寺山修司の『書を捨てよ 町へ出よう』。
町とは何か?何の象徴か?
寺山修司の『書を捨てよ 町へ出よう』。
町とは何か?何の象徴か?
マイケル・ホルクウィスト『ダイアローグの思想 ミハイル・バフチンの可能性』(法政大学出版会、1990年)
われわれは自分自身を見るためには、他者の視線を自分のものにしなくてはならない。きわめて大雑把にいえば、主観性をめぐるバフチン流「本当のような作り話」は、私がどのようにして他者から私の自己を手に入れるかをめぐる話である。私を、私自身が知覚できる客体に変えてくれるのは他者の範疇だけなのである。私は私の自己を、他者はこう見るかもしれないと思い描きながら見る。自己を作り出すには外部からそうしなくてはならない。換言すれば、私は私自身の作者となる。42頁
われわれ皆が自分自身のテクスト、人生と呼ばれるテクストを書いているのである。
45頁
「私」の始まりと終わりを全体的生として構想する可能性は、他者の時間/空間において実現される。「私」の死は他者にとってのみおこるからである。320頁
→猛烈に印象に残った言葉である。「私の死は他者にとってのみおこる」。
言表はつねに、それに先行する別の言表に対する応答であり、それゆえ、程度の差こそあれ、先行する言表はつねに条件づけられ、次には逆にそれを限定する。バフチンにおいては「言説は状況を反映するのではなく、それが状況なのである」と著者はいう。322頁
ネットですぐに調べた知識よりも、自分の手足で調べた知識のほうが価値が高い。
『低度情報化社会』にあるとおり、ネットの知識を重視し過ぎてはならない。所詮、借り物の知識と考えておくべきであろう。
…どうもこのblogは警句集になるきらいがある。でも、まあ、いいか。寺山修司の本領はアフォリズムによってこそ現れているわけだし。
私の名を表す四文字の言葉(あるアーティストは「好きです」という「四文字の言葉」がどうしても言えないことを叫んでみせた)。
この単語は他人にはどのような感情を伴って語られるのであろうか?
「今日も駅にいる」
働いてください!
西武線
横に一列
みなDS
駅に行くと思うこと。
沢山の人がそれぞれの行く先を持っていて、それぞれの場所にいく。それぞれの人がそれぞれの生活・人生をもっている。皆が家族を持っている。帰る家を持っている。
それを考えると、壮大な気分になるのだ。
それぞれがそれぞれの人生を歩んでいる。それを思うと、一人に会い、話し、共に過ごす中で多くの発見があるのだと思う。
沢山の人に会うことと同様に、一人を深く知ることが重要である。人間、そんなすぐにわかりあえず、理解することは出来ない。だからこそ人と会うことは面白いのだ。その人という、世界にひとつしかない実存と触れ合うことになるからだ。
今の時代、受け身では全て流されてしまう。自分で考えなくなってしまう。学校化社会はここまで来ているのである。
学者バカとバカ学者の違いについて気にかかる。
木田元『最終講義・反哲学としての哲学』を読了。
西洋哲学は西洋独特の考え方の総体であって、日本人の考え方と必ずしも一致しない。
哲学というものにも脱・中心化しようとするのは流石だ。