2008年 7月 の投稿一覧

Tカード

「Tカード、100ポイント貯まってますが使いますか?」

喜ぶ前に、何故貯まったのかを考えねばならない。

「1万円も使った」ということなのだ。

煎餅におもうこと

知人に煎餅をあげた。目の前で砕いていた。

始め、馬鹿にされたのかと思ったが、「え、食べる前に砕くもんでしょ」といわれた。

国際理解とは自分が正しいと思うことの、180°逆を「正しい」と考えている人がいると自覚していくことだ、とは国際協力師・山本敏春氏の言葉である。

煎餅から国際理解を考えるきっかけになったのだから、面白い。

スタディ

普通に考えれば、勉強は楽しい。小1をみればわかる。

私のスタイルを変えた本

ごく短い人生経験しか持ちえていない私。そのため、「自分の座右の書」や「座右の銘」など、聞かれても出てこない。「私を変えた一冊」なんて、何だろう。
 しかし、話をミクロにかえよう(私はよくマクロ視点とミクロ視点を交互に使おうとしている。マクロで話が詰まればミクロ、と逃げているところもある)。私の人生それ自体を変えた一冊や、何度も読みたいという本はまだ思い浮かばないが、自分の読書スタイルを変えた本なら、一冊ある。それが齋藤孝著『三色ボールペンで読む日本語』である。
 この本はベストセラーとなったので、御存知の人も多いであろう。本を読み、「まあ重要」というところは青、「すごく重要」には赤、「面白い」箇所には緑で線を引くというやり方を提唱した本である。私の読書の仕方は、この本を契機に大きく変わった。まず、「本を買って読もう」と思うようになった。線を引き、自分の形跡の残った本を座右に残しておくために。これは続編の『三色ボールペン情報活用術』に影響されたことでもある。‘よく情報をカードやパソコンに打って活用しよう、という人がいるが、本それ自体を残しておくほうが、情報は活用しやすく、またなくなりにくい’といった内容が書かれていた。
 また、ペンを片手に、本を読む習慣がついた。「お前、こんなに線引いて意味ないだろう」といわれようが、わが道を淡々といけるようになった。本を携帯する習慣がついたため、常にペンも携帯しようと思うようになった。それで私の携帯にはミニ・ボールペンのストラップがついている。
 齋藤氏の著書には、批判もいろいろ寄せられているが、私は『三色』の本がなければ今の自分のスタイルは成立していなかったであろうと実感している。その意味では、齋藤氏に感謝の念でいっぱいである。まんまと齋藤氏の主張にのせられているが、齋藤氏の言う「読書の型」を習得できたことは、自分の財産になっているような気がする。
 齋藤氏以外の読書法の本を、私は死ぬほど読んできた。速読術という怪しげなものにも挑み、それに対抗した「遅読術」なるものにも興味を持ったこともある。「ワルの読書術」は名前に引かれ、「私の読書法」なる本は暫く私の制服のポケットにあった。けれど、結局は高校受験の帰りによんだ『三色』に行き着いてしまうのだ。それだけ、私にマッチしていたのだろう。最近も、少し浮気をしていたが、新たな読書法を教えてくれる本を三色ボールペン方式で読んでいる自分がいて、浮気は駄目だと実感した。
 本を読むときに、ペンを持つ。これだけで、本に対し、意識的に向かえるようになる。意識的にならない読書は、漫然とテレビを見ることに等しい。何か見たような気はしても、結局何も残らない。ついにはコマーシャルや作り手の意図的な編集が、無意識層に残り、私の生活を裏でコントロールするようになる。
 何ももたずに本を読むことは、私にはできない。そんなときでも本の角を折ることで、意識的に本に対抗する。存在論ではないが、本はそれ自体に意味はないと思う。読む側である「私」の存在なくしては、本は単なる所有物やオブジェに過ぎない。「私」が書を開き、そして意識的に読むときに、初めて本は「本」になることができるのであろう。

 先ほどの言を訂正。この本は読書スタイルだけでなく、私がノートを多色ペンで取るようになったきっかけを築いた。また、メモの地色を青にする契機にもなった。私は、小中学生はともかく、高校生にもなってシャーペンを振りかざして学習するのは能率的でないといつも考えている。消しゴムで消したところで、どうせ自分以外誰もこのノートを読まない。だいいち、ノートをユダヤ系三宗教の信者のバイブルの如く、何度も読むなんてことは恐らく無いはずだ。ならば、ボールペンでシャッと二重線で訂正する。このほうがシンプルだ。

9日に行く、日本点字図書館の予習。

図書館概要

日本点字図書館は、昭和15年(1940年)11月10日、本間一夫によって創立され、全国の視覚障害者を対象に、点 字・録音図書や雑誌の製作貸し出し、図書情報の提供、中途視覚障害者のための点字教室、パソコン教室の開講、盲人用具の開発と販売、点字図書の出版、触図 の製作などの事業を行なっています。

◆日本点字図書館の歴史

昭和15年11月10日 日本盲人図書館創立(豊島区雑司が谷・蔵書数700冊)
昭和16年3月 現在地(新宿区高田馬場)に移転
昭和19年3月 戦争の激化により貸し出し部が茨城県結城郡に疎開
(蔵書数2,300冊・貸し出し数1,300冊)
昭和20年 貸し出し部、北海道増毛町に再疎開(蔵書数3,000冊)
戦災により東京の図書館(本部)が全焼
昭和21年 年間貸し出し数が2,000冊を超える
昭和22年 蔵書数3,027冊・貸し出し数4,821冊・利用者約400名
昭和23年1月 疎開先より上京、仮事務所
昭和23年3月 現在地の焼け跡に木造建ての建物完成
昭和23年4月1日 日本点字図書館と改称
昭和25年10月9日 財団法人日本点字図書館設立認可
昭和27年5月7日 社会福祉法人日本点字図書館認可
昭和29年 厚生省より点字図書製作事業を委託される
昭和33年9月 声のライブラリー発足
昭和36年4月 厚生省より声の図書製作貸し出し事業を委託される
昭和37年4月 東京都より声の図書製作事業を委託される
昭和41年4月 盲人用具取扱い業務発足
昭和43年 録音図書貸し出し数が20万巻を超える
昭和45年10月 東京都より点訳奉仕者養成講習会を委託される
昭和51年 声の図書「カセットテープ化」開始
昭和53年 書庫増築工事実施
昭和54年 テープ制作棟工事実施
昭和55年 創立40周年記念式挙行
昭和60年 創立45周年記念式挙行
平成2年 創立50周年記念式挙行
平成3年 パソコン点訳者養成事業開始
平成6年1月 厚生省委託新規事業として情報ネットワーク事業開始(PC-VAN)
平成6年12月 アジア盲人図書館協力事業開始
平成8年3月 国費による新本館完成
平成10年3月 国費による新別館完成
平成11年8月 デイジー図書(デジタル録音図書)の貸し出し開始
平成12年3月 ホームページ開設
平成12年11月 創立60周年記念式挙行
平成13年4月 厚生省補正事業「点字図書館情報ネットワーク事業」稼動
平成15年1月 「本間一夫と日本点字図書館」が第10回井上靖 文化賞を受賞
平成16年4月 録音図書ネットワーク配信サービス「びぶりおネット」を開始
平成17年10月 びぶりおネットに点字データ配信を追加


→昭和22年に、すでに4500部も利用があったことは、興味深い。

https://www.nittento.or.jp/soumu/gui-01.htmより。

赤本

「先生、心なしか早稲田の赤本がエンジ色に見えたんです!」

教師目線の教育論も必要だ!

 私は将来、教育学の研究者になりたいと考えている。

 日本に教育論者・教育評論家は数多い。専門職でなくとも、例えば日常会話の中で学校の話、わが子の教育の話などが話題に上がる。そのたびに人びとは、教育を論じる。

 論者と実践者は異なる。論者は無責任に何でもいえてしまう。現場を見ていないからだ。昨今の「モンスターペアレント」という現象は、その典型であろう。私は、数多くの批判や指摘に耐えつつ、淡々と教育実践しておられる教員の方々に、尊敬の念を抱いている。

 そのため私は、批判に晒されつつも、実践を続けておられる教員の方々の目線にたった、教育学者になりたいと考えている。

 現在、教育には「子ども目線が必要だ」といわれる。もっともなことである。また「これからの日本の将来を支えるためには、もっと英語力をもった国民が必要になる」などと、マクロな視点からの教育論・国家全体を見たうえでの教育観もよく叫ばれている。けれど、決定的にかけているのは、「教員を支える」という視点である。

 教育論者は、ただ批判をするだけで事足りる。「子ども目線の教育」や「マクロな視点」の必要性を主張する人びとは、ともすれば現状の批判しか行わない。しかし、批判だけをしていては何もかわらない。実践者である教員の行動によって、現実は変わって行く。ならば、教員を支えずして、教育が良くなるはずは無いではないか。

 私は、教員を支える教育学者となりたい。そのため、現場を知るため、教職課程を受けている。

サイレン

夜に消防車のサイレンは音量を下げるべきだ。

騒音だ。

いつでも同じ音でいい訳でない。