2009年 4月 の投稿一覧

小中さんのブログより。

小中さんの「小春日ダイアリー」の内容がすばらしかったので、今回はそれを貼らせていただいて、自分の考察を述べようと思う。アドレスはこちら

ライマーとイリッチの学校の定義

こんばんは、本日は以前ふれたエヴェレット・ライマーとイリッチ、二者の脱学校論者の学校観を彼らの著書からみていこうと思います。

ライマー
「段階づけられたカリキュラムの学習のために、教師が監督する教室に特定の年齢群の者が常時出席することを要求する機関[1]
イリッチ
「特定の年齢層を対象として、履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する、教師に関連のある過程[2]

二人の学校の定義から共通項を書き出すと以下のようになる。

  • フルタイムの出席、義務制
  • 特定の年齢群の生徒
  • 教師
  • カリキュラムの学習
  • こ の要素からわかることは、子どもは子ども時代を学校にささげなければならず、その多くの時間を同学年の者だけと共有し、国家のような権威のあるシステムが 定めたカリキュラムを教師を仲介し、学習するということだ。そしてその場は「学校」であるということだ。さすがにライマーとイリッチは二人で研究してきた こともあって、このような定義に差異はないだろう。
    またこのことからも導き出せるが、彼らの研究の主な対象はこの定義にもとづく「学校」であり、この定義に基づかないものは、議論から外れることになる。

    公教育の成立でポイントとなったのは①機会均等②義務制③宗教的中立であったが、脱学校論で彼らが指摘したのは、②義務制であった、というのが上記より見出せる。

    ま た、話は変わるが、近代から現代の流れ(第三の波の到来)をみるなかで、その新たな社会の創造がなされるなかで、近代(モダン)の制度象徴としての「学 校」が現代(ポストモダン)では適当な仕組みであるのか。そのことへの疑問から生まれた問題提起から新たな学校に変わる仕組みの提案、つまり、これが脱学 校論なのではないだろうか。

    何を話してるのかわからなくなった。眠い。

    また編集します。ではまた。。

    [1] エヴェレット・ライマー著、松居弘道訳『学校は死んでいる』晶文社、1985年、60頁。

    [2] イヴァン・イリッチ著、東洋・小澤周三訳『脱学校の社会』(現代社会科学叢書)、東京創元社、1977年、59頁。

    投稿者 小中春人 時刻: 23:59
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    1 コメント:

    いしだ・はじめ さんのコメント…

    おつかれさまです。

    「義務制」がポイントだったんですね。

    フリースクール(といってもいっぱいあるので、東京シューレ)は、

    ①来ても来なくてもいいし、いつ帰ってもいい(「フルタイムの出席」は当てはまらない)
    ②無理していくところでなく「もしあわないならホームエジュケーションなんてのもありますよ」という(「義務制」ではない)
    ③下は6歳、上は20歳まで異なる年齢層の人たちがいる(「特定の年齢群の生徒」はいない)
    ④何かを教えようとしない「大人」と過ごす場所である(教員免許を持つ者はいるが、教えようとする「教師」はいない)
    ⑤学ぶこと、過ごす内容が自由(「カリキュラムの学習」はない)

    こうしてみると、フリースクールはライマーやイリッチの言う「学校」定義から全て外れていることが分かる(「サポート校」や塾形式のフリースクールは無論外しますよ)。

    いやー、小中さんがまとめてくれたお陰でフリースクールの定義が分かりやすくなりました。ありがとう。

    マラソン

     その昔、人は「勝った」という一言のために命を賭けて走った(マラトンの丘)。

     けれど、今はメール1本で済む。
     言葉がどんどん軽くなっている気がする。

    O先生のおはなし。

    O先生に今後の研究の方針についてのご意見を伺う。以下はその聞き書きだ。自分の考察もついでに書いてあるので、見にくければごめんなさい。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ●下の文献は読んだ方がいい。
    『学校をなくせばどうなるか?』:イリッチの『脱学校の社会』に対して出された批判をまとめたもの。私はこの本のイリッチの書いた部分しか読んでいないので、全編を読もうと思う。
    『教育と学校を考える』:O先生が編者をつとめて本。「けっこう売れた」とのこと。この中のオルタナティブスクールの箇所を読むことにする。
    『アメリカ資本主義と学校教育』:ギンテスとボウルズが書いた本。岩波から翻訳が出ている。『学校をなくせばどうなるか?』の影響を受けている本。
    『学校は死んでいる』:ライマーの書いた本。英語名はSchool is dead。イリッチと共同研究をしたことがある人物。けれど小学校の教員をやった経験があるため、理論はイリッチよりも分かりやすくなっている。
    ●イリッチは脱学校化をいおうとしたが、それは主たる目的ではない。本来は脱制度化と「資本主義と官僚制の批判」を言おうとした。
     イリッチは物心崇拝との言葉で現状の社会を批判した。それは全てが金で換算される社会への批判である(内田樹もフェミニズム批判の文脈の中で同様の発現をしている)。「癒し」ブームも、これが金というモノサシで測られた資本主義社会ゆえのブームである。
    ●大学院では学部以上に、自らのテーマがないと何の意味もなくなる。受け身になると、何も学べないのだ。教えてくれるのを待つ姿勢であってはならない。自分で集中して研究する姿勢が大切だ。
    ●研究者になるならば、①自分のやりたいテーマを育て、②語学を1つ極めると、幅が広くなる。
    →私は①はフリースクール、②は英語をやっていきたい。①は毎日ブログに書く形で研究している。しかし②はどうやって勉強しようか? i podに英語教材を入れてそれを聞くくらいしかできていないのだ。
    ●中世から続く「青年団」も、ある意味フリースクールであった。寺子屋もそうであった。自発的に人々が学ぶというサークル活動でもあった。こういう団体ならば世界中にある。
     このような草の根的フリースクール活動は昔からあるが、学校へのカウンターパートとしてのフリースクールは比較的新しい。
    ●フリースクールの起こりは東京シューレにしてもどこにしても、「自分の子どもをあんな学校に入れたくない」という思いから始まっている。
    ●現在、学校への不適応はそのまま「社会への不適応」も意味する。
    ●「学校でなければならない」という思いから外れる人にあわせて創られたのがフリースクールである。
    ●学校を絶対視してはならない。日本の学校はせいぜい130年くらい。それよりも圧倒的に長い期間(「青年団」などを入れると、ということである)、フリースクール的な学びがあった。
    ●商人が自分の職業や礼儀を学ぶために創ったのが実学思考の寺子屋である。これはフリースクールであった(本年1月11日のフリースクール全国ネットワークでの汐見先生の講演も、テーマはここにあった)。
    ●いま、いろんな形でフリースクールはある。それらは何故作られたのであろうか? その背景には受験戦争などの学校の荒廃がある(アメリカではスプートニクショック後の理数重視の教育への反発や公民権運動などで生まれたマイノリティー救済の発想が背景にある)。
     では、何故これらがあったのだろうか? 学校内だけでなく、社会的背景がある。これを踏まえた上でフリースクールを研究するといい。
     その中では、イギリスのサマーヒル、フランスのフレネ、ドイツのシュタイナーについてなど、個々の思想家が考えたフリースクールについても視野に入れていく必要がある。
    ●デモクラシーには2つの側面がある。①草の根のデモクラシーと、②輸入思想としてのデモクラシーである。
     ①は人々の中でじわじわ育っていった発想である。共同体の中でのルールであるなど、デモクラシーという語が使われないことすらある。②は大正デモクラシー期や戦後民主主義導入期など、外からもたらされた思想である。
     よく②のみがデモクラシーと考えられているが、人々の生活の中にも①的なデモクラシーの発現があった。
     ①と②、両方が必要なのである。
     明治の近代化は②のみで達成されたのでなく、①があったからこそ実現できたところがある。
     識字率の低いところで学校は作れない。日本は①的な価値を実現する寺子屋などにより、識字率が高かった。また知識のある人もそれなりにいた。そのため、近代学校を始める際も人的インフラは整備されていたのだ。
     フリースクールもそうだ。「草の根」的発想も「海外思想」を生かした発想も、両方があいまってフリースクールができている。
    ●教育は政治そのものである。中教審も政治の問題に基づき、教育の中身を決めている。教育に政治的中立性はない。そして政治は経済(つまり資本主義)につながっている。
    ●デューイは学校の中だけで教育を考えていた。その点をボウルズやギンテスらが批判している。本来は学校だけでなく、社会全体の変革が必要なのである。
    ●フリースクールの 歴史についてをまとめた研究はまだない。フリースクールの実践は各自細切れなものしかないからだ。年表をつくるだけでも意味がある。

    少年法と、中学時代の私。

     一昔前。少年犯罪の凶悪化が叫ばれたことがあった。私がまだ「少年」の定義に入るころである。周りの大人が〈最近の子どもはキレると何をするか分からない〉と子どもを見つめている時、私は子どもであった。
     少年犯罪の厳罰化も、まさにリアルタイムで経験した。「ひとごと」だと思ってはいたが、それでも気にはなった。
     さてさて。もし仮に私が中学時代、新聞に報道されるほどの悪事を働いたとしよう(仮に、ですよ、ほんとに)。周囲の大人たちが「あんな真面目そうな子が…」というコメントがつく(当時は今よりはるかに真面目でした)。家族に多大な迷惑をかけ、家のガラスは投石で割られてしまう。親戚付き合いはなくなる(当然ながらお年玉もない)。
     時間が経過する。
     どんな重大事件でも、〈ほとぼりが冷める〉時は必ず来る。現にいまの高校生に「サカキバラ事件って、知ってるよね?」と聞いても「どんな事件ですか?」と逆に聞かれる。宮崎勤氏の死刑執行があったニュースを聞いても、今の大学生は「それって、何をやった人ですか?」と聞き返す。
     ほとぼりの冷めた後、私は色々あったけれども21歳の誕生日を迎えた。私は「昔は色々あったな…」と遠い目をしてワイングラスを傾ける。回想される記憶。その中にあの少年犯罪が蘇る。けれど私は疑問に思う。「ああ、昔はあんなことがあったな…。ところで、あの事件って、本当に俺がやったのか? 全然覚えていないんだけど」。
     そうなのだ。意識して思い返さないと中学時代の記憶は戻ってこない。忘れ去られた記憶はたくさんある。少年非行/少年犯罪をしていたとしても、忘却している可能性はある。親から「あなたの中学時代はこんなことがあったわね」という話を聞くとき、その話はほぼ100%私の知らない物語である(それだけ私は記憶力が悪い)。中学時代の私は今の私と本当に同じ人物なのだろうか? 
     2003年7月。長崎県で中学一年生の少年(12歳)が4歳の男の子を立体駐車場(7階建て)の屋上から突き落とす、との事件があった。現在、この子は18歳になっているはずだ。さらに2年経ち、20歳になった時、この少年は事件のことを本当に覚えているだろうか? きっと覚えていないんじゃないかな。
     私は大学に入って、ようやく人を呼び捨てで呼べるようになった(遅いけど)。それまでずっと〈ためらい〉があったのだ。人との接し方という面で、現在の私と中学時代の私は違っている。身長・体格だけでなく、発想の仕方もまったく違っている。中学時代の私と現在の私に連続性・一体性は本当にあるのだろうか?
     内田樹がレヴィナスを引いて語るように、過去の「私」は「他者」である。現在の私にとって、中学時代の私はやはり「他者」である。
     少年法が加害者保護の側面が強いのは何故だろう。サカキバラ事件を例にすると、犯行時の14歳の少年Aと現在26歳の少年Aとは全く同じ人物といえるのだろうか、ということである。現在26歳になった少年Aにとって14歳の時の少年Aは「他者」ともいうべき感覚を抱く対象なのではないだろうか。そのため「この犯罪は昔、お前がやったんだ」と言われても、もう一つピンとこない感覚を、加害者が持つことになる。少年期は人の考え方・性格が大きく変わる時期だ。だからこそ少年法は加害者保護の立場が大きいのかもしれない。

    追記
    ●世の「正論」をいう方々は、人間が常に完璧な形で過去の記憶を保っていると確信をしているようである。けれど、事件の被害者も加害者も案外忘れてしまえるところがあると思う(フラッシュバックやPTSD、トラウマとかはもちろんあるが)。少年犯罪ならばなおさらだ。「そんな昔のことは覚えていない」とカサブランカのリックのように答えることはできないのであろうか? 

    ●少年院は《刑の執行を受ける者を収容し、矯正教育を授ける法務省の施設》(明石ほか『教育学用語辞典』131頁)である。ここにある矯正教育は《少年院が在院者を社会生活に適応させるために、その自覚に訴え規律ある生活のもとにおこなう、計画的、組織的な教育活動》(同76頁)である。
     昨年春に榛名女子学園という少年院を訪問した。そこでは自らの犯した罪についてを自覚し、「これからどうしていくのか」を問いかける教育がおこなわれていた(無論、それ以外の学習―例えば通信教育で高校卒業資格などを取る―もなされている)。これは下手をすると忘却してしまう自分の犯罪を記憶に叩き込むためにおこなうものではないだろうか。

    習慣づけ

     腹が立ったとき、あるいは「キレそう」なとき、その場から逃れるのも一つの道徳である。
     自分の癖を見て、〈不注意〉を起こさないための習慣づけ(腹が立ったらその場から離れるなど)を身につけることが必要だ。

     前にO先生の話として道徳について書いた(https://nomad-edu.net/?p=487)。ここにある〈偽物の不幸〉にあわないように自分の癖を見ながら改めていくべきである。
     重要なのは「正義」を正すことでなく、また「納得する」ことではない(時と場合によるけどね)。それよりも次の行動にプラスになることが大切であるはずだ。
     

    日本フリースクール協会とフリースクール全国ネットワーク

    ●フリースクールに関しての全国団体には2つがある。日本フリースクール協会とフリースクール全国ネットワークの2つである。

    ●両者は何が違うのかを比較してみる。

    はじめに日本フリースクール協会(JFSA)。こちらは「日本初のフリースクールのネットワーク団体」と謳っている。自団体についての説明を見る。https://www.t-net.ne.jp/~eisei/jfsa/jigyou/jigyou.htmlより。

    1998年5月に発足したNPO法人日本フリースクール協会は「不登校」・「引きこもり」等に対して、学校教育の枠にとらわれない「学びの場・居場所作り」を目指して活動している教育機関です。活動は年間数回のセミナー・相談会を実施しております。

     続いてフリースクール全国ネットワーク(通称 フリネット)。こちらは私がボランティアをさせていただいている場所だ。https://www.freeschoolnetwork.jp/#%E3%81%8A%E3%81%97%E3%82%89%E3%81%9B

    NPO法人フリースクール全国ネットワークは、日本全国の、子どもの立場に立ち活動するフリースクールをつなぐネットワーク団体として2001年2月3日に誕生しました。各地のフリースクール・居場所、または世界中のフリースクールとの架け橋として活動しています。

    発足年では日本フリースクール協会の方が3年ほど早い。

    ●正規団体数はどうか?

    日本フリースクール協会は41団体。
    フリースクール全国ネットワークは45団体。

    若干、フリースクール全国ネットワークの方が多い。

    ●続いて、役員についてみていく。
    日本フリースクール協会の役員。https://www.t-net.ne.jp/~eisei/jfsa/bosyu/itiran.htmlより。

    理事長 武藤 [NPO法人 楠木の学園]
    副理事長

    中島 [ K&K ]
    副理事長 難波 [カナディアンアカデミー]
    理事 月岡 [相模湖フリースクール]
    理事 荒井 [東京国際学園高等部]
    理事 高橋 [登校拒否文化医学研究所]
    理事 木谷 [日本アウトワードバウンド協会]
    理事(事務局長) 田中 [フリースクール ゆうがく]
    理事 須藤 [須藤教育研究所]
    理事 高栁 [茶屋町総合学習センター]
    理事 川合 [フリースクール英明塾]
    監事 雨宮 [フリースクールあおば]
    理事 吉田 [学舎直夢]
    理事 長森 [渋谷高等学院]
    理事 平井 [W・S・Oセンター]
    理事 梅津 [特定非営利活動法人フリースクール ゆうゆう]
    理事

    馬場 [フリースクール ぱいでぃあ]

    理事 幸田 [ウォーム・アップ・スクール]
    理事 坂詰 [NPO法人 和泉自由学校]
    理事 後藤 [Xing(クロッシング)]
    理事 丸山 [フリースクール育心塾]
    理事 矢吹 [マインドヘルスパーソナリティセンター付属健康学園]
    理事 山本 [YGS高等部]


    フリースクール全国ネットワークの役員についてはhttps://www.freeschoolnetwork.jp/history/history.htmから引用する。

    各地のフリースクールの代表者が理事を務めています。
     <特定非営利活動法人フリースクール全国ネットワーク役員>
    代表理事 奥地圭子(NPO法人東京シューレ理事長)
           増田良枝(NPO法人越谷らるご理事長)
       理事 江川和弥(NPO法人寺子屋方丈舎常務理事・事務局長)
           木村清美(フリースクールヒューマンハーバー主宰)
           高橋徹(フリースクール僕んち代表理事)
           田辺克之(神戸フリースクール代表)
       監事 児玉勇二(弁護士)       

    ●加盟団体で見ると、日本フリースクール協会にはサポート校などの「学習」寄りの者が多い。「対人関係の回復」など、ある意味の学校復帰色が強い。また「このフリースクールではこういうことが学べます」ということを謳っているフリースクールがおおい(あくまでネットで見た限りです)。 けれど、フリースクール全国ネットワークは「過ごす」ことを重視したフリースクールが多いのだ。子どもが自由に過ごし、学びたいときに学び、遊びたいときに遊び、帰りたいときに帰る。こういう色が強い。

    なりますというフリースクールは両団体に加盟。ポケットフリースクールも両団体加盟である。両者の壁は意外に薄いのかもしれない。

    追記
    ●ネットで調べていると、日本オルタナティブスクール協会というものもあった。こちらはサポート校の集まりという色がハッキリ出ている。8「校」が加盟。こっちははっきりと「加盟校」という。学校扱いなのだ。学校色の薄いフリースクールならば「団体」という言い方をよく使う。
     下は団体の説明をしているページ。協会のウェブサイトよりもってきた。

    これまでの学校教育における、「いじめ」「不登校」「校内暴力」などの様々な歪みや弊害を改革するための教育活動を行い、全国に広がっている通信制サポート校。
    その通信制サポート校が、厳しいガイドラインを設け、自主規制を行いながら、行政や社会に対して認知活動を行うことを目的に、1996年、全国通信制サ ポート校協議会を発足させました。そしてこの協会が、より幅広い活動をするために、またより明確に会のあり方を示すために、2000年3月1日付をもって 名称を変更し「日本オルタナティブスクール協会」とし、現在に至っております。

    ●「学習」寄りか、「過ごす」寄りか。日本フリースクール協会とフリースクール全国ネットワーク、日本オルタナティブスクール協会の3者を立て分けると次のようになるだろう。
    「学習」寄りの順には、
    日本オルタナティブスクール協会・日本フリースクール協会・フリースクール全国ネットワーク、となる。

    食事をするように本を読む。

    1回1回の食事に、意味はほとんどない。けれど、これが自分を作る。

    同様に、次に読む1冊の本にはそんなに意味はない。けれど排泄するように読んでは忘れ、読んでは書きを繰り返すうちに、体は育ち・頭も育つ。

    本1冊の力は大きいが小さい。次に読む1冊にそんなに期待せず、淡々と本を読み続け、考え続け、忘れ続けることが大事なのだと思う。

    教育社会学学習のために。〜読まないで書いた書評つき〜

    私は教育社会学の視座からフリースクールを研究していきたいと考えている。

    今月28日は早稲田大学教育学部の教育学研究科面接試験の日。いよいよ研究者に仲間入りするための一つ目のハードルが見えてきた。

    益々の勉強が必要なのだが、ここで「この本を絶対に読む!」というものを列挙してみる。

    「この本も必要だぜ!」というものがある方は、ぜひコメントでお教えください。お願いします。

    『教育の社会学』(有斐閣アルマ):教育社会学の入門として。現在二読目。
    『教育社会学』(有斐閣ブックス、竹内洋ほか編):入門の次に読む。未読。
    『エスノメソドロジー』(新曜社):私はフリースクールについてをエスノメソドロジーの手法で研究していきたく思っている。けれど「エスノメソドロジーって、何?」という状態だ。何となくは分かる。いや、分かってないのかもしれないが、ともかく一度本腰を入れてこの研究法を学んでいこうと思い、読んでみようと思う。未読。
    『キーワード現代の教育学』(東京大学出版会):「メディア」など、現代教育学を考える上で欠かせないキーワードを学ぶため。未読。
    『社会学がわかる事典』(日本実業出版社):教職でとった鈴木先生が絶賛していた社会学の入門書。一読。二読目に入りたい。教育社会学は「社会学」でもある。まずは親学問を学ばねば。
    『教育学がわかる事典』(日本実業出版社):上の教育版。一読。けれどよんだからといって分かるようにはならない。かえって混乱するだけだ。下手に知識のある分野は学べば学ぶほど自身の無知に気づく。
    『フィールドワーク』(新曜社):『エスノメソドロジー』と姉妹本。フリースクール研究のために読む。未読。
    『思考のフロンティア 教育』(岩波新書):一年生の頃、わけもわからず一読。教育学の枠組みを学ぶために読む。

    『脱学校の社会』を読む②(はじめ〜30頁まで)、あるいは「価値の制度化」論。

    昨日に引き続き、ディスプレイに向かって独り酒。〈クリアアサヒ〉がセブンイレブンに無かったので、〈のどごし生〉を飲んでいる。まあ旨い。常にビールの飲める境涯になりたいものだ。

    閑話休題。

    イリイチの『脱学校の社会』を見ていく。なお、議論の定本は東京創元社発行、東洋・小沢周三訳のものである。

    1 なぜ学校を廃止しなければならないのか

    ●「多くの生徒たち、とくに貧困な生徒たちは、学校が彼らに対してどういう働きをするかを直感的に見ぬいている。彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである」(13頁)
       ↓
    「『学校化』されると、生徒は教授されることと学習することとを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる」(13頁)
    →いわゆる「価値の制度化」の話である。「制度化」について脚注では、「共通の価値観が内面化される一方、価値を実現するための制度づくりがなされ、その制度に対する人々の期待が高められていくことかと思われる」(54頁)とある。
     本来目指すべき価値を仮にAとする。本来はAをまっすぐに目指していくべきだが、手短な目標である価値Bを目標とする。このBは「価値A実現のための学校の卒業」とでもしておこうか。学校に通い続け卒業すれば(つまり価値Bを目標としていけば)、自然に価値Aに達することができるというタテマエである。ここにある少年に登場してもらおう。価値A実現のために学校Bに通っているのがこの少年である。通っていればいつか卒業できる時が来る。少年はBを出ることのみが重要だとずっと考えていた。卒業して、「学校を卒業したことを認める(価値Bの実現)」という証書をもらった。少年は「このために勉強してきて良かった!」と大歓喜している。帰り道、少年はふと気づく。「あれ、価値Aを僕は修得できたのだろうか?」と。価値Aを普通自動車運転免許取得、価値Bが自動車教習学校卒業であるとき、少年は不幸である(ときどきいますけどね)。
     これが価値の制度化といえるのではないだろうか。本来、学校は教育をすること/子どもが学ぶことが主たる価値である(価値A)。けれど子どもは放っておいて勝手に学ぶかというと、必ずしもそうではない。そして学校というのは価値Aを実現するための装置、つまり制度にすぎない(価値B)。けれど現代は学校という制度に通うことのみが重視されて、そこで教育が行われるということが忘れ去られている。本来なら学校に行くこと(価値B)が重要なのではなく、子どもが学ぶこと(価値A)が重要なのだ。けれど知らぬ間に価値Bの方が重要と考えられ、価値Aがおざなりにされてしまう。〈子どもが学ぶこと〉という価値A実現のためなら、別に学校(価値B)を用いなくとも、たとえば自宅での学習を行うとか、フリースクールにいくとかする選択肢も存在するべきだ。けれど制度/装置にすぎない「学校」へいくことのみが重視されるようになる。この価値の転倒をイリイチは「価値の制度化」と呼んだのであろう。

    ●「私は以下の拙論において、人々が価値の制度化をおし進めていけば必ず、物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化をもたらすことを示そうと思う。この三つの現象は、地球の破壊と現代的な意味での不幸をもたらす過程の三本柱なのである」(14頁)
    →先の話の通り、価値の制度化についての考察である。
    →イリッチは価値の制度化について言いたいのであって、学校は一つの例にすぎない。
       ↓
    価値の制度化は、あらゆる分野に起ころうとしている。
       ↓
    「必要な研究は、人々の人間的、創造的かつ自律的な相互作用を助ける制度で、かつ価値が生み出されるのに役立ち、しかも肝心なところを専門技術者にコントロールされてしまわないような価値を生じさせる制度を創りあげることに、科学技術を利用するにはどうしたらよいかという研究なのである」(14頁)
       ↓
    「私は、われわれの世界観や言語を特徴づけている人間の本質と近代的制度の本質とを、相互に関連づけてはっきりさせるためにはどうしたらよいかという一般的な課題を提起したい。そのための理論モデル(パラダイム)をつくる素材として私は学校を選んだ」(15頁)
    →つまり、イリイチ自身は「価値の制度化」が起きている近代文明への批判を行うために本書を書いたのであって、〈社会の脱学校を断じてなしとげなければならない〉という主張をするために本書を書いたわけではない(あくまで2次的な目標であり、イリッチ自身が「書きやすいじゃん!」と感じた好例だったからだろう)。
    →先の比喩を使えば、価値Aが「価値の制度化」論、価値Bが「脱学校論」である。
    →例としてイリイチは「家庭生活、政治、国家の安全、信仰およびコミュニケーション」(15頁)も価値の制度化を排することで利益を得られると指摘する。価値の制度化を排す手法は「脱学校か」と同じプロセスなのである。
       ↓
    「その分析のために、この最初の論文では、学校化されてしまった社会を脱学校化するということはどういうことかを説明しておこう」(15頁)
    →ここから、「学校化」された社会の特徴の記述が始まる。
    →「学校化」の現代的事例は上野千鶴子の『サヨナラ、学校化社会』に詳しい。最近文庫化して、読みやすくなった(イラストは単行本版のほうが面白かった)。
       ↓
    「教育ばかりでなく現実の社会全体が学校化されてしまっている」(同)
       ↓
    「学校と病院のどちらも、自分自身で自分の治療を行うのは無責任なことだとか、独学で学習するのは信用できないことだとみなすのであり、また行政当局から費用の出ていない住民組織は一種の攻撃的ないし破壊的活動にほかならないとみなすのである」(pp15~16)
    →岡村先生の言う〈自分たちが賢くなる〉実践が「信用できない」といわれているのが近代社会だ。フリースクールは、いわば〈自分たちが(制度に頼らないで)賢くなる〉実践である。
       ↓
    「どこでも、教育だけでなく社会全体の「脱学校化」が必要になっている」(16頁)

    ●価値の制度化の福祉での事例が登場する。
       ↓
    「自分の家で人生を始め、かつ終るというのは、貧困かあるいは特別な特権かのどちらかのしるしである。臨終と死は、医師と葬儀屋の制度的な管理のもとに置かれるようになった」(同)
       ↓
    「貧困者はいつの時代にも社会的に無力だったのであるが、制度的な世話に依存する度合いがしだいに高まってくると、彼らの無力さに新しい要素が加わった。それは、心理的な不能とか、独力でなんとかやりぬく能力を欠くといかいうことである」(17頁)
    →制度ができるとそれに依存するようになる。そのため、制度に頼らない者はますます強く、制度に頼らざるを得ない者はますます弱くなる。
    →オリで飼われたライオンと、サバンナのライオンの違いである。オリの中で毎食上げ膳・据え膳(ライオンに対しこの言葉を使うのは適切かは分からない)されていると、補食能力を失いライオンとしての能力は弱くなる。人間社会でもそれは同じであろう。一人でなんとか食っていかねばならない戦災孤児(これも死後かな?)はちょっとやそっとじゃへこたれない。進駐軍相手の靴磨きから、窃盗・強盗までなんでもやって生き延びる。けれどひ弱な現代っ子(むろん、この定義に私も入っている)は保護されることになれているため、戦災孤児そのままの状況に追い込まれた時(楳図かずおの『漂流教室』の世界や大三次世界大戦が急に起こったときなど)、はたして生きていけるのだろうか。
       ↓
    種々の制度によって、貧しい者は制度に頼り切り、ますます弱い立場になる
       ↓
    そのため、次のような逆説がいえてしまう。
    「現在、健康、教育、および福祉を取り扱っている制度への財政支出を止めさえすれば、その制度のもつ副作用―人々を無能にする副作用―から生じる一層の貧困化をくいとめることができるのである」(pp18~19)
       ↓
    学校では次のような事例となって問題化する。
    「一般的に言って、より貧しい生徒は、進級や学習を学校に頼っている限り、より裕福な生徒よりも遅れてしまう。貧民に必要なのは、彼らの学習を可能にする資金であって、彼らに大いに不足していると称される制度的世話を受けるための証明をしてもらうことではない」(22頁)
    →制度に頼っていると、人間が弱くなる。制度自体を自らの資本や能力によって用意できる人間は、ますます強くなる。公費により黒人子弟に早期教育をしたことがあった。ヘッドスタート計画だ。けれど、金持ちは就学前児童を私塾に通わせることができてしまうのだ。
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    「古典的貧困」のために悩んでいる国はほとんど無くなった。近代の制度(生活保護など)が新たな貧困をもたらす。
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    「アメリカにおいても、就学を義務化することによって貧民が平等性を獲得することはない。それどころか、どちらの国においても、学校があるというだけで、貧民は彼ら自身の学習を自らコントロールする勇気をくじかれ、またそれを不能にさせる。というのは、学校は教育を専門に行なう制度と認められているので、学校が教育に失敗すれば、それは、教育が非常に費用のかかるもので、複雑であり、いつでも素人にはわからないもので、しばしば不可能に近い仕事であることの証拠だとたいていの人々に受けとられるのである。
     学校は教育に利用できる資金、人および善意を専有するだけでなく、学校以外の他の社会制度に対しては教育の仕事に手を出すことを思いとどまらせてしまう。労働、余暇活動、政治活動、都市生活、そして家庭生活までもが教育の手段となることをやめ、それらに必要な習慣や知識を教えることを学校にまかせてしまう。そうして学校も学校に依存する他の制度も、ともに非常に費用のかかるものとなるのである」(25頁)
    →よく学校には理不尽な要求が突きつけられる。親がやると「モンスターペアレント」だが、地域が「お宅の生徒さんにはどんな教育をしているのか」と学校に苦情の電話を入れることもある。この地域の人は自分で「家の前でうるさくするな」と言わないで、わざわざ学校に電話をしてくるのだ。
     内田樹は〈制度が整備されすぎていると、個人の努力や善性がなくても済むようになる〉と主張する。たとえば警察のシステムが究極的に発展すると、目の前で人が暴行されているのを見ても「ああ、警察が完璧に対処してくれるから俺には関係ないや」と軽く見逃してしまう(ここでいう話は「価値の制度化」の話でもある)。 
     現在の学校は内田のいうような環境に近づきつつあるのではないか。とりあえず、教育のことは学校に任せよう、という思いが学校への理不尽なほど
    の要求へとつながる。イリイチのいう通りの社会に日本はなっているのだ。
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    「学校への支出を増やすことは一つの国においても世界的にみても、学校のもつ破壊性を強化する」(27頁)
    「学校の拡充は軍備の拡張と同じく破壊的であるが、軍備のそれほどには目立たないのである」(28頁)
    →高校のクラスの友人で東京医科歯科大学にいった者がいた。彼に「学費はいくらぐらい?」と聞くと、「年に63万くらい」と答えがかえってきた。私立大の医学部は1000万を軽く超す。早稲田の教育学部は年93万くらい。国立医学部は圧倒的に安いのだ。
     けれど、国立大学の医学部に入るのは長期の受験勉強に耐えられ(医学部は2浪がザラ)、幼少期からのエリート教育が必要であったりする。これを可能にするには自宅に相当な資産がなければならない(昔書いたブログを参照)。
     国立大医学部に入るのは、元から金のある人だ。国立大はそういう「元から金のある人」に公費を用いて安く教育する。医者は相当に儲かる。医療の充実という社会への貢献よりも、個人の利益になるところが大きい。「わざわざ公費を払ってまで、個人の利益につながるところ大である医者を育成することにいかほどの意味があるのか」という疑問がくることがある。
     医者ほどではないだろうが、教育へ費用を多くまわしすぎると、その費用は生徒/学生個人の利益にしかつながらなくなるのだ。
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    「教育機会を平等にすることは、たしかに望ましいことでもあり、実現可能な目標でもある。しかしこれを義務教育と同じことだと考えることは、魂の救済と教会とを混同することにも等しいのである」(29頁)
    →ここに、フリースクールの出番があるのだ。
    →イリッチは革新的なカトリックの司祭である。通常、下のような枠組みになる。
        カトリック プロテスタント
    価値A 魂の救済  魂の救済
    価値B 教会にいく 聖書
     カトリックの司祭が「魂の救済が大切なのであって、教会に行くことは2次的な意味しかない」というのは非常にプロテスタント的な発言になってしまう。
    →さきの価値の制度化の例では、最終目標の価値Aは「教育機会の平等」、価値Aのための手段である価値Bは「義務教育」にあたる。
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    「今日われわれは学校による教育の独占を廃止し、またそのことによって偏見と差別を合法的に結びつける制度を廃止しなければならない」(30頁)
    「学習も正義も、学校教育によって増進されることはない。なぜならば教育者は、教える内容を一つの証明書の中に詰め込むことを主張するからである。
    →学校教育は知のパッケージ化を目指す。

    追記
    ●卒論で「価値の制度化」をテーマにしても面白いかもしれない、と思った。
    ●私の本稿での比喩は、適切なのかを誰かに教えていただきたいものだ。
    ●〈学校化と教育化を分離することが大切〉と山本哲士はいう。教育は学校以外でもできる方がいい。2つのありかたがあるだろう。
    ①塾やフリースクールで学ぶ。②社会の中での教育力を増やす。
     ②について、イリッチは本書でこう語っている。
    「労働、余暇活動、政治活動、都市生活、そして家庭生活までもが教育の手段となることをやめ、それらに必要な習慣や知識を教えることを学校にまかせてしまう」(25頁)。
     本来は学校以外の場所に教育があった。それこそ「労働、余暇活動、政治活動、都市生活、そして家庭生活」の中で教育はあった。その幅広い教育は、学校ができてから忘れ去られていった。特に共同体が消滅しかけている現代ではなおさらである。内田樹が〈完璧な警察があったら、誰も暴力を止めようとしない〉と語っていた、との話を本ブログに書いた。教育もしかりで、「学校があるから、教育は全て学校に任せよう」という思いが人々の中にある。
     再び、社会の中に教育力を取り戻していけば、脱学校化を成し遂げても教育が継続して行われるようになるだろう。
     それついて親友のOと話す中で、「高校のバイト禁止の意義」について話が及んだ。高校生がバイトをするとき、社会のなかで学ぶことになる。ろくに敬語を使えなかった高校生が、マニュアルがあるとはいえ敬語で話せるようになる。時間を守るというエートスも学ぶことができる。労働をする「喜び」を知れるので、ニート対策にもなるかもしれない。けれど、基本的にはバイトを禁止する高校は数多い。バイトを「社会での学び」とするならば、バイト禁止は「社会での学び」に制限をかけることを意味する。
     牧口常三郎という教育学者は半日学校制度を提唱した。学校での学びを効果的に進め、現在の半分の時間(つまり半日で)で学校教育を行い、残りの半日を「社会での学び」に使う、という発想である。単に「社会で学ぼう」「学校外で学ぼう」といっても実現可能性は低い。何故なら時間が考慮されていないからだ。牧口の慧眼は「時間を確保し、自然のうちに社会での学びがもたらされるようにした」という点にある(ちなみに学校のスリム化については上野千鶴子も語っている)。
     Oは感銘を受けていたようであった。

    まとめ
    ●イリッチは価値の制度化を批判するために『脱学校の社会』を書いた。脱学校化はあくまで価値の制度化を説明するための題材にすぎない。