景を見るとき、マイケル・ジャクソンの偉大さと共に、自らの日常を思い出すのだ。それは辛い作業だろう。しかし我々は戻らねばならない。MJのいない日常に、そしてありふれた世界へと。
 映画のラスト。「さあ変わろう」。我々もつまらない日常を変えていかなければならない。
 自らが変わることで。

高橋勝『学校のパラダイム転換』(川島書店、1997)

人が何かを〈学ぶ〉ということは、その対象を通して、生活世界に新たな意味を付与していく営みである。自己の生活世界をつねに新たに更新していく営み、それが〈学ぶ〉という行為にほかならない。その行為は、ものへのはたらきかけや他者とのかかわり合いなしには成立しない。〈はたらきかけ〉、〈かかわること〉によってしか、私たちは自己の世界を更新してはゆけないのだから。それは、必要や効用といった功利的原理を超えた、根源的な「生の世界」それ自体の自己蘇生の営みなのだ。(15−16頁)

 私たちの〈学び〉とは、それまでの狭い世界を脱出して、より広い世界を切り拓き、再構成していく行為にほかならない。それはきわめて創造的であり、主体的な営みなのである。(18頁)

〈学び〉とは、〈自己〉の解体と再生の営みなのだ。(18頁)

子どもたちが、多様で異質な文化や人々と出会い、交流する場として、学校を考えたい。同年齢ばかりでなく、異年齢の子どもたち、地域の住民、異国籍の人々、多様な文化的世界、そうした多数の他者と交わることによって、子どもは、一人で学ぶ以上のことが学べるのである。「学ぶたのしみ」を肌で実感できる人々が寄り集まり、〈学びのネットワーク〉を織り上げていく場所、それが、これからの学校なのだ。(28頁)

感想『いよいよローカルの時代』(大月書店)

この本に、次のようにあった。

《ぼくは、スローとはなにかと言われたら、「つながり」と答えることにしています。ローカリゼーションというのは、一度断たれた大切なつながりをとりもどすことですよね》(172ページ、辻)

いま私は一人暮らしをしているが、西早稲田の我が家にはいろんな人が出入りしている。

風呂を借りに来るN君、夜話し合いにくるFさん・Oさん、よく「泊めて」とくるS君、「部屋を貸してください」と急にメールするI君…。ひとりも女性はいないが、たくさんの人がうちを使っている。

人はよく「お人好しが過ぎるんじゃないか」と言うが、私にとってはこの「いろんな人が我が家に来る」生活のほうが好きだ。これこそ「つながり」であり、真の豊かさであると言える気がするからである。

一人暮らしの家に1人で住む。けっこうキツいことだ。 必要以上にプライバシーに配慮していても、孤独さが増すばかりである。

昔の下町長屋にはほとんどプライバシーはなかった。けれどそれと引き換えに「つながり」という豊かさがあったのである。

内田樹も、他人と部屋を共有することの意義を語っている。

大学生がよく欝になるのは、部屋の共有をしないためではないだろうか?

怠惰な生活

昨日は慌ただしかった。ボランティアスタッフとしてフリースクールフェスティバルの役員で1日戦った後、地域の活動に行った。
全て終わったのが夜1時。けっこう疲れる。

今日の火曜は起きたのが午後1時。素晴らしく気楽な大学生であるものだ(怠惰生とかいて大学生と読む)。

自分のリズムを見ていると、めちゃくちゃ忙しい→ボーっとして怠惰な生活→また忙しい生活…、という繰り返しである。同じペースで持続可能な戦いをするのがどうも苦手だ。研究者に必要な資質であるはずなのだが…。

そろそろ、怠惰な生活をする頻度を下げていきたい。友人は来年から社会人になる。自分も社会人的なリズムで生きれるようになりたい。

昨日はフリースクールフェスティバルの運営を手伝え、けっこう楽しかった。ふだんフリースクール関連で知り合っている子たちが楽しそうな姿をみるのは嬉しいものだ。それはよかったのだが、かなり疲労がたまった。はやく本調子に戻したい。

「いい教育を求めてフリースクールにいく」、ことの欺瞞。

いい教育を求めてフリースクールにいく。これは「価値の制度化」である。本来、学校による強制的な「教育」に対するアンチテーゼを示すのがフリースクールの役割であった。このことは忘れてはならないであろう。

「学校」が駄目だから、「学校」的なものとしてフリースクールにいく。これは結局、「学校」というものに取り憑かれた考え方なのだ。

初期のフリースクールはもっとラディカルであった。国に対し、「子どもの権利」を主張して堂々と「NO!」を突きつけていたのだ。

フリースクールは「学校」がわりに行くものではない。「子どもの幸福のため」に「学校」が機能していないからこそ、「上に任せず、自分たちが教育を行うのだ」という草の根運動の結果できたものであるのだ。

フリースクール創設時の苦闘を、忘れるべきではない。

…あんまりまとまってなくて、ごめんなさい。

カフェスローへの道。

 高尾山に登ろうという話になり、私は中央線に乗った。そのついでに国分寺で降り、カフェスローへ行ってみた。
 イリッチの「脱学校」論の究極は人が会い、ものに触れ、何かを考えることである。そのような場を提供できるのは喫茶店であり、「喫茶店スタイルの
学びこそがイリッチの理想の教育形態ではないか」と私は仮説を立てている。このカフェスローは哲学としての「スローライフ」を掲げ、実際に実践を行っている場所である。イリッチの思想の現れを見る気がする。

 スローライフやナチュラルライフを地でいくメニュー。「フェアトレード」「無農薬」などの言葉が踊っている。部屋の隅には「スローライフ」系イベントの案内が置かれている。
 スローライフを示す本を売っているコーナー。私は3冊購入した。
 購入した『カフェがつなぐ地域と世界 カフェスローへようこそ』(吉岡淳)にはこうある。「カフェとしての形態をとってはいるが、環境・文化運動を目指す拠点としてのカフェスロー」(78頁)というところが印象的であった。
 このカフェには明確な哲学がある。店名にもなった「スローライフ」をメニューや店舗自体、扱う商品や店員の態度を通じて示そうとしているのだ。

 コーヒーを啜る私の周りには「オバさま」ばかり。自分が「浮く」ことがなければもっと来やすい店になるのに、という点のみが残念であった。

抜粋集『21世紀の教育と人間を語る』(第三文明社、1997)

以前、「21世紀」という言葉には無限の輝きがあった。夢と希望があふれる社会が、21世紀に実現されているはずであった(はからずも「20世紀少年」や「クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲」にはかつての「希望あふれる21世紀」が語られている)。
けれど、いまの世の中は決して輝かしいものではない。20世紀後半にとって21世紀は輝かしい未来。だから「将来のために今頑張ろう」と考えていた。いまの世に、かつて「21世紀」という言葉で示された「輝かしい未来」を意味する言葉は存在しない。
そんな時代だからこそ、「将来は明るいのだ」という信念を持ち続けることが必要なのではないか。今回の抜粋分には、そのような「希望」が綴られている。
希望がない社会だからこそ、「こんな世の中だから仕方ない」と思うのでなく、「自分が希望ある社会をつくっていくのだ」というポジティブな行動を行っていく必要があるのではないか、とおもう。
時代はどんどん変化しているのです。「競争社会」から「実力社会」へ、そして二十一世紀には、必ず「人道社会へ」と動き始めることでしょう。(中略)人道的な行動が、価値を持つ時代です。子どもに対しても、社会全体が、人道的にやさしく包み込むことが必要でしょう。
「不登校の体験が人生の大きな宝になった」「家族の絆が強くなった」「学ぶことの本当の意味が分かった」という多くの体験も聞いています。
 不登校になったからといって、子どもを責めたり、自分の子育てが悪かったと嘆いても問題解決にはならない。貴重な体験をしていると思ってください。人生に意味のないことなど何もないのですから。(220頁)
 
学校に通うことが目的ではないのです。
 学ぶことが目的です。力をつけることです。他人のために尽くすことです。
 本来、人間にとって、学ぶことも、教えることも、喜びであるはずです。この喜びがあるところ、「学校」は生まれるのです。(中略)
 学ぶことは「喜び」であり、学ぶことは「権利」です。たとえ、大人たちが作った学校という制度が悪かったとしても、それに負けて「学ぶ権利」を放棄するのは不幸です。
 青春の時、社会に出ていく時、結婚する時など、人生には、さまざまな「時」があります。それを一歩ずつ進んでいくのです。
 その「生きる力」の源泉となるのが、学ぶことです。学びは一生です。人間は、死ぬまで学び続けるのです。
 ゆえに一歩一歩でいい。どうしても学校に行けなければ、家で一歩一歩、進むのです。
 一歩一歩、進めば、悩みの向こうから、必ず何かが見えてきます。
 お母さんも、そしてお父さんも、家族の皆が、お子さんといっしょに進んでください。
 歩みを止めなければ、必ず勝利の日が来るのですから。(278~280頁)