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【イベント報告】「ちょっと変わった学校」を知ろう!

本日(2012/11/18)、東京・高円寺コモンズにて、

「「ちょっと変わった学校」を知ろう!」を開催しました!

この企画は私・藤本(日本のノマド・エジュケーション協会 事務局長)と、
伊庭くんとの共同主催です。

フリースクールやデモクラティックスクール、
定時制高校・通信制高校という、
通常の学校とは「ちょっと変わった」学校たち。

その教員によるプレゼンを行いました。

東京シューレ・シューレ大学からは朝倉景樹さん。


八ヶ岳サドベリースクールからは木村聡さん。

 

定時制高校からは狩野徹さん。


そして通信制高校は私・藤本研一がお話をする、というものです。

参加者からは「充実していました」「もっとお話を聞きたかったです」との、
嬉しいコメントを多数頂戴しました。

また次回のイベントも、実は企画しております。

ぜひまた、お越しくださいませ☆彡

お忙しい中お越しくださった皆さま、
本当にありがとうございました!!!

ちなみに今回、私が一番、勉強させていただきました。
特にフリースクールや通信制高校では、
「お金」がないという問題が大きく現れます。
そんなとき、不遇を嘆くのではなく【生徒とともにカンパを募る】という
いい社会勉強が出来るということを学ばせていただきました。

なお、今回NPO法人カタリバ様には会場提供をはじめ、
多大なご協力を頂いております。
本当にありがとうございます。

ジャック・ランシエール『無知な教師〜知性の解放について〜』法政大学出版局, 2011.

本書は、いわば大きな「挑戦の」書である。

つまり、「教員は自分の知らないことを教えることが出来るか」という問いなのだ。

著者・ランシエールの参照する学者・ジャコトによれば「可能だ」という。

ジャコトは自身がオランダ語が分からない中、

オランダ人にフランス語対訳の「テレマックの冒険」という小説を渡す。

学生たちは自分の力でフランス語の読み書きの力をみるみる獲得して「しまう」。

そこからの確信が、ジャコトの「可能だ」という認識につながっている。

「生徒を解放すれば、つまり生徒自身の知性を用いるように強いれば、自分の知らないことを教えられるのだ。教師とは、知性が己自身にとって欠くことのできないものとならなければ出られないような任意の円環に、知性を閉じ込める者なのである。無知な者を解放するには、自分自身が解放されていること、すなわち人間精神の本当の力を自覚していることが必要であり、またそれで十分なのだ。無知な者は、教師が彼にはそれができると信じ、彼が自分の能力を発揮するように強いれば、教師が知らないことを独りで習得できる」(22)

この確信を支えるのが、ジャコトから得たランシエールの人間観である。

「人間は知性を従えた意志である」(77)

ある意味、昔読んだ内田樹の『先生はえらい』に近い。

つまり、「いい教師だからいい教育ができるわけではない」というテーゼを伝えている点だ。

内田の『先生はえらい』は、学ぶ側の思いがあれば、教員の教えていないことすら学習することが出来ることを示している。

ジャック・ランシエールも、ジャコトを通じて伝えているのである。

本とお札の、関係性。

自分は脅迫的に「物を捨てないと」と思っていた。

それが「シンプル」であり「ノマド」だと感じていた。

しかし、大事なことがようやくわかった。
それは、「自分の好きなもの」をハッキリさせた上で整理する、ということだ。

自分が主催したセミナーに来て下さった講師に教えていただいたことだ。

自分を振り返ると、私は「本」が好きだった。
大学院生時代よりも本は買わなくなったが、それでも「研究者」である以上、本にすごく執着がある。

誠にかわいそうなことに、私の持つ本たち(おそらく数十万ほどは投資している)はダンボールに眠らされていた。
そのへんのゴミやなにかと同じような扱いを受けていた。

これではいけない。

財布へのお札の入れ方で、その人の金運が決まる、という。
非合理的といわれるが、少なくともお札を丁寧に入れる人はお金を細かく丁寧に見ていける人でもあるだろう。

私の本の扱いは、グチャグチャにお札を財布に入れる人と同じだったのだ、と気づく。

本は自分に知のみならず、お金と智慧をもたらしてくれるもの。
ある意味、「お札」以上の存在だ。

だからこそ、本を丁寧に扱う。
粗末に扱わない。
本棚に入れる。

こういった「習慣」こそが、本とのよい出会いをもたらしてくれる。
そんなふうに感じた。

Facebookで傷つく人びと。

私が高校生のとき、携帯を持っていなかった。

いま、高校生は当り前のように携帯を持っている。

私が高校生のとき、FacebookもTwitterもなかった。

いま高校生どおしがSNSやチーム対戦ゲームで常につながり合っている。

私が思う以上に、高校生を巡る情報の状況は大きく変わっている。

私のようにあまり「気にしない」人間でさえ、Facebookをやり始めた頃、「いいね!」がつかないことにショックを受けた。

高校生であれば特定の相手が「いいね!」をしないことにショックを受けることもあるはずだ。

ではどうすればいいか。

大人でさえ、Facebookで一喜一憂「してしまう」現実を伝えていくことだろう。

少なくとも、「Facebookで傷つくのは自分だけかもしれない」という「誤解」を解決させることが出来るはずである。

夢が叶う! 仕事がはかどる! 起業家になれる! 部屋の間取りセミナー

 

本日11/11(日)、「夢が叶う! 仕事がはかどる! 起業家になれる! 部屋の間取りセミナー」を、Coworking Cafe 36にて実施しました!

東京から建築家の方に来て頂き、
一人ひとりの間取りを見つつ実践的なアドバイスをしていくイベントです。

人間、「どんな部屋にいるか」が潜在意識に働きかけます。

 

だからこそ、「どんな部屋にしたいか」を考え、
すっきりと片付けることが必要です。

「カーテンは外す」
「間仕切りは外す」
「天井照明を外す」などなど、
【居心地のいい】空間にするためのヒントあふれるセミナーでした!

参加して下さった皆さま、ありがとうございます!!!!

アメリカ映画と「監獄」

アメリカ映画には「監獄もの」が大変多く出てくる。

これは犯罪社会学的に見ると興味深いことだ。

『監獄の誕生』をはじめとして、ロイック・バカンなど現在の「監獄」を巡る議論は多い。「貧しきは監獄に」「民間刑務所」など、アメリカの監獄事情は大きく進化している。

映画でも「ロックアウト」や「マイノリティ・リポート」など、監獄制度を巡るSF映画は近年も多い。

一方、スウェーデンでは犯罪者と住民の「共生」をする監獄もある。
犯罪者が更生できるよう、
アメリカの「重罰化」とは正反対のベクトルに向かっている。

そんな中、アメリカ映画では犯罪者を「隔離」し、「脱獄不可能」にするという制度が大変多く描かれている。

アメリカ映画の描く「未来」は、重罰化・厳罰化の時代となっている。

この方向性の違いはとても興味深いが、アメリカ映画の描く「未来」は、今以上に犯罪者と「普通の」人を隔離する社会となっている。
こういった社会では、一度犯罪を行うと二度と「普通の」人に更生することは出来ない。

しかし、刑務所に入る人間の殆どは軽度な犯罪であることを考えなければならない。

「食べリンクin大谷地」、開催しました!

本日、第1回「食べリンクin大谷地」、開催しました!

これは日本ノマド・エジュケーション協会と、
若者協力事業所Link Nextとの共催です!

美味しく食事とお菓子をつまみつつ、
子どもと関わる上での醍醐味と
難しさを交換しあいました。

今回、私・藤本研一とLInk Nextの田中耕平さんとの
「前座トーク」を行いました。

こういう形式のトークイベントをするのは初なので、
なかなか勉強になりました。

次回は今回出た「子どもと関わる上で大切なこと」を、
話し合いたいと思います。

以下が次回詳細です。

多数のご参加、お待ちしております☆彡

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第2回  子ども×教育 タベリバ

【日時】2012年11月25日(日)
13:00-15:00

【場所】札幌市厚別区大谷地東3丁目1ー1シンエー大谷地ビル2階「Link Next」

【参加費】500円

【持ち物】お弁当

https://www.facebook.com/events/506653392679295/?context=create

ノマド・ゲーム考

いつでもゲームをする。

それがノマド・ゲーム。

子どもは電車内で、ちょっとした時間を逃さず、DSやPSPを使う。
社会人よりもよっぽど時間を有効活用している。

ぼーっと電車に乗る人は、大人ほど多い。

子どもは本・雑誌を読む。
マンガを見る。
iPodを聴く。
アニメを見る。
ゲームをする。

社会人よりも、電車時間を価値的に活用している。

そんな子どもに学びたい。

修士論文執筆中の方への「餞(はなむけ)」の言葉

教員をやっていると、ふと1年前まで自分が院生であったことを懐かしく思い出します。

 

1年前、私は「教採活動」をしながらの修士論文執筆でした。

「教採」、つまり教員採用活動です。

 

ただ、言うほど「教採」には本腰を入れていませんでしたが…。

 

私が「教採活動」を始めたのは昨年9月。

8月に「もう研究者になるのは無理だ」という「挫折」をしました。

未だに覚えています。

夜22:00に高田馬場のスターバックスで原稿執筆中、

不意に泣けて泣けて仕方がなくなりました。

「こんな研究も満足にできない」挫折感が、急激に内面から湧いてきたのです。

 

気持ちを切り替えるために中国にも旅行し、

意味なく熱海の友人の家に遊びに行きました(ごめんね、藪ちゃん)。

 

最終的に切り替えられたのが、私の場合、教採活動でした。

エントリーシートと履歴書を書きまくり、

学部生時代の「教科教育法」の授業を思い出しつつ模擬授業練習をしました。

(公立はちなみにもう採用はやってません。私立だけ勝負、でした)

 

でも社会科教員なんて、どこも足りています。

(おそらく)学歴で模擬授業まで進めても、その先は全然進めません。

 

「不採用」通知に涙しました。

 

埼玉の本庄にある高校に模擬授業に行く際、

乗る列車を間違え、なぜか宇都宮線の栃木駅を通過したときの衝撃もありました。

完全な遅刻。

「また御縁がありましたら」との携帯電話先の声に失望し、

そのまま東武動物公園でゾウを眺め、すごすご早稲田に戻りました。

 

なかなか散々です。

でも、その時期から、何故か(むやみに)コワーキングスペースのインターンシップも始めました。

 

やることが「ぶれて」ます。

でも「ぶれて」いたからこそ、得るものも想定外に大きかったです。

 

修士論文ごときに「やられ」たくない。

教採ごときに「やられ」たくない。

そんな思いでいっぱいでした。

 

どこかの時点で、修士論文とは良くも悪くも「出せば」受取ってもらえるもの。

そう開き直りました。

 

単なる「研究」で出来ないことをやる。

私の場合は「実践」でした。

インターンシップは、格好の舞台となりました。

 

インターンシップでやったのは、まあ言えば掃除とネコの世話(変わったコワーキングスペースです)。

この2つ、やってみると奥が深いこともそのコワーキングスペースで学びました。

あとは来客してくださる方への挨拶です。

ほかにも各種イベントの開催・裏方(修士論文を書いているのに、年越しパーティーのお手伝いもしていました)。

大学院では絶対経験できない知見を得ることが出来ました。

(この知見が、早稲田大学教育学会主催のセミナーの運営にも活かされました)

 

色々ありましたが、年末にはいまの職場にも内定が決まりました(札幌とは思いませんでしたが)。

 

並行して、いろんなセミナーにも行きました。

1月の頭には噂に聞いていたTOSSにも参加、「常連」となりました。

教員としての実践の基本を教えて頂きました。

 

そして1月第2週に修士論文を提出。

開放感と同時に「ああ、1つ山を超えたな」感でいっぱいになりました。

 

さて、昨年の9月のはじめごろに私と会った方はご存知と思いますが、

そのころ私は「欝」でした。

 

大学院の将来の見えなさに憂鬱になっていました。

いろいろ試して気づいたのは、

「自分は不幸だ」と思う隙がないほど、「何か」に取り組むことでした。

自分のことを考えないでいい場合、軽い鬱症状は軽減するように思います。

私の場合、その「何か」が「教採」であり、「インターンシップ」であり、「セミナー」でした。

 

要は「修士論文」だけをやらなかったことで、

私は「修士論文」を書き上げることが出来たわけです。

 

諦めて「教採」だけでも、多分、ダメでした。

インターンシップやセミナーまわりもしていたからこそ、

「教採」も決まったのだと思います。

 

「修士論文」だけに追われていると、やがて修士論文も書けなくなります。

やるべきことが多いと、その合間に「修士論文」を書きたくなります。

不思議ですが、そういうものです。

 

 

逆に私の場合、「コワーキングスペース」という「協働の学び」「共同の仕事」を誘発する環境に

インターンシップをしていたことが、修士論文の「オチ」をつけるのに非常に役立ちました。

 

私の修士論文のタイトルは「通信制大学学生会の持つ機能に関する一考察」です。

サブタイトルは「学生会の学習支援機能とシャドウ・ワーク機能」。

 

この修士論文はイリイチのシャドウ・ワーク概念を通信制の学習や「共同」の学びに応用した「世界初」の論文です(たぶん)。

共同の学びをすればするほど、逆に学校という「制度」側に絡め取られてしまう、という可能性を示唆した論文です。

 

この「オチ」は、確か11月、インターンシップ先のコワーキングスペースで夜21:00頃、

掃除をしていた際に思いついたものです。

 

やはり修士論文だけをやっていると、こういう発想は出なかったんだなあ、と思います(成功しているかは不問に付します)。

 

「これだけやる」と決めると、人間、案外うまく行かない。

でも、「あれもこれも」やると、案外両方できてしまうものです。

結果的に、「これだけやる」視点では見えない物もみえるものです。

 

この考え方が、いまの私の原点となっています。

 

ですから、「修士論文」に苦しんでいる皆さん。

別のこともやってみましょう。

セミナーにも行きましょう。

専門分野ではない勉強会を開きましょう。

 

博士課程に行かないのならば、修士2年目は「学生」が出来る最後のチャンスです。

どうせなら、「修士論文」も「学生」も、満喫したくありませんか?

 

私は欲を出して色々やり、結果的に「楽しい」修士2年目後半を送ることが出来ました。

 

禁欲主義は、よくないです。

それが私の餞の言葉でございます。

 

「ひとつより、ふたつ。

やるなら思いを込める」。

 

これで道は拓けるはずです。