2009年 4月 の投稿一覧

自由が苦手な/悲しい人間

いままでずっとイリイチの脱学校論について考えてきた。そのイリイチは本来的な学びの復権を訴えている。

 けれど、学校という「装置」はなかなかに優れたものである。まったくやる気のない生徒でも、何かしらかを学ばせ、読み書きやコミュニケーション能力についてを修得できる場所である。また、黙って席に座る能力や、上司の言に従順にしたがう態度を身につけることができる。
イリイチは学校によって「学び」ができなくなるという、「価値の制度化」を主張した。
けれども。私は学校が無くなった社会で、教育クーポンを〈ぽん〉と渡されて「自由に学んでいいよ」といわれたとき、途方に暮れそうな気がしてならない。自由はしんどい。誰かに「何を学ぶのか」決めてもらうほうが簡単だ。イリイチなどの教育学者は「子どもは学びたがっている」という説をよくとるが、私は疑いの目を持っている。強制されない限り、学ぼうとしない子どももいるはずである。
カトリックとプロテスタントの違いを自殺から考えたのがデュルケームであった。カトリックは教会を通じて神とつながるが、プロテスタントは聖書を通じて各個人が直に神とつながる。プロテスタントはどこまでも個人の問題になる分、しんどくなり、自殺するものがカトリックよりも多くなる、と。学びという側面に応用してみよう。学校のある社会がカトリック、ない社会(イリイチのいう脱学校の社会)がプロテスタントだ。自発的に学ぼうとする人間にとってプロテスタントのほうが気楽でいい。けれど自発性の少ない人間(たとえば私など)にとってはカトリックこそ気楽でいい。確かに教えられる内容に不満はあっても、制度に対し不満をぶつけ、愚痴ることができる。プロテスタントではそうはいかない。学ぶ内容全てが自己決定。「自分が悪かった」という後悔をし、自分を責める方向のみに進んでいく。
 私は自分で自分のことを決めるのがしんどくて仕方ない。進学するかどうか、就職先をどこにするか…。いずれも、中世のように「始めから決まっている」方が悩まなくていいから楽である。

 ラーメンズのネタに「プーチンとマーチン」というものがある。You tubeにもアップされている。これは小林と片桐が腕人形をもって掛け合い漫才や歌を演じるコントである。「♫命令されたい/決められたい/自由が苦手な/切ない人間〜」。軽快に2人が歌う。私はこの歌詞を全面的に肯定する。

文献カード 脱学校論、あるいは学校化社会

『教育思想辞典』の「学校化」(87頁)の参考文献(森重雄)より。

●イリイチ『脱学校の社会』所有。
●イリイチ『脱学校化の可能性』
●イリイチ/フレイレ『対話』(野草社、1980)
●イリイチ『シャドウ・ワーク』所有。
●イリイチ『オルターナティヴズ』(新評論、1985)
●ホルト『なんで学校へやるの』(一光社、1984)
●ライマー『学校は死んでいる』
●森重雄「『学校は死んでいる』ライマー」/金子茂ほか編『教育名著の愉しみ』(時事通信社、1991)
●森重雄「近代・人間・教育」/田中智志編『〈教育〉の解読』(世織書房、1999)
●山本哲士『教育の分水嶺』(せんだん社・三交社、1984)

遠藤克弥監修『新教育事典』(勉誠出版、2002)の「学校化する社会」(190頁)より。
●イリイチ『脱学校の社会』
●門眞一郎ほか『不登校を解く』ミネルヴァ書房、1998年
●桜井哲夫『「近代」の意味』日本放送出版協会、1984年
●山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』ちくま学芸文庫、ちくま書房、1996年
●刈谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中公新書、1995年

追記
●私のような一人暮らしの学生にとって、ゴールデンウィークは「時間との闘い」。つまり、いかにして有り余る時間と戦うか、ということである。
 上野千鶴子のいわく、「学問は愉しみのための消費材」(『サヨナラ、学校化社会』太郎次郎社、2002年、109頁)である、と。私が教育学、なかんずく脱学校やフリースクールについて研究(ブログを書いたり、本を読んだり)するとき、ものすごく大量の時間を費やすことができる。暇もつぶれるし、知らぬ間に長時間勉強することができる。こんなにいいことはない。
 学生の皆さん、暇なときは好きな学問をしましょうよ。

『脱学校の社会』を読む④ 58〜70

第二章(58〜70頁)

〈教育において学校に代わるものを捜すためには、われわれが「学校」という場合、それはどういう意味であるかをわれわれの間で一致させることから始めなければならない〉(58頁)
→「やり方」の提示。
→「公立学校の現象学」によって、論を進めることを示す。

1、年齢

●「学校は人々を年齢に応じて、集団に分類する」(59頁)。その分類の〈前提とは、子供は学校に所属する、子供は学校で学習する、子供は学校でのみ教えられることができるというものである。私は、この未検討の前提をまじめに疑ってみる必要があると思う〉(59頁)
●我々は子どもが、「自分の分を知り、子供らしく行動することを期待する」(60頁)
●けれどそもそもは「子供時代」の概念は近代になってから登場したものであり、普遍性はない(アリエスの著作より)。
●「学校制度は、それがつくり出す子供時代と同じように、近代に出現した現象なのである」(61頁)
●子供時代:「重荷」「やむをえずその時代を通過」「子供の役割を果たすことが全然楽しくない」(62頁)ものである。

2、教師と生徒

●「学校は、学習は教授の結果であるという公理に基づいて設けられた制度である」(64頁)
●「われわれが知っていることの大部分は、われわれが学校の外で学習したものである。生徒は、教師がいなくても、否、しばしば教師がいるときでさえも、大部分の学習を独力で行うのである」(同)
●「誰もが、学校の外で、いかに生きるべきかを学習する。われわれは、教師の介入なしに、話すこと、考えること、愛すること、感じること、遊ぶこと、呪うこと、政治にかかわること、および働くことを学習するのである」(同)
●「大人は、自分が受けた学校教育をロマン化して回想する傾向がある」(66頁)
●「生徒が教師から何を学習しようとも、学校は教師のために仕事をつくり出してくれるのである」(同)

3、フルタイムの通学

●〈学校はまさにその性質から、参加者の時間とエネルギーに対して、全面的な要求をする傾向がある。こうして次に、教師は保護者、道徳家、および治療者となるのである〉(67頁)
「保護者としての教師」:「いくつかの基礎的な日常的仕事の訓練をさせる」(67頁)
「道徳家としての教師」:「学校のなかだけでなく、社会全体の中で、何が正しいか、何が誤っているかについて、生徒を教化する」(同)
「治療者としての教師」:「生徒の個人的な生活にまで立ち入って穿鑿(せんさく)する権威を与えられていると感じるのである」(68頁)
→この「治療者」は原典ではセラピストと書かれている。therapyとは「薬や外科手術を用いない治療」(『ジーニアス英和辞典』)を意味する。「治療者」といっても、医者と言うよりはカウンセラーなどのイメージ。
※穿鑿:ほじくりかえすこと。原典ではdelve(ほりさげること)。
●「三つの権限をあわせもつ教師は、法律よりもはるかによけい子供を自由でなくしてしまうのである」

●「学校の教師と教会の牧師は、逃げ出す心配のない聴衆に説教するだけでなく、彼らに相談をしにきた人々の私事にまで立ち入って穿鑿する資格があると考える唯一の専門職業者なのである」(68頁)

●「子供をフルタイムの生徒と定義することにより、教師は学校以外の社会的に隔離された他の制度の監督者が持っている権力よりもはるかに憲法上および慣例上の制限を受けない権力を、生徒に対して行使することを許される」(69頁)
学校へ行くことは、人権の保護のない空間に入れられることである。
→「フルタイム」がポイントか?
●潜在的カリキュラム:「学校教育の儀礼的または儀礼的なものそれ自体」。差別と偏見をもたらす。

「話せば分かる」のか?

話せば話すほど、生じる誤解。

「話せば分かる」とはよくいわれるが、話せば話すほど誤解の深まる時もある。

友人はいう。「本音を言ってくれ」。
けれど本音や本心なんて、本当に人間にはあるものであろうか? 話す時々の「思い」はあっても、本音というものは存在し得ないのではないだろうか。

先ほどまで、拙宅で種々の話を友人2人と行った。「本音を」というから、思ったことや感じてきたことを話した。どうやら、多大な失望を与えてしまったようだ。話さなかったほうが良かった気がする。

ただ、「ここから関係を良くしていく」というM君の最後のセリフは一筋の希望ではある。
ところで。ただでさえ頭の回転の鈍る深夜に深刻な話をしても、「建設的な」話ができるわけない。

追記
●よく文の読み方として「批判的に読む」とある。著者の意見に同調しすぎず、「どこかに批判すべき点があるのではないか」と考えながら読む手法のことだ。クリティカル・リーディングともいう。この方法には欠点があるように思う。批判的に読むとき、主体である「私」が成長/変化することが制限されることがあるという点だ。
 批判をするとき、人は批判される対象よりも高い位置にいるという前提がある。対象と同じかそれより低い位置にいる時、批判をすることはできない。その姿勢はものを学ぶ姿勢ではない。授業中、教師の揚げ足をとることに似ている。批判をするときには「学ばせていただこう」という謙虚さがなくなってしまう。その結果、批判者は批判する対象によって変化させられることがなくなる。
 本日の友人との諍い。はじめ私は「批判者」として対面していた。けれどそれでは相手の揚げ足を取り続けるだけとなり、何のために友人たちが家にまで話にやってきたのか分からなくなった。相手が「思い」を伝えにやってきたのなら、その思いを批判的に聞くだけでは相手に失礼であるし、自分の成長のチャンスも摘んでしまうこととなる。
 学問の世界では「批判的」であることは重要なようだ。けれどこの態度を貫きすぎると、小説や偉大な研究によって「私」が根本的に変化させれた、ということが無くなってしまう。そもそもの研究する意味すら分からなくなる(私は灰谷健次郎がいうように、研究という「仕事」によって〈人間的成長ができればいいな〉と考えているのだ)。
●友は「お前は自己顕示欲が強い」と言っていた。おそらく、そうなのだろう。このブログを書きながら実感している。
●「いま思っていることをいってほしい」といわれたとき、雑念で考えていたことを思わず言ってしまった。相手は不機嫌となった。不注意であった。

森毅『気まぐれのすすめ』ちくま文庫、1993

著者は数学者。数学の専門書とは別に、軽妙なエッセイを多数書いている。氏の文章は高校時代にハマった(無論、エッセイの方)。〈受験当日はマンガを読んで余裕をアピールしろ〉、〈受験とはごまかしの技術。全く勉強していなくても、さも勉強してきたかのように解答すればいい〉。受験についての考え方がラクになった。曲がりなりにも現役で早稲田に合格できた理由の一つに、森氏の本を読んでいたから、という点がある。

森は京大教授。けれどイバる感じが全くない。少なくとも文章には現れない。

どうも、教育界で「問題解決」と聞くと、ソッポを向きたくなる習性が、ぼくにはある。人生の問題が解決されるなら、それはけっこうに違いないが、たかが教育ごときで、そんなことのできるわけがない。しかし、なにかしら、そうした幻想を与えようとする癖が、学校にはある。「生きる力」とか「生活のために」などと聞かされるときの、イカガワシサに似ている。(31頁)

「たかが教育ごとき」。いい言葉だ。教育学者はあまり口にしない。
 
 私が森に注目する理由に、脱学校論的発想をよく口に出しているという点が上げられる。次の文は「価値の制度化」を語っているところと読むことができる。

一般的にいって、管理主義というもののおそろしいのは、管理者が管理主義的になること以上に、被管理者が管理主義的になるところだ。実際に京都大学でも、さまざまの手続きが管理主義的になるにしたがって、手続きにだけ熱中する学生が増えはじめた。大学でなにかを学ぶことよりも、教室に出席しているという手続きが重視される傾向については、京都大学はまだマシなほうなのだそうだ。もっと「民主主義的」な大学になると、出席やなにかの手続きだけ勤勉にオツトメすると、だれでも「民主主義的」に単位のとれる仕組みになっているらしい。
「みんな平等に抑圧されましょう」「みんな民主的に管理されましょう」というのが、民主管理主義教育のスローガンで、このごろ少し目にあまるものがあるのだが、ぼくはそれほど心配していない。こんなアホラシイ状態が続くはずがないと、人間の英知にいくらか期待しているのだ。(114頁)

以下は、いろんな抜粋。

本来の自由というものは、だれかれなしにウロチョロするから、当然にイヤな奴ともつきあうことになるものだ。ケージのなかで安心しているのは、自由ではなくて自閉である。(121)

人間が成長するというのは、なにかの殻をまとうことではなくて、裸のありのままの自分であることによって、さまざまの人間と影響しあい、結果的に成長してしまうのだと思う。それを恐れて殻をまとったところで成長なんかするまい。(…)教師のほうが成長することなしに、生徒を成長させようと思うなんて、あつかましい。それも、成長した結果ではなくて、成長する過程を見ることによってだけ、生徒に影響しうるのだ。(139頁)

考えてみれば、教育にとって、塾の歴史は二千年以上あるが、学校の歴史は二百年ほどなのだ。むしろ、学校というものも、塾の一つの形態にすぎない。
そして、こうした塾について、学校との連係が強くないかぎり、年齢的な制限はない。べつに「子ども」でなくても、お茶や生花の稽古に行く。(143頁)

なんでも説明したがり、そして説明さえすれば相手は納得するはず、と思いこみがちなのも教師の悪癖だろう。それでたいてい、ふだんでも教師は説明癖にとらえられている。
本当のところは、納得というものは、自分の心のなかでなにかがなじんでいく過程であって、教師なりなんなりの説明がたすけになることはあるものの、説明されたから納得するというものでもあるまい。(146頁)

→〈学んだことは教えたことの結果ではない〉という脱学校論に近い。

現在の塾は、まだ学校に従属し、学校に寄生している。それが将来に、学校とは別個のカリキュラムで、学校と同じ時間帯に、学校と競合しあうことを期待しているのだ。現在は過渡期であって、無力な学校の強力な支配があるために、学校の成績を上げるための塾や、学校へ進学するための塾が繁昌している。そのうちには、学校の成績など問題にせず、学校へ進学などしなくてもよいという、独自の文化的価値を主張する塾が多くなるのではなかろうか。(151頁)

→フリースクールというものを見越しての発言であるようだ。いまのフリースクールは「独自の文化的価値」を主張するようになっている。
 この文には印象に残るパーツが幾つもある。手元の文庫本には「無力な学校の強力な支配」というところに、赤丸が何重にも書かれている。
 ちなみに本文章は1984年のもの。奥地圭子が東京シューレを始める前年だ。

人間は異界なしには薄っぺらな存在になってしまうし、まるごと異界に魅せられっぱなしでは仕方ない。(266頁)

人間が人間にものを教えて、教える側がかしこくなれないようなら、教育なんてしんどいことをしなければよいのだ。自分が数学をよくわかるようになるために、数学を教えるのであって、自分がかしこくなれないような教え方は、相手のためにもならない。(242頁)

→森の『ひとりで渡ればあぶなくない』(ちくま文庫)にも遠山啓のことばとして「子どもという、こんなおもしろい動物をタダで貸してくれるんだから、教師というのはいい商売だ、というのが彼の口癖だった」(176頁)とある。

医師とか教師とかを、一種の芸人であるとぼくは考えている。芸の巧拙を問題にしているのではない。その芸にどんなつらいことがあっても、お客の前では笑顔であらねばならぬから、芸人なのだ。芸の苦労は表に出さずに、さりげなく舞う。苦労がにじみでたりするのは、芸人の恥だ。(243頁)

追記
●森の関西弁あふれる文章を読んでいたら、懐かしくなる。京都や大阪の大学に行けばよかったかな? まあそのときは、教育学者を目指さなかったろうけど。
 ちなみに2時間後に早稲田大学教育学研究科(つまり教育学の大学院です。わかりにくいですね)の推薦試験面接に行ってきます。森氏のいうように、余裕を示しとかないと、ね。

キャッチコピー

●マナーの悪いお年寄りにも、席を譲ろう。

●勝利の美酒、敗北の養命酒。

●眠れぬ夜のコーヒー牛乳。

『学校では絶対教えてくれない「どうして勉強しなくちゃいけないの?』藤田徳人、2004、PHP

著者は医者。独特の「勉強をする理由」が描かれている。

男子には「モテるために勉強する」ことを説き、女子には「女性が勉強して、社会に進出することは、男性選びの選択範囲を大きくすることにつながるわけです。これは子孫繁栄という意味において、重要なことです。モテるために勉強をするのではなく、配偶者の選択範囲を広げて、よりよい遺伝子を構成に残すために勉強にはげむという理屈が、現代社会では筋道が通るのです」(205頁)と説く。

個人的に「なるほど」とは思うのだが…。確かに人類が動物である以上、動物の生殖と同様の要素があることは事実だろう。けれどそれが無条件で人間社会に適応されるわけではない。

エヴァレット・ライマー『学校は死んでいる』抜粋①

あらゆる国の、あらゆる種類の、あらゆる水準の学校が、四つの違った機能を同時に果たすという傾向が次第に一般的になってきている。四つの機能とは、保護監督、社会的役割の選択、インドクトリネーション(特定の思想や教義の吹き込み)、そして普通、技能と知識の発達を図ることという風に定義されている。(35頁)

社会学者は学校を託児所として認識する。ライマーはこれを発展させ、四つの機能を持たせている。「保護監督」にあたるのが託児所である。学校の選別機能は「社会的役割の選択」、にあたるようである。我々が考える「学校」は「技能と知識の発達を図る」にあたるものだが、それ以外にも学校は機能を持っている。その認識を外さないようにしたい。

東郷雄二『新版 文科系必修研究生活術』(ちくま学芸文庫 2009)

 卒論など各種論文は苦労して泥臭く書くものであると思っていた。研究には王道などないのだと思っていた。けれど、この本を読み、研究にもやり方があるということがよくわかった。
 印象的だったのは、研究カードや文献カードを作るという点だ。論文や文献の重要な箇所や要約をカードに書く(PCなら打ち込む)。梅棹忠男以来の方法ながら、これによって論文を書くのが容易になる。この本を読み、「こうすれば論文が書ける」と安心をした。この本を座右に置いて、卒論を書いていきたい。人間、何をどのようにやっていいか分からないと、不安になる。焦ってくる。本書はすっきりと論文執筆に書かれるための「小道具」を教えてくれるのだ。
 

佐伯『「学ぶ」ということの意味』(1995 岩波書店)

●「他者との学び」が教育である、ということを教育心理学の知見の元にまとめている。
●「人はつねに、他者とともに学ぶ存在である」(44頁)
●66頁からの「学びのドーナッツ論」は未だに理解できていない。再び読む。