2009年 7月 の投稿一覧

早稲田大学で学べること

早稲田大学にいることで学べることはいくつかある。

1、酔っ払いへの対応の仕方・介抱の仕方が無理なく修得できる。
2、受験秀才というのは大した存在ではないということが自覚できる。
3、相手との話のネタに困ったとき、バイトの話か就活の話を振るという「技術」を身につけることができる。
4、図書館に行くと六法全書を手にした人物が必ず座っており、多くの者はそのまま突っ伏している事実を知ることができる。
5、早稲田出身者は必ずと言っていいほど「授業に出なかった」ことを自慢するということを知ることができる。
6、受験の中で第一志望に受かる人間はほとんどいないのだと気づくことができる。

短編小説・夏屋さん

 少女が街を歩いていると、一人の中年男性に出会った。寒空の下、その男だけは半袖シャツにサンダル履き。周囲から浮いた姿で屋台をやっている。

「おじさん、何やってるの?」
 少女は尋ねた。「おじさん」と呼ばれたその男性は、
「俺かい? この看板見てごらん。『夏屋』をやっているんだ。夏を売って、お客さんに冬を楽しく過ごしてもらうんだよ」
「へー、そんなお仕事があるのね。全然知らなかったわ」
「この仕事、なかなか大変なんだ。お嬢ちゃん、ちょっと夏を買っていかないかい?」
「おいくら?」
「子どもには1分100円で販売してるんだ。どうだい」
「はい、100円」
 男は手元のかき氷機を手早く回し始めた。下に氷がたまっていくのを少女は見ていた。すると、ふいに自分が海岸に佇んでいる心持がしてきた。海に反射する太陽がまぶしい。
 気づくと、再び男の姿が目の前にあった。
「気に入ったかい、お嬢ちゃん?」
「うん、とても」
「その先に屋台があるだろう? そこには俺の女房が店をやっているんだ。『秋屋』と書いてあるからすぐ見つかるよ。そこから先に行くと俺の親父がやっている『冬屋』がある。ちょっと行ってみな」
 少女は男の言う2つの店に寄ってみた。100円を払い、それぞれの季節を楽しんだ。素敵な仕事だと、少女は思うようになった。そして、独り言のようにつぶやいた。
「わたし、大きくなったら絶対『春屋』さんを開くわ。そこでみんなに春を売るのよ」

鳥山敏子『居場所のない子どもたち アダルト・チルドレンの魂にふれる』

鳥山敏子『居場所のない子どもたち アダルト・チルドレンの魂にふれる』(岩波現代文庫、2008)

 著者は30年間学校の教師をした後、「東京賢治の学校」をつくる。現在は子どもを対象にシュタイナー教育を行っている場所だ。
 執筆した当時、鳥山氏は「うまく育てなかった」大人を対象に「ワーク」とよばれるケアを行っていた。「ワーク」は、その人の心理の根底にある、不安な出来事・辛かった出来事などをその場で「演じて」見ることで、「うまく育てなかった」部分を乗り越えていくという実践だ。
 「どうしても子どもを抱きしめることができないんです」という母親。鳥山氏が「ワーク」を行ったとき、その母親自身が親から愛情を注がれることがなかった・抱きしめられることがなかったことを思い起こす。親にいいたかった思いを、「ワーク」の中で伝える母親。それを見ていた母親の子どもが涙を流して母親の元に抱きついてくる。「ごめんね」と母親も子どもを抱き返す。本書は鳥山氏が出会ってきた多くの家族が「再生」するという、感動的なエピソードに彩られている。
 印象的なのは次の部分だ。

新聞や雑誌には、「学校へ行けない子どもに決して強要してはならない。学校へ行けない場合には、無理やりに学校に連れていってはいけない」とありました。本当に今も、いろいろな本とかカウンセラーたちが、閉じこもっている子を無理やり外に出してはいけないとか、学校へ連れていってはいけないとかいうようにいっています。そして、今も、そういう考えが主流を占めています。困ったことに、これらの忠告や知識は母親が自分の子にていねいにふれて感じながら二人の関係をつくり上げることをストップさせます。(p72)

 「自分の子どもが不登校になった。教育雑誌やネットを見る限り、そっとしておいてあげることが大事だろうな…」。著者の鳥山氏はこういう親の態度に批判的だ。子どもと向き合っていないからである。ひょっとしたら、学校を休むことを通して、「もっと私に関わってほしい」というメッセージを子どもが発しているかもしれないではないか、と。
 私の専門はフリースクールである。日本的文脈において、フリースクールは「不登校の子がいく所」という認識になっている。子どもが不登校になった時、「とりあえずフリースクールに行かせればいいかな」と安易に親が考えるようでは駄目なんだな、と本書を読んで感じた。
 フリースクールの活動はそれ自体は子どもの学習権の保障や、「子ども中心の教育を行う」という意味合いで重要な実践である。けれど、だからといって「わが子が不登校になったら、フリースクールにすべてお任せ」ということがあっては子どもが不幸になる。フリースクールがあるからと言って、親が子どもに関わることを避けていいわけではない。新聞やテレビなどで専門家のいう言葉を鵜呑みにして、子どもと関わることを放棄しては本末転倒なのである。自分で考えて、自分から向き合っていくことを忘れてはならない。
 「フリースクールに行かせれば何とかなる」という判断は、あくまで子どもと向き合った上で行うべきなのだ。そうでなければ、イリッチの言う「価値の制度化」が起きてしまう。
 親として、子どもと向き合うことから逃れてはいけない。そういう強烈な主張を受け取った。

 …けれど、この本は人々を不安に陥れる恐ろしい本でもある。一見、うまく行っている家庭であっても、親の「うまく育つことができなかった」点のために家族が崩壊していることがある、という事例を多く提示するからだ。家庭の様子は外と比べることが少ないだけに、問題はなかなか表面化しない。
 昔の映画に『家族ゲーム』があった。名優・松田優作の遺作である。奇妙な性癖を持つ家族の日常を描いた映画だ。その家では、細長い机に横一列になって座 り、食事をする。飛び回るヘリコプターの騒音のBGMが、どことなく不安定な一家の姿を暗示している。けれど、この家族の中ではこれが当たり前の姿なの だ。
 『家族ゲーム』を奇妙と言えるのは、この家族の外部に自分がいるからだ。『家族ゲーム』の中の家族にとっては、これが当たり前の姿。何の疑問も提示されない。自分が育ってきた家庭環境は、外部から見ると映画同様に奇妙に映っているのかもしれない。
 『居場所のない子どもたち』を読みながら、「自分は大丈夫なのか?」「きちんと育つことができたのか?」、と何度も不安に感じる。だって、『家族ゲーム』の奇妙さは、外部の人間にしか分からないのだから。自分の育ってきた環境は、外部から見ると「奇妙」としか言いようがないことがあるのだ。それゆえ、不安に駆られる。
 読み終えたときには、「人間がきちんと育つことなんて、本当にあるのだろうか? この著者は不安をあおっているだけではないのか?」と強烈に感じる本である。
 

幸福実現党の適当さ

高田馬場で幸福実現党のビラを配っていた。

2030年に人口3億人・国内総生産世界一を実現、と謳う。別に魅力を感じもしない。

もっといいプランを示せないのか?

映画『マトリックス』(1999年)

映画『マトリックス』(1999年)
監督:アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー
主演:キアヌ・リーヴス
 表面上は1999年の社会。けれどそれは機械が人間に見せている虚構の現実であった…。主人公・ネオはモーフィアスの助けでその事実に気づく。機械用の生体熱エネルギーを得るために、人間が「栽培」される世界。これが「現実」の世界だったのだ。ネオのことを「救世主」と信じる仲間と共に、ネオは機械への戦いを開始する。こんなストーリーの本作、多くの方はもう見ておられるのではないだろうか?
この映画は社会学者・ボードリヤールの理論を基にして作られた。それだけに、非常に哲学的かつ学問的内容の示唆が多い映画である。見ていて、非常に勉強になった。少なくとも、あと2回くらいは観ると思う(ツタヤはそれまで待ってくれないが…)。
 箴言として残しておきたい文章も多い。「入り口までは案内した。扉は自分で開け」・「救世主であることは恋愛と同じ。それは自分でしか分からない」・「道を知ることと実際に生きることは違う」。
 特に気に入ったのは「マトリックスの正体は人から教えられるものではない。自分で見るものだ」との台詞。教育学に通じるものがある。思想家・イリッチは「教えられるのを待つようになる」という「学校化」現象を批判した。教えられるのでなく、「自分で見る」こと・自分で「学ぶ」ことの大事さを語っているように思う。
 もう一つあげるなら、「人生は自分で決めるもの」という言葉であろう。ネオも「予言者」も語ったこの言葉は、本作のキーフレーズである。本作ではネオは何度も選択を迫られる。真実を知るか否かも、ネオが自分で決めたことなのだ。
 本作のテーマは、機械に〈生かされる〉社会から、人間が〈生きる〉社会への転換の必要性についてである。真実を見つめず、〈生かされる〉生き方をするほうが容易である。けれどそれは人間の本来生きるべき道ではない。たとえ困難であったとしても、人間として〈生きる〉生き方をこそ選ぶべきなのだ。そのためには行動しなければならない。どんなにキツイ戦いになったとしても。真実を知ることには、行動する義務が付きまとうのだ。
 けれど、真実を知ることは辛い。途中でやっていられなくなる。ネオ達を裏切ることになるサイファーがいい例だ。寒くて食事も不味く、楽しいこともない現実社会を生きるくらいなら、仮想現実の作り出す夢の世界を生きればいいじゃないか。そして彼は「無知は幸福」と言ってのける。
 たとえそうであったとしても、現実から逃げないで戦い続けるべきことをネオ達は示している。宮台真司の著書に『終わりなき日常を生きろ』がある。現在は輝ける未来もなく、かといって世界の終焉もなく(ハルマゲドンは存在しない)、いまと同じ日常が延々と続く時代である。けれど、そうであったとしても生き続けなければならない、と主張する本だ。
 『マトリックス』の世界は、宮台の言っているような社会であるように思う。現実社会はキツくて辛い社会である。仮想現実の夢に戻りたくなるけれど、それでもネオ達は生き続けなければならない。
 現実が暗くてキツくてショボいなら、仮想現実の夢を見たくなる。あるいは現実から逃避(引きこもり、自殺など)したくなる。それであっても、生きなければならない。そんな現代の困難さを実感した映画であった。

『シャドウ・ワーク』第1章から。

それぞれのコミュニティが、地域に生きる民衆の草の根の声として「平穏に暮らしたい」という主張をいかに表現することになるだろうか、私にはわからない。たしかなことは、どの主張も、それぞれのコミュニティにおいて固有かつ独自なやり方で明示されねばならないだろうということである。(pp37-38)

 イリッチのこの文章が印象的であった。
 平和には一つの形は存在しない。外部から「これが平和だ」と押し付けられるものではない(9・11後のイラク戦争で平和をもたらすことはできなかったことを想起されたい)。外発的な平和ではなく、内発的に人々の発意によって成立した、コミュニティ独自の「平和」を目指すべきなのだ。一つではない平和、つまり「多様な平和」とでもいえようか。少なくとも言えることは、「こうすれば平和になる」という処方箋は存在せず、コミュニティの中で「これが平和だ」といえるものを考案していかなければならない、ということだろう。
 この章の始めにも、次の言葉がある。

民衆に平和を取り戻させるには、経済開発にたいして草の根からの民衆の手で制限を加えることが重要なことと考える。(p19)

 「草の根から」の平和運動、それも「経済開発にたいして」「制限を加える」運動が必要となってくる。この文章の後、イリッチは国連の創設以来、「平和は徐々に『発展=開発』と結び付けられてきた」(p26)ことを主張する。この意見は非常に開明的だ。私も無意識的に「途上国が開発を行うことで、人々は平和になる」と考えていた。けれど経済開発により、人々に本当の平和がもたらされるかというと、そうではない。文化やアイデンティティ・言語の喪失、環境破壊など平和とは逆行してしまうことも多い。そもそも、「発展」や「開発」が他からもたらされるものであるなら、そこに住んでいた人々に「これが平和だ」と理想の平和像を押し付けることになってしまう。
 イリッチは意識していないと思うが、このような「多様な平和」という概念は多文化社会やグローバル社会においてこそ必要となるであろう。現在は価値観が多様な時代である。何をもって「平和だ」と意識するかも人それぞれ・コミュニティそれぞれに違ってくる。コミュニティ外の人々は、「これが平和だ」と押し付けることがあってはならない。
 「これが平和だ」と同じ構造を持つのは「あれは平和ではない」「あれは暴力国家だ」という言説である(と思う)。私が不思議に思うのは、北朝鮮の内情を見たわけではないにも関わらず「北朝鮮は反社会的国家だ」と糾弾してよしとする人々の姿勢についてである。案外、北朝鮮の人々は平穏に暮らしているかもしれない。北朝鮮の対外政策では拉致被害者やミサイルが話題になるが、ソ連時代にも似たような事件はあった(少なくとも、発生可能性はあった)。けれどソ連の人々が皆悲惨な生活をしていたとはいえないはずであろう。平和を満喫できた人々も結構いたはずだ。勝手な決め付けは真実を見えなくさせることがある。北朝鮮問題の真実を私が知っているわけではないが…。

岩波現代文庫『シャドウ・ワーク 生活のあり方を問う』

本書はイリイチを玉野井芳郎・栗林涁が訳した。

目次。
1 平和とは人間の生き方 17
2 公的選択の三つの次元 39
3 ヴァナキュラーな価値 79
4 人間生活の自立と自存にしかけられた戦争 123
5 生き生きとした共生を求めて 民衆による探求行為 161
6 シャドウ・ワーク 205

ちなみに、本書のカバーにはこんな言葉が書かれている。

家事などの人間の本来的な生活の諸活動は、市場経済に埋め込まれ、単なる無払い労働としての〈シャドウ・ワーク〉へと変質している。そのような現在の生活からの脱却を企て、人間の生き方として、言語・知的活動から、平和の問題までを縦横に論じる。鋭い現代文明批判で知られるイリイチの思想理解への格好の書。

「格好の書」になるといいな。

フリースクールに大事なもの、ミーティング

フリースクールにおいて重要なものは何か。あまり知られていないが、それは「ミーティング」である。

フリースクールの運営について、子どもとスタッフが話し合う場。次のイベントの企画や、フリースクール内でのルールについて等。実際の所、「フリースクールの命」とも言えるものであるのだ。

平等な立場で議論をする。いわば「平等」権をもとにした制度だ。フリースクールというと「フリー」の語に引っ張られ、「自由」のみが重視されるきらいがある。けれど、そうではない。フリースクールの「フリー」とは無条件の自由を意味するのではなく、設備や他者との折り合いの上での「自由」である。利用可能な資源の中で、有効な使い方を考える上での「自由」なのである。

ミーティングの存在は、フリースクールを語る上で欠かせないものである。フリースクールの子どもたちはこれを通じ、コミュニケーションスキルを向上させていく。

イリッチは「脱学校化」した後のフリースクール的なものに対し「学び」を求める。イリッチは、たとえば語学などの教材を学ぶという「実質陶冶」の学びを主張する。教材に頼るイリッチよりもミーティングを行うフリースクールの方がより「形式陶冶」を行っていると思われる。

※『教育学用語辞典 第四版』には、次のようにある。「形式陶冶は、(中略)知識それ自体よりもこれらを習得するのに必要な推理力や想像力などの訓練を重視する立場である。これに対して実質陶冶は、心理的ないし精神的諸能力よりも児童生徒が教材内容を習得することで客観的な知識や技能を獲得することを教育の目的とする立場である」(186頁「陶冶」貝塚茂樹の文章)

…今回は、書いてて自分自身よく分からなくなりました。忘れてください。

現代人

荒川の駅。

出口の無い、切羽詰まった現代人の内面をえがいているようです。

『脱学校の社会』を読む(第7章p190~209)

『脱学校の社会』を読む(第7章p190~209)
●ギリシャ神話の「パンドラの箱」。パンドラとは「すべてを与えるもの」。
●「はびこっている諸悪の一つ一つを閉じこめようとして、そのための制度づくりに努力するプロメテウス的人間の歴史なのである。それは、希望が衰退し、期待が増大してくる歴史である」。
●希望と期待の区別の再発見の必要性。
希望:「自然の善を信頼すること」「われわれに贈り物をしてくれる相手に望みをかけること」
期待:「人間によって計画され統制される結果に頼ること」「自分の権利として要求することのできるものをつくり出す予測可能な過程からくる満足を待ち望むこと」
●「プロメテウス的エートスは、今日希望を侵害している」「人類が生きながらえるかどうかは、希望を社会的な力として再発見するかどうかにかかっている」
●原始時代、人類は希望の世界に生きていた。古代ギリシャ時代から、希望を期待に置き換えることをはじめた。
●プロメテウスとエピメテウスの二人の兄弟。
●ギリシア人は「合理的で、権威主義的な社会を築いた。人々は、はびこる悪に対処するつもりで制度をつくり上げた」
●「彼らは、自分自身の要求や将来における子供たちの要求が、人為的につくられたものによって形成されることを望んだ」
●原始時代:個人を儀礼に神話にしたがって参加させることを通し、社会の慣わしや知識を個人に教えていった。
古代ギリシア人:教育によって、前の世代の人々がつくりあげた制度に自らを適応させる市民だけを真の人間として認めた。
→夢が「解釈」される世界から、神託が「創ら」れる世界への移行を反映している。
●「人々は、彼らの生活を規定する法律をつくることや、環境をおのれのイメージに合わせてつくることに責任をとった」。「神話的生活への原始的な導入の儀礼は、市民の教育に変えられていった」(p194)
●「運命、事実、および必然性によって支配」されていた原始の人々。
   ↓
プロメテウスは神から火を盗む。「事実とされていたものを問題とし、必然性とされていたものに疑いをさしはさみ、運命に戦いを挑んだのである」
   ↓
「運命として与えられた自然環境に挑むことはできるが、そのためには自分自身に危険のふりかかることを覚悟していなければならないことを知っていた」
   ↓
「自分のイメージにあわせて世界をつくり、全面的に人工でつくられた環境を築き上げようとする」「しかし(中略)それはむしろ環境に自分自身を適合させるよう、たえず自分を作り変えるという条件のもとでのみ可能であることに気づく」
   ↓
結果として「今、われわれは、人間というもの自体が危機に瀕している事実を直視しなければならない」
→要はどういうことか。自然を作り変える・手を加えることで現在の文明が成立した。しかしそれに伴い、人間自体も変化させられることとなった。人間も自然の一部であるゆえ、自然に手を加えるならば何らかの形で自分自身にも手を加える結果となるからだ。それが環境破壊や環境ホルモンの問題として現れてきている。だからこそ「人間というもの自体が危機に瀕している」といえるのではないか。
→「自然に手を加えよう」とする思いが、プロメテウス的人間の行動だといえるのではないか。「ありのままに任せていこう」という思いがエピメテウス的人間といえるのではないか。
●現在は「欲望と恐怖までもが、制度によってつくり出される」。価値の制度化が進んでいるのだ。(p195)「学習自体が、教科内容を消費することと定義される」
●「望ましいのものはすべて計画されたものなので、都市の子供はやがて、人間は人間のどんな欲求を満足させるためにも、そのための制度を作れると考えるようになる」(195頁)
→本当に必要なものではなく、社会が私に「この商品が欲しい!」と思わせるのではないか。つまり、社会が高度になるほど、社会が人々の需要を作り出す。社会のことをイリッチは「制度」と言い換えていると考えるのであれば、制度が価値を定める、価値の制度化がいたるところで成立することになる。その例が「月への乗り物が考案されれば、月に行くという需要もまた作りだされるということになる」(196頁)ということである。
 その結果、「たえず需要の増大する世界は、単に不幸というだけでは言い尽くせない。―それは、まさに地獄にほかならないのである」(196頁)。
●「人は、制度が自分のためになしえないことがあるなどとは考えることができないので、何でも求めるという欲求不満の原因になる力を発達させてきた」(197頁)。悪文。要は、人々の欲求不満が増大してきたということだ。プロメテウスが火を神から盗んでくるまで、自然というものに対し、人間には「あきらめ」があったはずだ。動物が捕れないならばあきらめて死ぬしかない。どんなに上手くない魚を釣ったとしても、空腹ゆえに諦めて食べるしかない。その世界は諦めで満ちている反面、幸福を感じることもまた容易だったのではないか。ほかにモノがないのだから、きちんと食事ができ、元気に一日を過ごすことができれば、それだけで幸福だったはずだ。
 現代は衣食住すべて揃い、体調も良好であったとしても「欲求不満」が増大するゆえに人々が不幸になる社会である。
●冷戦の影響を受けてか、『「原爆発射のスイッチ」は、今や「地球」の生死を制することができる』という書き方をしている。
●「われわれの制度は、それ自体の目的を作り出すばかりでなく、それ自身、およびわれわれの生存にも終わりをもたらす力をもっているということである」
→この例として、イリッチは軍隊を出す。「軍事用語における安全は、地球をなくしてしまうほどの破壊力をもつことを意味する」。
●「学校は、計画化された世界へと人間を導きいれるために人間を加工する、計画的に作り出された過程となった。学校は、一人一人の人間を、この世界的ゲームの中での役割を演じるのに適するレベルにまで形成するものだとされている。われわれは容赦なく耕作をし、さまざまの措置を講じ、生産活動をし、学校教育をするが、そうすることによって世界を消滅させていくのである」(199頁)
→地球が限界を迎えるのを加速する働き。教育にはそんな側面もある。
●「制度の目標は、制度のつくり出すものとは絶えず矛盾する」(201頁)。「貧乏胎児の計画は、ますます多くの貧乏人を生み出し(中略)学校は、より多くの脱落者を生み出す」
→学校がある限り、「学校が合わない」人間は必ず存在することになる。社会的受け皿がない限り、そのひとたちは不幸に陥ってしまう。この「制度の目標」と「制度の作り出すもの」の両方に目を向けていくべきである。
●「最後に、教師、医者、および社会事業家は、彼らの専門職的仕事が少なくとも一つの共通する側面をもっていることに気づいている。その共通点は、彼らが制度的世話を提供すると、それに対する需要が一層高まっていくということである。しかも、その需要の高まりは、彼らがサービスのための制度を拡充できる速さよりも一層速いのである」(203頁)
→本書の最終結論部分であろう。学校のスリム化・「小さな学校化」は私の考える理想社会であるが、その理論を支える言説となるであろう。「学校化」とは「教えられるのを待つようになる」「教えられたことだけに価値がある」と考える思考形態のことをいう。学校がある限り、人々は自分から学ぼうとはあまりしない。学校というものの持つパラドクスである。
●「人々にその生産物が必要だと思い込ませるために使われた教育費は、その生産物の価格に含まれる。学校は、人々に現状のままの社会が必要だと信じ込ませるための宣伝機関である」(204頁)
→この「教育費」とは広告費のことであろう。
●「われわれは、期待よりも希望のほうが価値があると考える人々につける名前を必要としている。われわれは、製品よりも、人間を愛する人々、また次のように信じる人々につける名前を必要としている。
 まるでつまらないなどという人はいない。
 人の運命は、星野めぐりのようだ。
 人々それぞれに独特である。
 星それぞれが異なっているように。
と信じるのである。(207~208頁)
→この「名前」とはイリッチがラストでいう「エピメテウス的人間」のことである。
→「期待」とは人間が作った需要による欲求のことではないか。制度がもたらす欲求不満には際限がない。それよりもごく自然に存在する「希望」を求める生き方のほうが人間にとって住みやすい社会となるのではないか。
●「われわれは、次のような人々につける名前を必要としている。彼らは、プロメテウスの弟と協力して火をともし、鉄を鍛えるが、その目的は、他人のそばにつきそってその人の世話をしてやる自分たちの能力を高めることである。
 誰にも自分ひとりの世界がある。
 その世界でのすばらしいひととき。
 その世界での悲しいひととき。
 どれも自分ひとりのもの。
という認識を持ちながら。
 私は、これら希望に満ちた兄弟姉妹たちをエピメテウス的人間と呼ぶことを提案する」(209頁)
→理想の人間社会像。
おわりに
●この章は、「脱学校」にほとんど関係がない章であると思う。けれど、読んでいて感動すらする章である。