2009年 5月 の投稿一覧

高校生畏るべし

 私が母校の寮に学生ボランティアとして関わるようになって、今年で3年になる。関わりはじめた頃の高校1年生が、来年には卒業していく。感慨深い年である。高校生と話す方が、早稲田生と話すよりもためになる事がけっこうあるのだ。
 昨日は寮生のK君と洗面台のそばで話した。彼は高校1年生である。

K「石田さんは今まで何冊本を読んできたんですか?」
私「大学時代に、ざっと750冊くらいかな」
K「じゃあ、良書は何冊読んできたんですか?」
私「良書? 『カラマーゾフの兄弟』とか『エミール』とかのことだよね。大体50冊くらいかな」
K「あんまり良書は読んでおられないんですね」
私「……。」
K「石田さんは『カラマーゾフの兄弟』を読んでるんですよね。読んでどう変りました?」
私「え、……。でも『モンテクリスト伯』を読んだ時はめちゃくちゃ感動したよ」
K「そんな本も読まれてるんですか。にじみ出ませんね」
私「う……。」(涙)

 大学の友人や先輩/後輩、大学の教授が聞いてくるレベルを遥かに超えた発問であった。グサグサ胸に刺さってくる。K君は決してイヤミで言ってくるのではなく、にこやかに話してくるのだ。この文章を読んでいる方。高校生にこのように言われたら、私同様泣くしかないですよね? 
 よく教育において〈子どもから学ぶ〉姿勢が大切だ、と言われている(灰谷健次郎の十八番である)。タテマエでも何でもなく「まさにその通りだなあ」との思いを新たにした。深夜2時にも関わらず、一気に眠気がひいたのである。

 K君の話の中で注目すべき点がある。それは学ぶという事は学ぶ者に〈変化をもたらす〉ものだという認識である。K君の「どう変りました?」「にじみ出ませんね」という言葉に象徴的に現れている。ある教育学者は「学んだことの証しは、ただ一つで、何かが変わることである」(林竹二『学ぶということ』)という言葉を残している。これは昨年読んだ教育関係の書の中で最も印象深かった言葉である。K君はおそらく直感的に学びの本質を見抜いていたのであろう。後生畏るべし、との思いを強くする(ここでは後生ではなく、「高校生」とすべきであろうか)。相手が子どもというだけで軽く見てはならないのだ。

 この文を、私は寮からの帰りの西武線車内で書いている。もうすぐ〈我らが母校〉の高田馬場に到着する。さて、〈良書〉を久々に買いにいくとするか。

『脱学校の社会』を読む⑤ 第四章103〜123

『脱学校の社会』第4章 制度スペクトル

キーワード:操作的制度、「相互親和的」制度(convivial institution)、偽りの公益事業

●操作的制度と「相互親和的」制度(convivial institution)とは?

操作的制度:「現代をまさに特徴づけるものであって、ほとんど現代を定義してしまう」(104頁)「圧倒的に有力なタイプ」(同)
→具体例:「法律を執行する制度(…)制度スペクトルの右のほうに移ってきた」(105頁)、「現代の戦争」(106頁)
「顧客の操作を専門とする社会制度」(106):「軍隊と同じように、それらはその作戦範囲が広がるにつれて、その意図とは反対に影響を拡大する傾向がある」(同)
→顧客に対し、意図的にサービスを買わせる仕組みである。
「高度に複雑で経費のかかる生産過程となる傾向がある。そしてその過程の中では、その制度の努力と支出の大部分は消費者に、その制度が彼らに提供する製品または世話なしには彼らは生きていけないと信じ込ませることに向けられる」(108〜109)
「人々がそれを利用すると、その利用に関して社会的または心理的に「中毒」に陥らせる性質をもつ。社会的中毒というのは、換言すれば規模拡大(エスカレーション)であり、少量の使用が目的とした結果を生じない場合、その処置量の増量を処方する傾向にほかならない。心理的中毒ということは、換言すれば習慣化することであり、それは消費者が生産過程や生産物をもっともっと必要とするようにさせられたことの結果なのである」(109)
「公衆の趣味の操作」(111)「操作する(プロデュース)」(113)

「相互親和的」制度:「比較的控え目」(105頁)、「前のタイプよりも人目をひくことのないもの」(同)、「私はこれらをより望ましい将来のためのモデルとする」(同)、「制度スペクトルの一番左におくことにした」(同)
「利用者が自発的に使用することが特徴となる制度、すなわち『相互親和的』制度」(107)
「電話交換所、地下鉄網、郵便事業、公営市場や取引所は、顧客にそれらを使用するように勧誘するための売り込みを全然必要としない。下水道や上水道施設、公園および歩道は、それを利用することが自分の利益になるのだと制度的に説得される必要なしに人々が使用する制度である」(同)
「使用されるための制度を運営する規則は、その制度が誰にでも利用しやすくなっていることの裏をかくような濫用をさけることを主たる目的としている」(108)
「現在、われわれにはコンピュータによって電話が濫用されることを禁止する法律や、広告業者による郵便の濫用と工業廃水による下水道施設の汚染を防止する法律が必要である」(同)
「相互親和的制度の規則は、その制度の利用をある程度制限するものである」(同)
「顧客のイニシアティヴで行われるコミュニケーションや努力を便利にするネットワークとなる傾向がある」(109)
「左側の自己活動的制度は、同時に自己限定的でもある。これらのネットワークは、単に消費の行為を満足と同一視する生産過程とは異なり、それを反復して利用すること以上の目的に役立つのである」(109)

→各種の制度を考える際、この二つの制度をそれぞれの右端・左端におくと、対象の制度がどのような特徴を持つのかつかみやすくなる(本文より)。
→なお、スペクトルについてwikipediaでは次のように説明している。
【 その他のスペクトル
政治学では、イデオロギー分布に基づいて諸政治勢力(政党が中心だが、議会外野党や反体制組織まで範囲を拡大する場合もある)を配置した模式図、ないし配列そのものを政治的スペクトル(political spectrum)として、分析ツールの一つとして用いている。一般には、左に左翼勢力を持ってくる。対象は、一般的な政党や各国の具体的な政党など、自由に設定でき、特定の政党内部での派閥の配置を表現することも可能である】
→「一般に左から右へ移動するこのようなスペクトルは、今までに人々やそのイデオロギーの特徴を示すためには用いられてきたが、社会全体やその様式の特徴を説明するために用いられることはなかった」(105頁)
→「制度スペクトルの相互親和的な端から操作的な端に移動するにつれて、そこでの規則は、しだいに、人々の意に反した消費または意思に反した参加を要求するものとなってくる」(108)
→「十代の若者を除けば、受話器に向かって話すことの喜びのために電話を使用することはないであろう。もしも他人に連絡をとるのに電話が最善の方法でなければ、人々は手紙を書くなり、出向くなりするであろう。これに対して右側にある制度は、学校の場合にはっきりするように、強迫観念的に繰り返し用いることをさせるとともに、同じ目的を達成するためのほかの方法を阻害するのである」(109)

「スペクトルの真中」(110):「繊維やたいていの破損しやすい消費材の生産者」(同)

偽りの公共事業

●高速道路は「右側の制度に直接通じるものがある」(112)。「われわれは高速道路の性質と真の公益事業の性質とを明確に区別しなければならない」(同)
→「高速道路は私的な分野でありながら、そのコストの一部分がひそかに公共部門から支出されているものなのである」(同)
「高速道路網は主として自家用車のアクセサリーとして役立つのである」(113)

●「貧しい国に移植された「近代的」な科学技術は、三つの大きなカテゴリーに分けられる。それらは、製品、製品をつくる工場、およびサービスを提供する制度である。サービスを提供する制度ーその制度の中の主要なものは学校であるーによって人々は近代的な生産者と消費者に変えられてしまう」(115)
「すべての「偽りの公益事業」の中で、学校は最も陰険である」「学校はスペクトルの右端に群がる一群の近代的制度全体を創り出すのである」(116)

偽りの公益事業としての学校

●「偽りの公益事業」高速道路を基にし、さらにタチのわるい「偽りの公益事業」学校を批判する。
●「高速道路と同じように、学校は初め見たときにはすべての人に対して平等に開放されているような印象を与える。実際は、学校はたえず信任状を更新する者に対してのみ開放されているのである。学校は近代的な科学技術を使用する社会において、必要な能力を身につけるために不可欠なものと考えられている」(116)
●「学校もまた同様に、学習はカリキュラムを教えられることの結果だとする見せかけの仮定に基づいている」(同)
「学校は、人々の成長し学習しようとする自然な傾向を、教授されることに対する需要に転換するのである。他人によって成長させてもらおうとすることは、製造された商品を求めることよりももっとよけいに自発的活動の意欲を放棄させる」(117)
「学校は人々に自らの力で成長することに対する責任を放棄させることによって、多くの人々に一種の精神的自殺をさせるのである」(同)
→ある意味、イリイチの主張はスローライフ運動に近い。
「学校は、完全な逆新税のシステムであり、そこでは特権を与えられた卒業生が、税金を納める全公衆の背に乗っている」(同)
高速道路との違いについて。「誰も自動車を運転することを法律で強制されないが、学校に通うことはすべての人が法律で義務づけられているのである」(同)
→本来の公益事業は相互親和的制度であるべきだ、というのがイリイチの主張である。イリイチは「偽りの公益事業」として高速道路を批判する。高速道路を作るのには国民の税金が使われている。けれどここを利用できるのは車を持っていて、ある程度お金のある人だけである。車を持っていない人は、自分のお金で作られた道路であるにもかかわらず利用できないのである(友人は「スーパーで新鮮な野菜や魚が食べられるのは高速道路を使いトラックを走らせているからなのだから、恩恵を受けていると言えるのではないか」といっていた)。
 高速道路同様、学校も人々の税金で作られている。けれど学校に入って勉強するのにはお金がかかる。ただでさえ税金で給料がひかれるだけでなく、自分の金で作られた学校でありながら、貧しいと行くことができない。

●「人々は学校による教育だけを教育と誤解し、医療サービスを健康と、予定表を忠実に実行することをもてなしと、およびスピードのあることを効果的な移動と混同するようになる」(121)
●「制度によって与えられるサービスを増やすことではなく、むしろ人々に活動すること、参加すること、および自分の力でやることを絶えず教育する制度的枠組みなのである」(122)
「われわれはサービスを提供する制度ーなかでも教育を提供する制度ーを若返らせることから始めなければならない」(同)

まとめ
●「操作的制度」とは人々を受け身にさせる制度のことである。対して「相互親和的制度」とは人々の自発性を重視した制度である。別に不必要なら使わなくてもいい。けれど、万人に開かれているという制度である。

雑感
●イリイチは同じことを何度も形を変えて説明する。学校によって本来の学びが無くなってしまうということを、「価値の制度化」や「制度スペクトル」などの概念を用いて説明し直しているだけなのだ。改めて『脱学校の社会』を読み直して気づいた。
●イリイチのいうように(義務制の)学校を廃止するとどうなるだろうか? 一気になくすと、様々な混乱が起こることは確かだ。教員の生活は? 塾産業は? 教科書会社はどうする? 子どもはどうやって学ぶのか?えとせとらetc。脱学校に対する批判はこの「急激になくした」ときに発せられるものが多い気がする。けれど、漸進的に学校をなくしていくならどうであろうか。学校のダウンサイジングから始めていき、塾産業や民間の学び舎が育っていくのを待つ。人々の教育への意識や共同体意識の熟成を待つ。徐々に学校を減らすならばそれほど混乱もなく移行できるであろう。イリイチの主張をすこしアレンジして、現在のフリースクールのように「行きたい人は学校へいってもいいし、フリースクールに来てもいい」スタンスにしておくとなお良いだろう。大事なのは脱学校を行うことがいくら正しかったとしても、移行期間中に子どもにデメリットを生じさせないよう考慮していくことである。

葬儀の持つ、根本的問題点について。

葬式に来てほしい人を、死んだ本人が決めることはできない。そのためしばしば来てほしくない人が葬儀に来て、来てほしい人には死んだことすら伝わっていないということがよくある。けれど本人が死んでしまっているが故に、誰もこのことを問題にしようとはしないのだ。

映画『ウォーリー』

 早稲田松竹で公開中の映画『ウォーリー』が面白くて仕方ない。大学に入ってから結構映画を見てきたが、同じ映画を映画館で2回以上見たのは本作が初めてだ。

〈環境汚染のため、人類が地球を見捨て宇宙に出た。その際、一台だけスイッチを切り忘れたロボットがいたならばどうなるのだろうか?〉。このアンドリュー・スタントンの問題意識が、本作を構成した。

 設定ではウォーリーは700年間一人で働く中で感情が芽生えてきた、とされる。ウォーリーはクライマックスにおいて一度故障し、マザーボードを交換しているが、その際彼はプログラムに忠実に従うだけの存在となってしまう。本来のウォーリーには感情も何もなかったのだ。
 時の経過により、感情を得たウォーリー。彼には他のロボットに感情を与える作用があるようだ。ロボットに感情を与えるという〈啓蒙〉を行っている。ウォーリーと会う以前は従順にオートパイロットや人間の命令に従っていたであろうロボットたち が、ウォーリーに味方をし、反乱を起こすようになるのはそれが理由であろう。
 イヴというヒロインのロボットは初め、全く女性性を見せない。他のロボット同様、ウォーリーとの交流の中で、徐々に女性性が発揮されるようになってくる。だからこそ大団円でのウォーリーとの〈握手〉は非常に印象深いものとなっている。
 
 映画のラスト。アクシウム艦が地球に帰還する。植物が育つようになったとはいえ、砂嵐が頻発するなど(映画中、ウォーリーは2度も嵐に教われていました)自然環境はまだまだよくない。イヴは原子力発電所のプラントを破壊していたが、放射能汚染はないのだろうか? 
 ラストシーンを見ていて、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を思い出した。『ナウシカ』は「火の7日間」により文明が崩壊した後の物語である。一度絶頂を迎えたあとの残滓で人々が暮らしている。中世同様の生活をしていながらも、何故か一人乗り飛行機(メーヴェですね)や飛行艦隊が存在する歪な世界である。アクシウム艦の住人にはコンピュータの蓄えた膨大な知識と智慧が与えられている。けれど聞かない限りこれらの知識をコンピューターは教えてはくれない(艦長は「土って何?」「海って何?」という三歳児レベルの質問をコンピュータにするまで、これらの存在を知っていなかった)。ロボットも多数存在する社会ではあるが、もはや住人はその構造すら知っていない。
 はたして映画のあと、この世界はどうなるのだろうか。私ならば「アクシウム艦に乗っていた頃が懐かしい」と復古主義に走る。艦長は「生き残るのではなく、生きたい」と主張するが、この生き方は相当ハードである。自分で道を開かないと行けないのだから。少数には可能でも、大多数の人間にとってやはり「宇宙こそパラダイス」(映画中に出た、BNL社のCMより)であり、懐かしき故郷となるのではないだろうか。

追記
●いい映画は、何度見ても鑑賞に堪える。もう一度、観に行ってこようと思う。実は『ウォーリー』もそうだが、同時上映の『マジシャン・プレスト』も見たいのだ。
 中谷彰宏は〈同じ物からいくらでも学べる人が学習力のある人だ〉といっていたのを思い出す。自分が「これだ!」と決めた本・映画を徹底して学んでいく姿勢も重要なのである(おそらく師匠などの「人」もその対象に入る)。いまは16時。17時上映分を観に行こう。
●それにしても。この映画で主役たちを「食って」しまうほどの演技(活躍?)をしたのはモーというロボットだろう。〈汚染物質〉まみれのウォーリーの足跡(キャタピラの跡)をひたすらに掃除し続ける執念が、観客に笑みを与える。エンドロールでも大活躍であった。
●映画『ナウシカ』を観た時と同様、観賞後に非常に感傷的になる映画だ。映画の世界にノスタルジーを感じてしまう、ということだろうか。
●ウォーリー、イヴ、モー、オートには、目しかない。けれど目の存在により、人間らしさが表現されているように思う。人体において「目」の存在は大きいのかもしれない。
●『2001年 宇宙の旅』が下地になっている。オートの目が赤く、一つ目であるのも『2001年』の影響だ。艦長が立ち上がってオートと格闘するシーンでは『2001年』のテーマが流れるのである。
●艦長は地球に戻ることを、はじめ嫌がる。それは「いつもと同じ」に憧れるからだ。けれど、ウォーリーの体に付着していた物質(「土」のことです)を契機に、地球についてをコンピューターから教わって後、艦長は自らの意思で行動を開始する(それまではオートパイロットの言いなりであった)。これは何故であるのか。
 ベーコンは「知は力なり」といった。知ることが力になる、との意だ。自分の行動の意義を「知る」ことによって、人は主体的な行動がとれるようになるのであろう。艦長は地球復興を目指す。ようやく2本足で立てるようになった(比喩ではなく、文字通りの意味です)艦長たちが、世界を新たに造っていくのは不可能ではないだろうが、かなりシビアなことである。けれど不可能そうなことに挑んでいく上で、「知る」ことは大きな力になるようである。
●宮台の『終わりなき日常を生きろ』。そこには最近のアニメが「ハルマゲドンそのもの」を描くものから「核戦争による終末後の世界」を描くものに変わっていったことが書かれている。本作『ウォーリー』は後者の「週末後の世界」を描いていると考えられる。

あきらめ

 大和少年野球クラブに私は入っていた。兵庫県にある八千代西小学校という1校の生徒から構成されている、地域の野球クラブである。町の中には(注 その当時、わが八千代町は合併前でした)北小・南小で構成された八千代少年野球クラブも存在した。なかなかに練習がハードであった。
 実力はなく、弱々しい私であったが、人数が少ないのと、たまたま「9番目」前後の力量を保っていたため9番ライトのレギュラーだった。一番軽い場所にいたわけだ。よく考えると、ギリギリ「レギュラー」というあり方は今のサークルでの私の立ち位置と同じである。
 少年野球をやっていたとき、はっきりいって私はやる気がなかった。けれどやめるのも色々面倒なので(チームメンバーとは基本的に学校でも会うため気まずいのだ)、しかたなく不本意ながらやっていた(でもやってる中では楽しくなるんだけどね)。これ、いまの私のメンタリティーとも共通する。
 人生、〈気づけばイヤイヤながらやってしまっている〉ことが多い気がする。あきらめが肝心なのかもしれない。そう、辛くて当たり前だと認識して、「少しでも楽しむにはどうしたらいいか?」考えていく姿勢こそ必要なのだ。

追記
●タモリの「やる気のある者は去れ」との言葉は私のためにあるのかもしれない。

さらに追記。
●教育実習にいたとき、大和少年野球クラブが無くなったことを知る。ショックである。クラブの横断幕はどこへいったのだろう?

教育的作用について

ある日。

飲み会の後、私は新宿歌舞伎町をうろついていた。2次会にいく金が無く、だからといってまっすぐ家に帰るのも億劫だ。あてもなくうろつく。

まわりには派手な立て看板とそれを飾るランプ。キャッチや集団の騒ぎ声、喧騒。

ふと、私の視線が一カ所に定まる。風俗店の営業時間の表記。12時から24時までとなっている。

常識的に考えて、昼間から風俗店にいく人は少数派だろう。仕事帰りの18時から24時までの営業でもよいはずだ。それにもかかわらず、営業時間が昼間からなのは何故か。

その理由には教育的側面があるのかもしれない。夕方からの営業にしたほうが確かに合理的だ。けれどそうではないのは、入ったばかりの従業員が店に慣れるためではないだろうか。昼間は人が少ない分、新人は客とのやり取りや会話・〈仕事〉を学ぶことができる。夕方以降の繁忙期はベテランに仕事を任せることで売り上げを確保する。店の長期的運営を考えるなら、新人を教育できる時間帯を持っているほうがよいだろう。いまはやりの〈持続可能性〉を高めることになる。

そういえば、落語家が寄席を守ろうとするのは弟子の教育のためだそうだ(今井むつみほか著『人が学ぶということ』)。客商売も長期的スパンでものを考えるなら、一見非合理的に見える側面にも力を入れていかなければならないのだと思う。

ちなみに、ここに書いたものはすべて私の想像です。

私の好きな作家について

家にある本棚を見つめていて、わかったことがあった。

齋藤孝も野口悠紀雄も森毅も内田樹も、私の好きな作家はだいたいは大学教授である、ということだ。大学で教えつつ、ものを書くスタイル。学問的知見をもって書かれたエッセイにこそ、私は惹かれていたようだ。

好きな作家の名をあげ、その共通点を探る。やってみるとなかなかに刺激的だ。発見がある。

エヴァレット・ライマー『学校は死んでいる』抜粋

ブラジルの教育者パウロ・フレイレほど教育を的確に定義した人はいないが、彼によれば、人の現実を、それに対する有効な行動に導くような形で、批判的に自覚するプロセスこそ教育であるという。教育を受けた人は、自分の世界に適切に対処できるまでに、その世界をよく理解している。このような人が充分な数だけいたら、現在の世界の不条理をそのまま放置するはずはない。(225頁)

教育を受けることは、社会を変革することと同義である。うーむ、実に面白い。

大衆化、実用性、革命的目標が力説されながらも、論争は常に学校制度を如何に改革するかという論議であって、学校に代えて何かほかの制度を導入しようという発想はない。(43頁)

学校は昔から、子どもに考えさせないためには、忙しくさせて置けばよいことを知っている。(86頁)

→野口悠紀夫は〈大会社の社長ほど、一人旅を年に一度はすべきだ。職場を離れていろいろ考察することがなければ、会社の将来性はしぼんでしまう〉と、休暇/旅行の重要性を語る。実際、忙しいときには冷静な判断ができないことが多い気がする。

教育だけでは問題は解決できない。現在の安定がどれほど頼りない基盤に立ったものか、教育はそれに対して人々の目を開かせてくれる。実行可能な代案を具体的に認識させてくれるが、それを実現するためには、さらに何かが必要とされる。すなわち教育だけでは、革命的な社会変革をもたらすことはできない、ということだ。(pp227~228)

驚くなかれ、このように学校制度というものは、わずか1世紀足らずの間に、世界中のあらゆる国民の間で、あらゆる種類の価値を配分する主要な機構になってしまい、家庭や教会や私有財産制度がかつて果たしていたそういう機能を、大部分肩代わりしてしまった。資本主義国についていえば、学校がこれら旧来の制度の価値配分機能を肩代わりしたというよりも、強化したという方が正確かも知れない。(41頁)

子どもたちが学校で学ぶことは、学校の価値観だけではなく、その価値観を受け入れることであり、それを受け入れて体制の中で泳いで行くことでもある。子どもたちが学ぶのは体制順応の価値であり、この学習は学校だけに限られているわけではないが、学校に集中している。学校はたいていの子どもが最初に出会う、高度に制度化された環境である。(48頁)

我々は、段階づけられたカリキュラムの学習のために、教師が監督する教室に特定の年齢群の者が常時出席することを要求する機関として、学校を定義する。ある機関にこの定義が正確に当てはまれば当てはまるほど、その機関は学校のステレオタイプに近いということになる。教育における代案は、このステレオタイプから離れるものとして、最も一般的に定義することができる。その離れ方が学校制度の「引力」から逃れられるほど遠く、かつ速くないと、ふたたび学校制度に吸収されてしまう。(60頁)

→ライマーの学校の定義である。「引力」の比喩は印象的だ。イリイチと同じく、①フルタイムでの出席を要求し、②年齢ごとに授業し、③教師が授業をし、④その内容はカリキュラムで決められている、という要素をもつものが〈学校〉である。イリイチは技能修得や高等教育のための〈学校〉はあっても構わない、といった。ライマーはどうか?

学校教師は一人三役を演じる。アンパイアと裁判官と助言者だ。アンパイアとしての教師は、答えが正しいか誤りかを判定し、採点し、進級の可否を決める。裁判官としての教師は、(中略)学校の道徳的規範にしたがわない者に罪悪感を自覚させる。助言者としての教師は、学業または道徳の規準に合致しない者のいいわけを聞き、学校の内外で生徒が行う選択について助言を与える。こういっても何も奇異な感じがしないのは、生徒が公民権のない人間とみなされているからだ。(pp64~65)

追記
ライマーはイリイチの共同研究者。そのため〈学校は金がかかる割に効果が出ない。アメリカなどの先進国でもうまくいっていない。では第三世界の人々の教育はどう行っていくべきなのか〉との問題意識を、ライマーも持っている。その他の所でも共通点が多い。一つの例として、「仲間探しのネットワーク」という、イリイチのラーニングウェッブ同様の制度を本書で提唱している点が挙げられる。
よく似た思想のライマーとイリイチ。相違点はどこか、も調べていきたい。

参考として小中さんのブログを見るといいですね。