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網野善彦・鶴見俊輔, 1994,『歴史の話』(朝日新聞社)①

鶴見俊輔網野善彦も、私の好きな作家・研究者である。

どちらも、独自の立場から、歴史や思想を解き明かそうとしている。

そんな2人が、実は対談をしていたなんて・・・。

思わぬ発見のあった本。
そこからの抜粋集。

鶴見 私は、「烏合の衆(うごうのしゅう)」を思想上の強さのバネにしたいと思っているんです。(…)味方の陣営はたった十人。その十人がみんな「烏合の衆」でも、「烏合の衆」であることを自覚すれば、それは思想的な強さになっていくと思うんです。「烏合の衆」は、つまりバラバラということでしょう。ディファレンス(違い)がある。それが思想的な強さになっていく。十人の「烏合の衆」で単一の立場に団結しよう、とは私は思わない。「鉄の団結」というのは考える力を弱めていくんです。(18~19)

 

烏合の衆。

烏合の衆

【意味】烏合の衆とは、規律や統制もなく、ただ寄り集まっただけの群衆・軍勢。役立たずな人々の集まり。

)「烏合」とは、カラスの集団のことで、カラスが集まっても、鳴いてうるさいだけで統一性に欠けることから、たとえとしてこの語が生まれた。(語源由来辞典

言葉は悪いが、「規律や統制」なく「寄り集まっただけ」だからこそ、彼らは考える。

私も「考えない」団結でなく、「考える」烏合の衆でありたい、と思った(思っただけかも)。

 

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「どのようにして」という質問

なにか、できないことがある。

例1「さかあがりができない!」
例2「片付けができない!」
例3「人間関係がうまくできない・・・」

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そのとき「なぜできないのか」問うと、暗くなる。

例1→「なぜできないのか。才能がないから・・・」
例2→「なぜできないのか。やっぱりO型だから無理!」
例3→「なぜできないのか。やっぱり、オレはコミ障だから」

そんなとき、問い方を変えてみると、発見がある。

問い方を「どのようにしたらできるのか」に変えてみるのだ。

例1’→「どのようにしたらできるのかな。練習が足りないからかな。もっと練習してみるか」
例2’→「どのようにしたらできるのかな。100均の整理グッズでも買ってみるか」
例3’→「どのようにしたらできるのかな。コミュニケーションについての本でも読んでみるか」

どうだろう?
「どのようにしたらできるのか」の質問のほうが明るい。
次何をしたらいいか」、なんとなく見えてくる。

問い方を変えるだけで、だいぶ変わることがあるのだ。

それは、理系の研究者でも同じらしい。
「どのようにしたら」、つまり「いかにして」という問い方こそ、真理発見につながるのだ。
「なぜ」という問いからは、発見されにくい。

自然の研究から決定的な答えが得られるのは、この「いかにして」型の問いだけなのである。いかんせん、この言い方は落ち着きが悪いので、「いかにして」と、より具体的な|問題を論じるつもりで、「なぜ」という、より一般的な表現をうっかり使ってしまうこともあるかもしれないが、そこはどうか大目にみていただきたい。
しかし、現実に知識を得るという観点からは、「いかにして」と書き換えられたこの疑問を補う、より実際的で実り多い多数の問いが発せられてきた。たとえば次のような問いもそのひとつである。「今の時代の宇宙をもっともよく特徴づけている性質は、どこから生じただろうか?」。いっそう重要なのは次の問いかもしれない。「その疑問に答えるためには、何をすればよいだろうか?」(ローレン・クラウス, 2013, 『宇宙が始まる前には何があったのか?』, 文藝春秋, 207-208頁)

 

 

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☆関係ないけど、つぎの引用も結構面白いので残しときます。

物理学が環境科学になるということは、われわれの知る物理法則は基礎的なものではなく、たくさんの宇宙がある中で、たまたまこの宇宙の中だけで成り立つローカルな法則にすぎないということを意味している。そしてそれはまた、この宇宙がこのような宇宙であるのは、単なる偶然だったということを意味してもいる。(「訳者解説」283頁)

藤野英人, 2013, 『投資家が「お金」よりも大切にしていること』星海社新書.②

働き方、お金の使い方・・・。
本書にはいろんな気付きがあります。

そんな一節を抜粋。

従業員に過重労働を強いる「ブラック企業」を生み出しているのは、私たち消費者である(89頁)

 

経済とは「共同体のあり方」であり、どのように生きたらみんなが幸せになれるかを考えるのが、経済学の本質だということです。
まさに互恵関係であり、自他不二こそが、経済の本質なのです。(98頁)
経済とは、お金を通してみんなの幸せを考えること−−このことを、ぜひみなさんは覚えておいてください。(99頁)

太古の昔、人間はアフリカで細々と生きていた、弱い哺乳類のひとつだったようです。そんななか、インドネシアで大規模な噴火があり、それによって地球の温度が一気に寒冷化に向かい、多くの生き物が死に絶えました。
人間の祖先も多くが死んでしまい、絶滅の淵に立たされたそうです。
しかし、ここからが面白いのです。生き残った人間のうち、さらに生きのびることができたのは、血縁でなくてもお互いに助け合い、少ない食べ物を争わずに分かち合ったグループだけなのだそうです。|
要は、「協力」こそが、人間が生き残った大きな戦略であり、人間を人間たらしめている大きな要素だということです。
協力することで「company」になり、いま持っている資源を「share」することは、動物にはできない人間独自のものなんですね。(127-128頁)

 

本来あるべき金融教育とは、働くことに価値があり、その価値ある労働の延長に起業の利益があり、その利益の将来期待が会社の価値を形成していると理解することです。(151頁)

真の安定とは、変動・変化をしないことでは、けっしてありません。
変化と向き合い、変化をチャンスと捉え、変化(成長)を望んで、実際に働くこと。要は、変化こそが安定なのです。(213頁)

Z

問題解決型学習(PBL)とは、何か?

問題解決型学習、通称PBL
オリジナルはProject Based Learning。

教育業界の悪い癖で、教育関係者は何事も「大げさ」に言ってしまう。

プロジェクト学習や問題解決型学習というと、
なんだか「すごそう」な問題を解くイメージがある。




例)「環境問題の解決!」

例2)「貧困の撲滅!〜いま私たちにできること」 などなど。

 
・・・しかし、デューイが言ったような意味の問題解決型学習はもっと単純。
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例)「今日の晩ごはんは、カレーか肉じゃがか、どっちにしよう?」

例2)「お腹痛い・・・。きょう学校行こうか、行かないか、どうしよう?」

 

・・・どちらの例も、ある意味「しょうもない」。
しかし、まぎれもなく、「どちらにするか」という問題を解いている

その意味でまぎれもない「問題解決型学習」なのだ。

 

・・・こんな話を、大学院で教授から教えてもらった。
それ以来、おおげさでなく、日常の延長でできる問題解決型学習について、思いを馳せるようになった。

 1976年に設立されたマーストリヒト大学は、設立当初から、独自に「問題解決型学習方式(PBL方式)」を取り入れてきた大学です。このPBL方式は、採用後30年を経た現在、国内外の大学からも注目されています。(…)
PBL方式は、学生の〈自立性〉〈起業精神〉〈問題解決への指向性〉を養うことを目的とするものだと大学は説明しています。
大学生たちは、入学後すぐに10人未満の小グループで共同学習を始めます。それぞれの科目では指導段階ごとに、学生たちが〈問題解決〉研究に取り組むためのきっかけとなる事例がいくつも用意されています。この事例というのは、私生活の中で、あるいは、学生たちが将来就く仕事の現場で生じると考えられる様々な問題の場面や状況を設定、表記したものです。この事例の中に示された問題を解決するために、学習中の科目の知識を駆使して、小グループのディスカッションのなかでブレーンストーミング(創造的集団思考法)をし、問題となる店を絞り、それを元にして自主研究をしていきます。
小グループのディスカッションには、それぞれチューターと呼ばれる指導者がついており、学生たちのグループ討議のプロセスを監視し、討議の進む方向やレベルによっては、必要に応じてコメントを加えます。(リヒテルズ直子, 2006, 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか』平凡社.52頁)

 

ポイントは「学習中の科目の知識を駆使して」という部分。
こういうと、さも「いま学んでいることを、問題解決に役立てているなんてスゴイ!」と思ってしまう。





でも、考えてみたら、それはある意味「あたりまえ」の話。

 

新聞を読んでいて、よく知らないニュースが出てきた場合、私達はどうするか?

普通は「きっとこんなことだろう」と推測をする。

・・・これはこれまでに学んできたこと・学んでいる途中のことをもとに推測をすることにほかならないのではないか?

 

つまり、「学習中の科目の知識を駆使して」とは、社会経験の中で得られた知識・経験を総動員して、「よくわからないニュースを解釈する」行為それ自体を指すのではないか?

 

こう考えた場合、「問題解決型学習(PBL)」というのは、「なんかスゴそう」な教育とは言えなくなる。

 

むしろ生きること自体が問題解決学習なのだ。

 

ふつうに生き、ふつうにものごとを考えていたら、それがそのまま問題解決型学習になるに決まっている。

そうならないからこそ、「ふつうの」学校教育は終わっているわけである。

2Q==

 

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ジョン・テイラー・ガット, 2006, 『バカをつくる学校』成甲書房①

もともと、私は「脱学校論」をずーっと研究していた。
そのため、「学校批判」「教育批判」系の本は昔から大好きだった。

本書『バカをつくる学校』も、そんな理由で読んでいて楽しくなる本の一つ。

 私の考えを理論的、あるいは比喩的に表現すれば、教育は「油絵」よりも「彫刻」に似ている。つまり、油絵では、キャンパスに絵の具という素材を「加える」ことでイメージが生まれるが、彫刻では、素材を「削る」ことによって、石の中に閉じ込められたイメージが浮かび上がる。ここに決定的な違いがある。
私は自分の専門知識を子どもに押しつけるのをやめた。その代わりに、彼らの本来の才能を邪魔しているものを取り除こうとした。私にとって、教師の仕事は、もはや教室で生徒に知識を授けることではなくなった。学校は今もその無益な教育方針を続けているが、私はこうした教育の伝統をできるだけ打ち破り、生徒ひとりひとりの可能性を引き出そうとした。(15)

私たちが「教育」と呼んでいるものは、じつは世界最大のビジネスの一つであり、そこには伝統的な地域社会の価値観とは相容れない、制度の価値観がある。この百五十年間、学校の主な目的は、子どもたちに経済的成功のための準備をさせることだった。(129)

学校は巨大なメカニズムとして、人びとを全面的な管理に従わせ、死ぬまで幼稚でいさせようとする。彼らが必要とするのは未熟な人間だ。なぜなら、成熟した人間や成熟しようとする人間は、そうした管理を拒むからである。「品質」であれ何であれ、全面的な管理の下では、人は成長できない。しかし、大量生産経済を維持するためなら、どんなことも許されるのだ。(174)

この手の本は、「制度」の裏側を暴露している意味で面白い。
しかし、ある意味「禁じ手」でもあり、欺瞞的でもある。

「制度」の裏側を示している自分は、「制度」側の人間ではないよ。
自分は「制度」に絡め取られず、自分の意志を貫いているヒーローだよ。

なぜかしら、そのような色がついてしまうのが気になるところである。

 

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Gatto, John Taylor, 2005, “Dumbing Us Down–The Hidden Curriculum of Compulsory Schooling”, New Society Publishrers.

自分機密費を持とう。

機密費、というのをご存知でしょうか。

内閣府や外務省などで支出の内容を示す必要なく、使えるお金のことです。

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よく賄賂に使われたり、私的流用があったりと問題のあるこの機密費。
(例えば、https://blogos.com/article/94794/

国家レベルでは問題となりますが、個人レベルでは実は大事なのではないか、と思います。

例えば、誰かになにか言われることなく、ノーチェックで使えるお金。
それを「自分機密費」としましょう。

自分機密費として、将来やキャリアアップ、および勉強のために使用するお金を、毎月一定額用意しておくのです。

サイフの中のポケットに、毎月決めた額を入れておき、勉強会・書籍代・セミナー代などにどんどん支出する。

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通常の「機密費」同様、締め日の前に「使い切る」のがポイントです。

お役所は予算を消化しきらないと、来年度の予算配分が減ってしまいます。
「自分機密費」も、決めた額を使いきらないと、来年度の自分の成長がその分減ってしまいます。

よく誤解している人がいますが、勉強するにはお金がかかります。
学校教育・塾だけでなく、自分の成長にもお金がかかります。

端的に言えば、「高いからこの本買うのやめよう」というのを無くすのに、この「自分機密費」の発想は役立つ、ということです。

自分の成長にかかるお金を、毎月予算として別途計上しておく。
そして毎月使いきり、自分の成長につなげる。
そんな自己投資の積み重ね、やっていきたいなあ、と思います。

 

見田宗介『現代社会の理論−情報化・消費化社会の現在と未来−』(岩波新書)

インターネットが一般に普及したのは1995年。
この年はWindows95が発売され、一般家庭にようやくインターネットの存在が知られるようになった頃である。

それ以前の「パソコン通信」時代に比べると、使いやすさ・利便性が格段に変化した時である。

インターネットの可能性と恐怖を扱った映画『ザ・インターネット』も、1995年の上映。
この時代は、専門家のものだったインターネットが「ふつうの人」に扱えるようになったギリギリの時代である。

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本書『現代社会の理論』は、1996年の出版。

インターネットによる情報革命の初期の著作である。

そのため、素朴な形での「情報化社会」の可能性を描いている。
それがいまの我々からすると逆に新鮮である。

見田宗介は現代の社会はガルブレイスのいう「ゆたかな社会」となった、と言及する。
「ゆたかな社会」はこれまでの消費社会のあり方とは異なる。
「喰うものがないから喰う」「着るものがないから服を買う」のではなく、「流行り(=モード)だから服を買う」という消費社会である。

この社会では、常にモノを生産し続けることとなり、地球の有限な資源がどんどん消費されていく。
経済成長とはいうものの、資源がなくなっていく点で「成長の限界」を迎えることとなる。

見田宗介は、資源を消費する「モノ」ではなく、「情報」に注目する。
情報により、人間がミニマムに幸せを実感できる社会として「情報化社会」を想像しているのである。

 子どもは成長しなければならないけれども、成長したあとも成長が止まらないことは危|険な兆候であり、無限に成長しつづけることは奇形にほかならない。まして成長しつづけなければ生存しつづけられないという体質は、死に至る病というほかはない。
成長したあとも成長しつづけることが健康なのは、「非物質的」な諸次元−−知性や感性や魂の深さのような次元だけである。社会というシステムに対応を求めるならば、この広義の〈情報〉の領域というコンセプトによって、今日とりあえずその名を与えられている諸次元だけである。「情報化社会」の理論のうちのこの大きい射程をもった発想がわれわれの前に開いているのは、社会のシステムの、〈成長のあとの成長〉の可能性についての、このような見晴らしであるように思われる。(162-163)

 

「成長のあとの成長」の鍵が情報化社会である。
実際、見田の主張はこのあとの「IT革命」「携帯電話・スマホの普及」によって一部達成している。

「情報化」により、例えばネットからの収益で生活をできる人びと(アフィリエイター、デイトレーダーなども含む)を生み出したのは、まさにその一例である。

でも、それでよかったの?
見田の主張は、情報化により人間の「幸福」が達成される点を指摘している。
現実にインターネットは人に「幸福」を実感できるようにしたのだろうか?

本書のラストにおいて見田は物質的(マテリアル)なものに付随する「消費」を、「情報化」が乗り越えていき、物質的豊かさを超えた豊かさを我々に与えてくれる可能性を示唆する。

 「情報化社会」というシステムと思想に正しさの根拠があるのは、それがわれわれを、マテリアルな消費に依存する価値と幸福のイメージから自由にしてくれる限りにおいてであった。〈情報〉のコンセプトを徹底してゆけば、それはわれわれを、あらゆる種類の物質主義的な幸福の彼方にあるものに向かって解き放ってくれる。
けれども消費の観念は未だ、現在のところ、情報というコンセプトの透徹がわれわれを解き放ってくれる以前の、マテリアルな消費に依存する幸福のイメージに拘束されている。
われわれはなお〈情報化/消費化社会〉の、過渡的な、矛盾にみちた入口に立っている|ということができる。(170-171)

見田の夢見た「情報化社会」は、IT革命・スマホなどにより、すでに到来している。
しかし、物質的な「消費」の次元は未だに超えられていない。

逆に言えば、見田のいう「情報化社会」は未だに到達していない「見果てぬ夢」ということができる。

IT革命もWeb2.0も死語になった現在。
今一度見田の「夢」を見ていくことに、情報化社会の次なるヒントがあるかも知れない。Z

「あの人にできるんだから・・・」考。

この前、あるセミナーで「ノミの話」を聞いた。
ノミの体長は3ミリ。
でも、身長をはるかに超える2メートルくらいジャンプすることができる、という。
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単純計算すると、2000ミリ÷3ミリ=666.666・・・
つまり、自分の身長の667倍もの高さまでジャンプできる。

そんなノミを小さな箱に入れておくと、はじめは壁にぶつかるまでジャンプするが(自分の身長の667倍まで飛ぶのだから、朝飯前)、だんだん壁にぶつからない程度まで手加減して跳ぶようになる、という。
そんなノミは、箱のフタをとっても、「壁にぶつからない」レベルまでしかジャンプしなくなる。
では、そんなノミを再び667倍まで跳べるようにするにはどうするか?
セミナーのテーマはそこにあった。
どうすればいいだろうか?
それは、【ふつうのノミを箱に入れ、そのノミが普通にジャンプするのをみること】である。
「もうこれ以上跳べない」というのを否定してくれるのが、新たに入ってきたノミである。
教育もまた、同じ。
「跳べない」と思っている人には、「跳べる」「カンタンにできるよ」という仲間を見せること。
松下村塾もそうだけど、案外狭い所・知り合い同士のコミュニティから、「すごい人」は頻発する。
それは「あのあいつが上手くいったんだから、オレもできるだろう」という思い込みである。
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進学校で有名な学校から、なぜ東大合格者・京大合格者が出るか?
それは「あのバカな先輩でも東大に受かった」というのを後輩が見ているからである。
実際、私の高校時代も、「あの人も合格したんだから、私も・・・」というのを感じたことがある。
身近にいる「上手くいっている人」を見て、「あの人にできるんだから自分もできる」と解釈をすること。
実はこれ、すごく大切なことだと思う。
「上手くいっている人」を「ずるい」「悔しい」「腹立たしい」と思うと、「自分もできる」とは思えない。
「上手くいっている人」を見て、「自分もできるはず」と思えること。
これこそ大事だ。
箱以上にジャンプするノミを見て「ずるい」「悔しい」「腹立たしい」とノミは思わない。
ただ自分も真似てみるだけである。
人間はムダに「思考」があるから、できるはずのこともできなくなる。
あの人にできるんだから自分もできる」。
なにげに大事な言葉だと思います。

『ヒーローを待っていても世界は変わらない』?

ヒーローって、なんだろう?
ウルトラマン?
仮面ライダー?
それとも007のジェームス・ボンド、
あるいは大阪の橋下市長?

本日3/21(土)、「読書会@札幌-帯広」にて、
反貧困ネットワークの湯浅誠氏の『ヒーローを待っていても世界は変わらない』読書会を開催しました。

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>本書についての私の書評はこちら

さて、今回の読書会の議論をまとめた部分が以下に当たります。

読書会の大きなテーマは「これからの市民活動のあり方とは?」。

大きくわけて2つの立場が出ました。

(A)自分たちのために社会を変えていく組織・団体をイチから作るパターン

(B)既存の組織で活動をしていくパターン

(A)は、例えば湯浅誠氏の反貧困ネットワークやこの日本ノマド・エジュケーション協会のように、「なにもないところから」「ゼロベースで」作っていった組織のこと。
ここには今回のような読書会のほか、自発的なボランティアなどが入ります。

(A)の立場はラクでなおかつ楽しいこと。
(B)と違い、「〜〜月には・・・をしないといけない」というのが無い。
なおかつ、自分たちの好きでできる。

その一方、自分に全く関係を感じられない人、言ってしまえば社会的弱者に活動が届かない。

一方、(B)の立場には町内会や行政組織、学校のPTAなど、歴史と伝統あふれる組織が当てはまる。

ある意味、企業で働くのも(B)のパターン。

(B)は決まり事だらけ。
やりたくないこともたくさんある。

でも。
昔からあるし、歴史と伝統、そして信頼があるため、社会的弱者にも届きやすい。

誰かが「やらなけれればならない」からこそ、本当に助けが必要な人に届く。

その代わり、「やらなけれればならない」と決まっていることをわざわざやるのは、いくら社会貢献のためとはいえツラいし楽しくない。

(B)の立場を取る人が「楽しい」と思える仕組みづくりが必要でしょう。

例)PTA会長になると、「入学式でスピーチしてください」がよく来るが、それを言い訳に学校にいき、いろんな教員と関わり、学校の様子が分かる、等。

私は昔から、(B)の立場に何の魅力も感じていない。
どうせなら、「必要とされそうなことをイチからやっていく!」ほうが楽しい。

でも、この場合、「必要とされそうなこと」が、本当に「必要とされそうな人」に届かない場合がある。

難しい。

だからこそ、市民活動には(A)のものも(B)のものも必要なのでしょう。

でも私はやっぱり(A)がいいなあ。

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若さをどう見るか?

最近、年齢や「若さ」について、気になること・感じることが多い。

いくつか羅列してみる。

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(1)教員と「若さ」

教員は「若い」とわりと人気を得られる。

それを、大学でも聞いたし、大学院でも聞いたし、就職した学校でも聞いた。

だからこそ、「若さ」以外の武器を「若さ」のある間に学んでおかないと、「なんにもできない」教員になってしまう。

しみじみ、実感する。

(2)本の筆者と「若さ」

最近、無意識に、読む本の著者の年齢を気にしている。

『だから日本はズレている』の古市憲寿さんは85年生まれ、『新世代努力論』のイケダハヤトさんは86年生まれ。

『ネットが味方になるWebマーケティングの授業』の伊藤新之介さんは88年生まれ。

88年(早生まれ)の私としては、「年上」の作者は素直に読める。

しかし、年下の作者を素直に読めるかというと、はなはだ疑問がある。

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(3)名作と「若さ」

ある人が言っていたが、歳を取ると「名作」と言われる小説を読めなくなるのには理由があるという。

それは「主人公の年齢を上回ってしまう」ことによる。

ドストエフスキーの『罪と罰』。

主人公ラスコーリニコフは20代。

夏目漱石の『三四郎』。

大学1年生の主人公は23歳(そういう時代です)。

小説を読むとき、「年下の活躍」を見ることになる。

それを楽しく見れるようになるには人生への「達観」が必要なように思う。

大学1年生の夏。

テレビで見た甲子園の大会。

「ああ、みんな年下の活躍なんだ」と気づいた。

(結論)

「若さ」や「年齢」をどうみるか。

そのためには人間的成長が必要なように思う。