社会学

祭儀の装置としての国家〜猪瀬直樹, 1983, 『天皇の影法師』〜

元号。

明治の次は大正。ではその次は?

いまの毎日新聞の源流・東京日日新聞はスクープとして「光文」と「号外」を出した。

・・・世紀の大誤報「元号光文事件」である。

毎日新聞が部数を読売・朝日に大きく負けはじめたきっかけとも言われているこの事件。

その裏側が詳しく書かれている本。

私が生まれた1988(昭和63)年あたりは「自粛ムード」ただよっていた時代。

1983年に発行し、新潮文庫から1987年に出た本書は、そのころの「目の前にある危機」としての時代の不安を映し出すリアリティを持っていたのだろう。

本書では大正天皇の崩御の際の話が出てくるが、昭和天皇崩御の際にも活躍したのが八瀬童子(やせのどうじ)と言われる一団である。

天皇の棺をかつぐ伝統をもつ京都の一集落。(結果的に「国家」をかつぐことにもなった)

「近代国家」になってもこのような集団が存在しているのが、日本の「面白さ」でもある。

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さて、この本は日本の「不思議さ」を天皇を切り口に明らかにする。

学生時代は西暦ばかり使っていたが、社会人になってあらゆる書類に「平成」を使うようになった私。

21世紀になっても独自の元号を使っている単独国なんて、もうほとんどない。

その「非合理さ」は、実は国家の重大な役割のためのものでもある。

「時代のある節目は、予定調和としてではなく、天皇崩御という個人の肉体の消滅とその消滅を弔う祭儀として突然訪れて、洪水のように過去を洗い流しながら、よりいっそう過去を心に刻ませる。国家的祭儀という同一平面で人びとは悲しみはなくても悲嘆を装い、喜ばしいことはなくても狂喜し、地殻変動のようにためられたエネルギーを放出する。国家の、生きもののような不可解な生理のひとつが、わが国の場合「天皇崩御」に集中的に現れてい|た。」(216-217)

☆ページ数は新潮文庫版のページ数です。

天皇という一個人の崩御が、一つの時代を急速に終わらせる。

明治も大正も昭和も、崩御という事実により人びとの認識を一変させてきた。

ものごとには、始まりと終わりがある。

宮台真司のいう「終わりなき日常を生きろ」との言葉。

「まったり」今を楽しむ姿勢が、ほぼ永遠に続くかと思ったときに3.11が起こり、秋葉原事件が起きた。

それにより、「終わりなき日常」に句読点が打たれていったように思う。

卑近な例では、天皇崩御により、これまで使っていたカレンダーや公的文書の元号欄、各種フォーマットをすべてリセットさせることになる。

それを通じて、人びとに一つの時代が確実に終わり、新たな時代の訪れを実感させることになる。

ここで思い出すのは、1990年代初頭のテレビにはやたら「平成」がついたということ。

「平成・天才バカボン」(1990年1月スタート。昭和期の「天才バカボン」のリメイク版)、「平成名物テレビ・いかすバンド天国」(1989年2月スタート。いわゆる「イカ天」)、「平成教育委員会」(1991年10月。今はなき逸見政孝がいい味出してました)エトセトラえとせとら。

これも、「来るべき新しき時代」を示す働きがあったのだろう。

「国家は祭儀を通して蘇り、そして消尽しつくす。現代文明の技術的理性が緻密な計算と計量によって構築する世界を、祭儀という生産的な蕩尽によって打ち壊すところに国家の存在意義があるかのようだ。この被虐的な快楽を味わう点に、人間がいまだに国家という枠にしがみつく最大の理由があるのではないか、とさえ感じられるのである」(218)

☆注:これは青木保の1982(昭和57)年7月15日付「朝日新聞」夕刊からの孫引き。

「自粛ムード」も含めて、国家の役割は祭儀にある。

卑弥呼の時代から政治は「まつりごと」であったことを思い出したい。

国家の非合理さには、実は「生産的な蕩尽」という側面があるのだろう。

そう、国家は絶えず祭儀を提供する装置でもある。

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追記

本書後半にも出てくるが、天皇崩御の際などの「恩赦」。
これまで計7回実施されている。
(昭和天皇崩御の際には行われておらず、戦後の「国連加盟」以降の実施はない)。

刑を言い渡すのが国家(=天皇)であり、
刑を許すのもまた国家である。
(象徴的には、誰を生かし、誰を死なせるかも決定できることになる)
フーコー的な権力理論を、文字通り本書では示しているのである。

元森絵里子(2009):『「子ども」語りの社会学 近現代日本における教育言説の歴史』、勁草書房。

元森氏の博士論文を元にした本。結論部分に感銘を受ける。要は「子ども」と「大人」を分ける切れ目はどこに現在おかれているか、という部分。「すなわち、身も蓋もない結論であるが、現代において、「子ども/大人」の区分は、もはや「子ども」の処遇に関する領域それ自体ではなく、経済(市場)、法、政治(行政国家)などの近代社会を支える諸制度に組み込まれたものとして、消し難く残り続けるのである。そうであるならば、教育などの「子ども」をそれらの領域から保護して「非主体」に留め置く—さらに言えば、同時に責任主体としての「大人」にする—領域は、その陰画としてのみ要請されると考えられる」(216)

 その言い換えが次の部分。
「消し去れない(☆大人と子どもの)最終ラインは、経済、法、政治という領域との関連性における「子ども」のための領域であり、それらの領域で責任主体たれない未成年という擬制のみである。このある意味身も蓋もない知見を前章までの知見に引きつけて言い換えれば、現代において、「子ども」と「大人」を分けているのは、しばしば想定されているような、完全に倫理的な判断力や責任能力を備えた「近代的主体」とその準備期間という区別でもなければ、本書で見てきたような、秩序に一体化する「国民」とその予備軍という区別でも、非社会的な「私」と理想の生という区別でも、堕落し誤った存在と未来の社会を実現する存在という区別でもないのである」(220)

 言説分析の長い検討と、プレーパークでの「語り」の検討などをもとに出した結論がこれである。確かに現在の切れ目は「責任主体」たるか否か、にあるということができる(こういうと本書をすごく乱雑に語ったことになってしまうが…)。

 ほか、中学生毎日新聞の言説分析部分に「登校拒否」に関する中学生の投書数の分析(165-)など、使える箇所があった。

山下和也(2010):『オートポイエーシス論入門』ミネルヴァ書房。

学術の世界で使えるオートポイエーシス論を目指すという本。
 言語システムについての記述(5章など)などから、どことなくブルーマー『シンボリック相互作用論』を思い出す本である。ということは、オートポイエーシス論はシンボリック相互作用論と親和性が高い理論なのだろう。

 オートポイエーシス論のキーワード。
「オートポイエーシスはオートポイエーシス論でのみ語らなければならない」(8)
「産出されたものがあれば、必ずそれを産出した働きがある」(9)

「オートポイエーシス論とは、あえて言うと、産出するものと産出されるものの理論に他ならない」(9)

「オートポイエーシス論は自己の発生の論理を扱う理論である」(29)

「システムがその作動を通じて自分のコードを書き換えて変化することを、マトゥラーナの術語を借りて、「構造的ドリフト」と呼ぼう」(43)

「オートポイエーシスの自律性の最大の帰結は、原理的にこのシステムを外部からコントロールすることはできない、という事実だ。コントロールしようとしても自律性によって抵抗される」(51)

「端的に言えば、構造的カップリングとは、複数のオートポイエーシス・システム同士がお互いを環境として攪乱を生じあっている状態である。したがって、これはシステム間の単純な相互作用ではない。一方のシステムが他方のシステムに働きかけ、それに応える形で逆に働き返す、という図式にはなっておらず、相互の攪乱は完全に同時で、そのためそれぞれの作動は自律的であり、対応関係にはない。したがって、構造的カップリングしているそれぞれのシステムにおきる変化に因果的対応関係をつけることは不可能だが、構造的カップリングはそれらシステムすべての作動の前提となり、それぞれのシステムはカップリングしている相手のシステムの作動を、残らず自分自身の作動に織り込んでいる」(75-76)
「当然、カップリングしている総体に何が起きるかは、創発による。個々のシステムの作動からは決まらない」(76)

「デカルトは、「私は考える、それ故に私はある」という回り道をして私の実在に至ったが、実際には、「私」と言ってシステム自身にとっての視点をとった瞬間、私の実在は確定している。デカルトに、自分が疑うに際して「私の存在するということが極めて明証的に、きわめて確実に伴われてくること」も当然なのである。私が、すなわちシステムが実在しないなら、システム自身にとっての視点もなく、「私」という事態そのものもありえないので」(183-184)
→☆これ、ゴフマンの”Frame Analysis”によれば、個々人のフレイムによって認識される自己システム、ということなのだろう。

「整理すると、観察者の視点からの自己認識は、厳密に言うと自己認識になっていないということ。認識しているのは認識システムで、その認識表象に現れているのは認識システムそれ自身ではなく、無意識システムの構造である意識の、しかもその現れにすぎず、まったく異なる。つまり、認識している自分とされている自分は、どこまで行っても別物である。にもかかわらず、観察者の錯覚のために、認識システムはその現れを自分自身と誤解するのだ。それは認識システム自身が、自己言及によるとして、つまり自分自身の現れを自分自身と誤解するのだ」(248)

Beck, Ulrich(2002):島村賢一訳『世界リスク社会論』2010、ちくま学芸文庫。

 チェルノブイリの事故の起きた1986年、「リスク社会」という名称のもとに社会学者ベックはデビューをした。その『危険社会』は学術書としては異常なほどよく売れた、という。そんなベックの入門書的なのが本書である。

「「サブ政治」という概念は、国民国家の政治システムである代議制度の彼方にある政治を志向しています。その概念は、社会におけるすべての分野を動かす傾向にいある政治の(最終的にグローバルな)自己組織化の兆しに注目します。サブ政治は、「直接的な」政治を意味しています。つまり、代議制的な意思決定の制度(政党、議会)を通り越し、政治的決定にその都度個人が参加することなのです。そこでは法的な保証がないことすら多々あります。サブ政治とは、別の言い方をするならば、下からの社会形成なのです。」(115-116)
「世界社会的なサブ政治の特徴は、イシューごとにその都度形成される(政党、国家、地方、宗教、政府、反乱、階級といったものの)「対立」の連合なのです。」(116)

→☆この「サブ政治」を担う「市民」が、常に多数にとって正義かどうかは限らない。ベックも石油会社シェルに対する反対運動をしても、アウトバーン建設を進めるドイツ首相への反対がないことを語っている。だからこそ、多様な「市民」の多様な「サブ政治」が必要、と言えるのではないか。

「危険とは、例えば天災のように人間の営み、事故の責任とは無関係に外からやってくるもの、外から襲うものである。それに対してリスクとは、例えば事故のように人間自身の営みによって起こる、まさに自らの責任に帰せられるものである。つまり、そうである以上、リスクは社会のあり方、発展に関係している。リスクとは、ベック自身が認めているように、自由の裏返しであり、人間の自由な意思決定や選択に重きをおく近代社会の成立によって初めて成立した概念である」(訳者解説:159-160)

→☆東日本大震災は「危険」であるが、福島原発は「リスク」である。

「「困窮は階級的であるが、スモッグは民主的である」」(『危険社会』51頁からの引用)「という言葉に象徴されるように、環境汚染や原発事故といったリスクが、階級とは基本的には無関係に人々にふりかかり、逆説的にある種の平等性、普遍性を持っていること、そしてチェルノブイリ原発事故に端的に示されているように、リスクの持つ普遍性が、国境を超え、世界的規模での共同性、いわゆる世界社会を生み出していることが挙げられる」(161)

小熊英二(2002):『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』、新曜社。

小熊英二(2002):『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』、新曜社。
発表者:藤本研一
2011/03/30
範囲:第8章「国民的歴史学運動 石母田正・井上清・網野善彦ほか」(pp307-353)
☆は藤本のコメント。

概要
・結論:マルクス主義歴史学である「国民的歴史学運動」は大きな影響をもったが、間もなく限界を迎えることになる。この運動は「民衆」自身が歴史を綴ることを重視した運動であり、民衆を中心にした歴史へ読み替えやマルクス的イデオロギーを伝える学問にするなどの動きがあった。この運動は、想定された「民衆」と実際の民衆の間にズレがあることや、共産党の意向の変更により挫折を余儀なくされることになる。

・戦後歴史学:マルクス主義の影響が強い リーダーは石母田正(いしもだしょう)/戦前のナショナリズム批判の最大の勢力の一つ
→1950年代前半では「民族」がもっとも強調された領域。
・本章のテーマ:国民的歴史学運動とこの時期のマルクス主義歴史学
→戦後左派のナショナリズムの性格と限界

●孤立からの脱出(307-)
・「1930年代末には、数年前まで隆盛を誇ったマルクス主義歴史学は、ほぼ完全に圧殺されていた」(308)
→古代史・中世史で細々と研究が行われるようになる。戦後もマルクス主義歴史学は古代史と中世史の研究者が中核を担うことになる。
・戦後の石母田:著作『中世的世界の形成』の経験から、「民衆からの孤立を脱し、社会に働きかける学問として、戦後の歴史学を構想していった。そしてそうした志向は、やがて「民族」という言葉によって表現されてゆくことになるのである」(313)

●戦後歴史学の出発(313-)
・「敗戦後、言論統制と皇国史観の支配から解放された人びとは、歴史学へ熱い関心をよせた」(313)
・「1946年1月、戦中には孤立に追い込まれていた哲学・科学・歴史学などのマルクス主義系知識人が集まり、そこに非マルクス主義系知識人も加わって、民主主義科学者協会(民科)が創立された。その歴史部会の機関誌として、1946年10月に『歴史評論』が相関される。戦前いらい石母田たちが拠点にしてきた『歴史学研究』も1946年6月号から再刊され、この二つの雑誌が戦後のマルクス主義歴史学の中核になった」(313-314)
・「第6章でみたように、文学においては、政治的中立を装う「芸術至上主義」が批判されていたが、歴史学でそれに相当するのが「実証主義」だった。中立を装う「実証主義」は、最終的には帝国主義の側に加担する、ブルジョア思想にほかならないとされていたのである」(314)(☆いろんな動きは軌を一にしている。時代の空気は人を同じ方向に向かせる。)
・「マルクス主義歴史学者からすれば、歴史とは明確なメッセージ性をもち、児童に希望と誇りを与えるものでなければならなかった」(315)(☆しかし、これは本当に「歴史学」なのだろうか)
・石母田の民衆文化観(1948年):「身分制度のもとで下層民がつくった民謡は、能や法隆寺が支配階級の意識を反映しているように、卑屈な被支配者意識を反映しがちである」(317)
・「いかに民衆からの孤立を脱するかを課題」とする石母田は、「民衆にたいする啓蒙活動」(318)をはじめる。その際講師も人民から学ぶことを重視した。
・「歴史というものが、つねに政府や知識人といった権威から与えられるという「古い卑屈な伝統をこわす」ために、民衆自身が「自由な創意と興味」によって歴史を書くことを提案することにあった」(319)
→「労働運動の歴史」の記述を、労働者が出来るようにすること、など。「歴史の専門家がその仕事を助け」ることで。
→「「政治」と「研究」の二元的対立の使用を目指した思想であった」(321)/石母田が「悔恨を抱いていた「若い人たち」に対する責任を果たす行為でもあった」(321-322)
・しかし、石母田自身「農村をよく知らない」(232)や「図式的なステレオタイプ」(232)で農民像を語る等、精緻性に欠けていた。
・「民族」観:当時の石母田:「「民族」や「民族文化」は過去の伝統ではなく、未来にむかって創造されるものであった」(324)

●啓蒙から「民族」へ(324-)
・1950年のスターリンの言語学論文:「近代的な「民族」は資本主義以降に形成されるが(☆フーコーのいう「人間」は18世紀に成立した、との主張を思い出す)、その基盤として、近代以前の「民族体」が重視されるべきだということが説かれていたのである」(325)
→「民族文化」も「近代以前のものを含むべきだという転換を示すもの」(325)になった。
・石母田の「民族」観の変化:「大衆こそが民衆」(326)/スターリン論文への共感
→①民衆志向 ②アジアの再評価(とくに在日朝鮮人への注目)

●民族主義の高潮(331-)
・「支配者がつくったテキストや文化を再解釈し、それを革命の表現に転化してこそ、支配者が大衆に注ぎ込んだ愛国教育を逆手に取ることができる」(333)という藤間の主張/(☆現代ではとても共産党の言説とは思えない、)民族主義的な言説の横行
・民衆中心主義への読み替え:「武士道は支配者の思想ではなく、民衆を守り、民族全体を守る者の責任の倫理として、むしろ下から出て来たものである」」(334)
・倉橋文雄「歴史をほんとうに大衆のものにするためには、文学の場合と同じく歴史家の場合も資料操作以上の飛躍が必要ではないか」(334)(☆ここまでくると学問ではなくなっている。イデオロギー性や「闘争性」を学問がもってはいけない理由でもある)
・1955年頃「この時期、共産党系の歴史家でナショナリズムそのものを批判する者はほぼ皆無で、ただ肯定すべきナショナリズムを歴史上のどこに求めるかをめぐって論争していた」(336)
・まとめ:「もともと1948年の時点では、「民族」は近代の産物だという見解と、理想的な「民族」が形成されるまでは階級闘争が重視されるべきだという認識が、単純な「民族」礼賛への歯止めになっていた」(337-338)
「しかし、そうした歯止めが取り払われた1950年代以降は、旧来の「民族」観を批判していたはずのマルクス主義歴史学者たちさえもが、慎重な姿勢を失ってしまった。もともと彼らも、他の日本臣民と同様に、戦前の愛国教育を受けて育ってきた人びとだった。いわば彼らは、革命推進のかたちで「民族」という言葉を使うことが許されたとき、数年前まで馴染んできた言語の発話形態に逆戻りしてしまったのである」(338)

●「歴史学の革命」(338-)
・国民的歴史学運動のはじまり:「民衆が自分自身の歴史を書くことで「声」を獲得し、知識人はその助力をすることで既存の学問を改革すること」「を実行に移したものであった」(339)
・竹内好「1950年には、戦争と革命は予測でなくて現実であった」(342)
→(☆当時のリアリティでは共産主義革命は「必然」であったのだ)
・石母田の「大衆から孤立」しない「インテリゲンチャの活動」への呼びかけ:「大学進学率が低く、学生にエリートとしての自意識が残っていた当時においては、こうしたアピールは共感を集めた」(343)/農村に入ることで、学問からの「疎外」を回復する(☆現場に入ることで人生観が切り替わり、結果学者としてのアイデンティティを放棄、その共同体の一員になる、という内容のエスノグラフィーはたくさんある)
→☆石母田の講演の内容は1953年発行の書物におさめられている。1955(s.30)年の段階において大学進学率は10.1%(短大含む)である。B・クラークの図式でいうならば、マス段階どころか「エリート」段階の高等教育である。
・農村に入る「「学生さん」への敬意と好感は、大学生の存在が大衆化する60年代半ばまで持続し、60年安保闘争の高揚を支えることになる」「いわば国民的歴史学運動は、参加した学生たちの心情という面では、1960年代の全共闘運動と、部分的には共通していたといえる」(345)

●運動の終焉(346-)
・1953年頃からの活動の行き詰まり
①学生・研究者の相互批判 自己批判の強制(☆参考エッセイを参照)
②「「民衆のなかへ」という理念そのものが、現実の民衆にたいする無知から発していたことを意味していた」(349)
③1955年7月の六全協による、日本共産党の方針転換
→「運動の瓦解は、多くの人びとを傷つけた」(351)/網野善彦が1960年代後半までほとんど論文を発表できなくなる。
・「「よろこび」や「たのしさ」を出発点としていたはずの運動が、政治的な「実用主義」に巻きこまれ、「強制」や「義務」に転化してしまった」(353)という石母田の後悔。(☆内藤朝雄の「中間集団全体主義」あるいは山本哲士の「社会イズム」の弊害である)

論点
・考察にもあるが、「学問」と「政治」の繋がりについて、考察したい。学問はたしかに「政治」や「社会」から中立の存在ではないが、だからといって「政治」や「運動」に肩入れした学問をするのは本末転倒であると思われる。それは「学問」システムから離脱することになるからだ。

考察
・共産党やソ連の姿勢一つで学問の方針が変わってしまうところに、当時のマルクス主義歴史学の学問的自立性の弱さがあったように思われる。

・人間は善意で人を不幸に落とし込んでしまうことがありうる。それが個人と社会をめぐるパラドックスである。「国民的歴史学運動」における石母田の姿勢も、それであった。通常は「やりすぎ」の運動を防ぐため、各社会システムごとに「きまり」がある。学問ゲームにおいてはそれは「科学性」であるし、『ホモ・アカデミズム』や『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』においてブルデューの言った研究者のハビトゥスを意識する必要がある。また、マンハイムの「存在の被拘束性」やウェーバーの「客観性」原理の意識など、学問する上で最低限守るべきルールは存在している。
 石母田の失敗は、あまりにも歴史研究ゲームから外れすぎたところにある。民衆に対する歴史研究だったはずが、単なる党の市民運動に堕してしまった時点で「アカデミズム」ではなくなったのだ。いわば学問ゲームから自ら離脱してしまったのである。
 無論、この傾向をアカデミズムの自閉性ということもできる。しかし、オートポイエーシス理論をもとにするならば、そもそもどの社会システムも閉鎖的であるのである。その社会システムが外部の社会システムと接触するとき「構造的カップリング」が発生するというのがルーマンの理論である。「構造的カップリング」の前後で社会システムが変容している点に注意したい。
 つまり、石母田らの行った「国民的歴史学運動」は「歴史学」という社会システムと「市民運動」という社会システムが構造的カップリングを起こし、まったく異質のシステムに変更した、ということなのである。本来の歴史学システムとは変遷しているわけであるから、歴史学から追い出されてしまうのは始めから分かっていたわけである。本来的な歴史学を批判し、新しい「国民」のための歴史学創出を行おうとするばあい、その新しい歴史学が本来的な「歴史学」でなくなるのは、トートロジー的ではあるが、真実である。
 仮に市民運動システムとの「構造的カップリング」が歴史学システム全体を変容させるほど多大なインパクトをもっていたばあい、逆に石母田の方法が歴史学の主流になっていた可能性がある。これも「構造的カップリング」の働きによる。しかし、その場合歴史学システムの外にいる人物からみて、全く異質な「歴史学」システムに変貌している可能性がある。

・科学を「民衆」のものにするためにはあえて非科学的な記述をすることを辞さない態度が「国民的歴史学運動」にあった時点に問題があったと考えられる。I・イリイチは『シャドウ・ワーク』において「民衆のためのサイエンス」science by peopleと「民衆によるサイエンス」science for peopleとを立て分ける。前者は民衆にあてた科学であり、主体は知識人である。一方、後者は民衆自身による科学を訴えた内容となっている。イリイチは前者を批判し、後者の実現を呼びかけている点に注目したい。「国民的歴史学運動」は前者に当たるのはいうまでもないことである。
 ここでイリイチの「民衆のためのサイエンス」と「民衆によるサイエンス」の違いを考察したい。前者の難しい点は「前衛」を名乗るばあい、「民衆によるサイエンス」を理想としても(本章でも問題になっていたことである)、一時的であれ「民衆のためのサイエンス」としての知識人が必要だ、というアポリアを招いてしまう点にある。イリイチ自身が自覚的だったか不明であるが、イリイチと言う知識人自体、「民衆によるサイエンス」を実現するためにアジ的言説を吐いたという意味で「民衆のためのサイエンス」を実行していたといえるからだ。
 つまり、「民衆によるサイエンス」は「民衆のためのサイエンス」なしに成立しえないという問題点をはらんでいる。「前衛」党の存在は「民衆によるサイエンス」をエンパワメントするのが働きだが、制度化しない段階で「前衛」が手を引かなければ結局「民衆によるサイエンス」が育たず、「民衆のためのサイエンス」に終ってしまうのである。

・ 批判的教育学がでてくるのは、我々研究者が無自覚的に行っている実践(プラチック)が現行体制の再生産機能をもってしまう。ただでさえ体制順応的になるからこそ、アップルらはあえて「批判的教育学」を実践したのであった。
 下手をするとマルクス主義的な色がついてしまうため、教育学のメインストリームになれなかったのはこのあたりに由来している。このあたりも、本章と合わせて考察したいと思う。
 社会学者R・Collinsは次のように述べている。
「政治・経済・社会階級は決定的につながっている。なぜなら経済システムは所有をめぐって組織され、所有は階級を定義し、そして所有は国家によって維持されるからである。所有物は所有されているもの自体ではない。所有物が誰かによって所有されるのは、国家が所有者の法的権利を確立し、その権利を保証するためには警察権力、必要ならば軍隊を用いるというかぎりにおいてである」(66)
→研究者や経済人が体制派寄りになってしまう理由である。

[ ] 『生きる思想』確認

参考文献

Illich, Ivan(1981):玉野井芳郎・栗原涁訳『シャドウ・ワーク』岩波書店、2006。
Collins, Randall(1985,1994):友枝敏雄 訳者代表『ランドル・コリンズが語る社会学の歴史』、有斐閣、1997。
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参考エッセイ(社会イズムないし「中間集団全体主義」についての考察のために、あるいは『滝山コミューン1974』の解釈について)

学校の違和感について。
藤本研一
 学校に通っていた頃、私はつねに違和感を抱え続けていた。例えば授業中。予習をするとその授業の内容は判ってしまうため、「なぜ授業を受けるのか」分からなかった。また受験に出ない教科を勉強する意味を、見出せなかった。数学の時間に日本史をやり、地学の時間に日本史をやり、現代社会の時間に日本史を勉強していたのが私であった。
 学校の違和感には、2つの要素が原因であるように私は考える。ひとつは集団での学習が強制される点、もう一つは内藤朝雄の言う「中間集団全体主義」がクラスで働く点である。

 集団での学習が強制されるのは、「マス」相手の授業である。生徒集団に対し、教員が1人で授業をする。授業を理解でき、知的好奇心を満足させられる生徒ならまだいい。けれど、そうでない生徒にとって授業は苦痛になる。ひとつは授業を理解できない生徒にとって。理解できないからこそ、退屈し寝てしまうか遊び始める(教室を出る者もいる)。もうひとつは授業の内容より先をやっているため、バカらしくて授業を聴けない生徒である。進学校では予備校や独学で先の内容をやっていることが多く、授業は退屈になってしまう。けれど、「全員で授業を受ける」ことが要請されるのが日本の授業だ。
 もともと、学校のクラスでも授業に求める内容は人それぞれ違う。「もっと高度な内容を」求める生徒と、「もっとゆっくり分かりやすくやってほしい」という生徒とでは、需要が異なるのである。また近年流行の「マルチプル・インテリジェンス」(ハワード・ガードナー)という発想が示すように、人それぞれ「理解しやすい」学び方は違う。耳で聞くより声に出す方が理解できる生徒・目からでしか理解できない生徒・とにかく体や手を動かさないと理解できない生徒などが共存する空間において、単一のやり方が通用するはずがないのである。
 けれど、近年の教育における公共性の議論では、「皆と同じ授業を受ける」必要性が要請されているように思われる。マイノリティやブルジョアが特別の学校に行くことは、社会の複雑さに出会うことがないまま成人してしまう危険性がある、と考えられている。佐藤学の「学びの共同体」実践は、多様な他者との対話・恊働による公共性の教育がその一例である。私はこれに胡散臭いものを感じる。「教育って、そんなにすごいものなのか?」と。ムリヤリでも「学びの共同体」で共通に活動をする程度のことで、公共性が学べるものなのか? そのことが、後述する「中間集団全体主義」のいじめを誘発することはないのか? もっと弊害のない方法はないのか? そんなことを議論することもなく、皆が一緒の授業を受けることで公共性を学ばせることが重視されている。確かに、「学びの共同体」のような実践には一定の効果があるのだろう。けれど、それがベストであるかというとそうでもない。その代案はラストに私が書く。
 
 さてさて、学校の違和感についてもう一つの要素である「中間集団全体主義」を見てみよう。内藤朝雄は次のようにまとめている。「各人の人間存在が共同体を強いる集団や組織に全的に埋め込まれざるをえない強制傾向が、ある制度・政策的環境条件のもとで構造的に社会に繁茂している場合に、その社会を中間集団全体主義という」(内藤朝雄『いじめの社会理論』柏書房、2001年、21頁)。日本では学校や会社の中などに中間集団全体主義が入り込んでいる。この中間集団全体主義は共同体の構成員に有無を言わさず強制されるのだ。内藤は学校でのいじめはこの中間集団全体主義により、引き起こされていると述べている。
 『学校が自由になる日』(雲母書房、2002年)の中では、内藤や宮台真司・藤井誠二が日本の学校のなかの中間集団全体主義について語っている。学校では学習するためにクラスメイトの顔色を伺う必要があったり、部活に一生懸命うちこんでいる「ふり」をする必要があったりする。「基本的に、学力の上下と人格の交わりをセットにする学校というシステムそのものが間違っているんです」(307頁)との内藤は発言している。つまり、本来学校では学習をする場所であるにも関わらず、イヤなクラスメイトとも「仲良く」することがないと学べない場所になっているのだ。クラスが学習のための便宜的集団ではなく、生活集団としても組織されている。そのことが学びをするためにクラスメイトの機嫌を見ないといけないという心理状態を引き起こす。
 私もそれを経験した。授業中、積極的に手を挙げたい。しかし、クラスメイトから「目立っている」と言われたくないため手を挙げない。そこからいじめが起る危険性があるからだ。学習効率的に、これほど不合理なことはない(だからこそ、分からない点を質問できるという塾に需要が生まれるのだろう。塾産業は日本の学校が中間集団全体主義のため、学びを行うことが難しいために存在するのかもしれない)。
 中間集団全体主義の例として、『滝山コミューン1974』(原武史、2007年)という作品がある。著者が小学生時代のことを回想して描いた記録だ。小学校のクラスの「自治」が極端にまで成立したときの様子が描かれている(もっとも、この自治は教員が生徒を操りながら作り出したものである点がミソである)。本作のハイライトは、小学校の自治活動に批判的であった「私」が、友人の朝倉に小会議室に呼び出される場面である。引用してみよう。

 小会議室に入ると、代表児童委員会の役員や各種委員会の委員長、4年以上の学級委員が、示し合わせたかのように着席していた。ただこのとき、片山先生や中村美由紀(藤本注 当時のこの小学校の児童会長である)がいたかどうかははっきりしない。
 朝倉はまず、九月の代表児童委員会で秋季大運動会の企画立案を批判するなど、「民主的集団」を攪乱してきた私の「罪状」を次々と読み上げた。その上で、この場できちんと自己批判をするべきであると、例のよく通る声で主張した。
 六八年から六九年にかけての大学闘争では、全共闘の学生が大衆団交やつるし上げを通して、大学のトップや教授に自己批判を強要する「追及集会」がしばしば開かれたが、驚くべきことに、全生研でもこのような行為を「追及」ではなく「追求」と呼び、積極的に認めていたのである。(『滝山コミューン1974』255~256頁)

 学校という中間集団が、一人の児童に「自己批判」を要求する。中間集団全体主義の典型と言える事態であろう。実際は、これほど分かりやすく個人に強要を行うことはないが、集団への帰属を個人に無理やり行わせることが多いという点で、類似する点があるはずである。
 このあと原は自己批判を拒否してドアを開けて逃げる。「「追求」を迫られたのは一度きりで、その後は朝倉が私に何か言ってくることもなかったのものの、校庭で4年の学級員から石を投げられたときにはさすがに愕然とした。私はまるで、学校全体を敵に回したような気分に陥り、特に七五年に入ってからは、受験勉強のためと称して学校を時々休むようになった」(258頁)。中間集団が個人を排斥するのである。

 注目すべきは朝倉という存在である。朝倉は以前、原と親しい友人であった。そんな朝倉が、豹変したように原を吊るし上げの場に呼び寄せる。人間を変化させる中間集団全体主義の恐ろしさである(本書で何度も「違和感」という言葉が出てくる。学校の違和感を探るにあたり、本書は重要な書物であろう)。 

 以上、学校の違和感の理由として集団での学習がある点と、中間集団全体主義が存在する点を見てきた。両者は相互に関係し合い、いまの学校のクラスで学習を行うことが難しいことを示している。
 私はこの状況の改善には、個別学習が必要であると考える。それは、人それぞれ教育に要する需要が異なるためである。またクラスの解体も必要であろう。大学のように、授業ごとに生徒が集まるようにするのである。都立・山吹高校のように、無学年・単位制の学校も存在する。
 中間集団全体主義が広がる日本の学校において、学びを成立させるためには授業選択制も必要となるであろう。クラスの中に学びを閉じ込めてはならない。

マルクス/エンゲルスと「革命」の逆説

 ギデンズの再帰性の話をするならば、彼はパーソンズの図式に対し〈なぜパーソンズの図式を知った人であっても、その図式に従ってしまうのか〉という批判の仕方をしている。マルクス主義にもそのような傾向があるのではないか。つまり、「革命の必然」を述べている書物を資本家が読むとき、資本家の中で「再帰」が起きる。その結果、革命を防止するほうに動いてしまう。それがケインズ主義のように結果的に労働者に益する方向に動くこともある。「革命」防止法としてよむことの方が多いだろう。そうした場合、逆説的ながらマルクス主義の研究が進めば進むほど、マルクス主義的革命が起こらないようになってしまう。
 マルクスやエンゲルス(コリンズの『ランドル・コリンズが語る社会学の歴史』を読むと、エンゲルスの社会学的貢献の大きさがよくわかるため列記した)の書物が読まれるほど、影響を受けて「革命」を起こそうとする人が増える。はじめはソ連や中国で成功する。しかし、それらの革命国の成功が他国に伝わると、なんとか「革命」を起こさない方向を人びとは考えるようになる。つまり、マルクス主義の考えが広まるほど、それが再帰を起こし、人びとに「革命」を起こさないように機能するという「逆機能」がおこるのである。

Collins, Randall(1985,1994):友枝敏雄 訳者代表『ランドル・コリンズが語る社会学の歴史』、有斐閣、1997。

原題:Four Sociological Traditions

●序文

A~C:「社会学の偉大な3つの伝統」

A「紛争理論の伝統」
・マルクス/エンゲルス/ヴェーバー
→「資本主義、社会階層、政治紛争の理論と、それらに関連する社会学の巨視的・歴史的テーマを展開」(ⅰ)

B「デュルケム理論の伝統」
①:「社会のマクロ構造に注目するもの」(ⅱ)モンテスキュー/コント/スペンサー/マートン/パーソンズ
②:「対面集団で形成される儀礼をとおして、集団の連帯を生みだすメカニズム」(ⅱ)ゴフマンによる日常生活における儀礼の分析

C「ミクロ相互作用論の伝統」
①プラグマティズムの伝統:パース/ミード
②象徴的相互作用論の系譜:クーリー/トマス/ブルーマー
③現象学的あるいは「エスノメソドロジー的」社会学:シュッツ/ガーフィンケル

第2版の追加
D功利主義(合理的選択)理論の伝統

●プロローグ 社会科学の誕生

・「デュルケムの学問上の直接のライバルは心理学だったから、彼は社会学的分析のレベルを心理学的分析のレベルから区別することに心を砕いた」(41)

「ドイツとフランスで社会学の将来性のある端緒が現れたあと、世界政治の激動によって社会学はほとんどアメリカに移ってしまった」(42)

コメント
 ・日本と違い、ヨーロッパの「大学」システムは、中世から一貫性をもっていると言うことが文章から伺えて興味深かった。「大学改革」は遥か以前から行われてきているということは非常に面白い。

●第1章 紛争理論の伝統

・紛争理論化としての「マルクス」を見ていく。コリンズはマルクスよりもエンゲルスを社会学において重視する。
・マルクスはそのまま大学に残りつづけていたばあい、気鋭の哲学教授になっただろう、というのがコリンズの立場である。しかし「エンゲルスがいなければマルクスは、シュトラウス、バウアー、そしてフォイエルバッハが切り開いた方向をさらに一歩進めた、唯物論的傾向を持った青年ヘーゲル派の左翼であった」(56)。

「いちばん重要なことは、マルクスが経済学を発見したということである」(49)

「事実、最初に経済学の重要性を理解し、適切に批判し、ブルジョア・イデオロギー的理解から抜け出ていたのはエンゲルスその人であった」(54)

・「マルクスの方がつねに同時代の政治家であったのに対し、エンゲルスの方は純粋に知的で偉大な歴史社会学者であった」(55)
「マルクス個人の迷宮の中には、社会学が入り込む余地はなかった。彼の見方のなかに社会学の息吹を吹き込んだのはエンゲルスであり、エンゲルスの著作」「こそが社会学がこの「マルクス主義」の考え方から学びうるものを伝えているのである」(57)
・「もし言葉遊びが許されるなら、「マルクス主義」というラベルは神話であり、社会学という目的のためにはマルクスは「エンゲルス主義者」とよんだ方がよい、と言うことができるだろう」(58)

・「唯物論の基本原理は、人間の意識は一定の物質条件にもとづいており、それないしには存在しえない、というものである」(62)
「いずれの支配的観念も支配階級の観念である。なぜなら支配階級は精神的生産手段を統制しているからである」(62)
→この辺、アルチュセールの国家のイデオロギー装置論やグラムシのヘゲモニー論を思い出す。

・「政治・経済・社会階級は決定的につながっている。なぜなら経済システムは所有をめぐって組織され、所有は階級を定義し、そして所有は国家によって維持されるからである。所有物は所有されているもの自体ではない。所有物が誰かによって所有されるのは、国家が所有者の法的権利を確立し、その権利を保証するためには警察権力、必要ならば軍隊を用いるというかぎりにおいてである」(66)
→研究者や経済人が体制派寄りになってしまう理由である。

・「政治は国家を統制するための闘争である。マルクスとエンゲルスの考えによれば、支配的な有産階級がつねにこの闘争に勝利するが、基本的生産関係が移行しつつある歴史的状況は例外である。このときには旧支配階級の政治的支配は崩れ、新しい階級がこれに取って代わる」(67)

・「政治の混沌とした現実を理解するための強力な道具」(68)
「1つの決定的な原理は、権力は動員の物質的条件に依存するというものである」(68)
→「有産階級が政治を支配するのは、多数の政治的動員手段を持っているからである」(69)
☆金融資本も社会関係資本も持っている。
しかし「ビジネスが一1つの巨大な独占へと向かうにつれて、労働者たちもそれに応じた統一がなされ、最終的には数の力を獲得し、資本家たちを圧倒する」(71)という。
 けれどこのことは実際生じなかった。「というのも、政治的動員手段が変化し、独占の過程が中間点で安定化したからである」(69)
・「強権的な革命政府だけが、ビジネスや金融業務のすべてを政府が即座に掌握し、完全な統制経済を布くことによって、ビジネス界の不信によってひきおこされる経済危機の時期を回避することができるのである」(70-71)
・「革命がこのように他の誰かの利益のための虚偽意識や虚偽行動といった奇妙な性質を持つのは何故だろうか」「精神的生産手段を握っているため、上流社会階級は、何に関する革命で誰が敵かということを定義することができるのである」(72)
→これ、ヘゲモニー論だ。

・「1つの一般的な原理は、同盟は敵の存在によって結成されるというものである。敵が消失してはじめて、同盟者間の戦いが自由となる」(73)

・ウェーバー「資本主義は人間の自由と経済的生産性をともに高める最高の社会体制であると、彼は実際には信じていたからであった」(78)

・紛争とは多元性がもたらすもの
「ウェーバーを語るうえで何よりも中心に位置づけられなければならない事実は、彼が世界を多元的なものとみなしていたことである」(80)「多元的なパースペクティブを取った結果、彼はもっとも根本的な意味で紛争の理論家となったのである」(81)それは「紛争とは、諸事象の多元性そのものが形を取ったもの、あるいは社会を構成する異なる集団、利害、パースペクティブが織りなす多元性が形を取ったものだからである」(81)
・「結局のところウェーバーは、歴史というものを、多方面にわたって展開する複雑で多面的な紛争の過程とみなしていた。単純化された進化論的な段階概念、あるいは理論家が複雑な歴史的現実に対してとかく当てはめようとしがちな整然とまとまった他の類型は、ウェーバーの敵であった」(82)

・「階級とは何らかの市場で特定の独占度を共有している集団であることを、忘れてはならない。そして階級がこのことを成しとげるのは、それが組織化され、1つののコミュニティを形成し、自分のまわりに張りめぐらされた何らかの法的・文化的な障壁を通じて1つの意識を獲得することによって―手短にいうと、身分集団となることによってーなのである」(85)

・国家の武器
①武装:国家は「それゆえに、他のすべての組織を支配することが可能となる」(88)
②正当性:「こちらは文化的・情緒的な領域という面にかかわる」(89)「マルクスとエンゲルスの言葉によれば、国家とは、イデオロギーを生成する巨大な機関である。またヴェーバーの言葉によれば、国境内にいる多数の人々がみずからを単一の身分集団、すなわち国民の一員であると感じるようにし向けることができるのが、成功を収めた国家ということになる」(89)
→カリスマというのもこの正当性を担保する。
・「正当性は無からは生じない。それは作り出されるものである。そして正当性をつくり出すさまざまな組織は、精神的生産手段(最近私は、これを「情緒的生産手段」とよんでいる)のもう1つの側面とよぶのがふさわしい」(89)
→☆一億層中流や「社会イズム」は国の一元性を示す働きで「正当性」を付与しているのか。

・ウェーバーの弟子・ミヘルス(97)

コメント
・ギデンズの再帰性の話をするならば、彼はパーソンズの図式に対し〈なぜパーソンズの図式を知った人であっても、その図式に従ってしまうのか〉という批判の仕方をしている。マルクス主義にもそのような傾向があるのではないか。つまり、「革命の必然」を述べている書物を資本家が読むとき、資本家の中で「再帰」が起きる。その結果、革命を防止するほうに動いてしまう。それがケインズ主義のように結果的に労働者に益する方向に動くこともある。「革命」防止法としてよむことの方が多いだろう。そうした場合、逆説的ながらマルクス主義の研究が進めば進むほど、マルクス主義的革命が起こらないようになってしまう。
 マルクスやエンゲルス(コリンズの『ランドル・コリンズが語る社会学の歴史』を読むと、エンゲルスの社会学的貢献の大きさがよくわかるため列記した)の書物が読まれるほど、影響を受けて「革命」を起こそうとする人が増える。はじめはソ連や中国で成功する。しかし、それらの革命国の成功が他国に伝わると、なんとか「革命」を起こさない方向を人びとは考えるようになる。つまり、マルクス主義の考えが広まるほど、それが再帰を起こし、人びとに「革命」を起こさないように機能するという「逆機能」がおこるのである。

・感想
この本、購入して何度も読みたい。

安川一編(1991):『ゴフマン世界の再構成』、世界思想社。

「われわれは、〈共在〉のなかにいて、「秩序」を感じ続けている。なぜか。――ここに、相互行為の日常慣行の働きがみえる。つまり、われわれは相互行為のなかで、いわばこの慣行にハマリ続けることによって秩序を現実化させている。日常慣行の着実な堆積こそが秩序なのである」(ⅱ)

→ゴフマンもプラチック(慣習行動)について述べている。その点で、ブルデューと繋がっている。両者をふまえた研究は存在しているのであろうか。

「ゴフマンの分析の対象、それは、人が他の人たちと居合わせている状態、つまり〈共在〉であった。その脆くリスキィで、しかし弾力性ある心地よい秩序が、さまざまな観察と考察に付されている」(2)

「経験とはフレイミングである。無関係なもの、曖昧なものが排除され、そのことの正しさを保証するものが当のフレイム内的世界のなかに求められる、そうしたことにかかわるプラクティスの作動を通して個々の経験が組みあがる。しかも、フレイミングとは、経験の組織化にともなう、あるいはこれを支える活動の組織化でもあり、したがって関与の組織化でもある」(11)

「制度とシステムの現状がいかに抑圧的、加虐的であっても、人はその再生産に「自発的に」加担していく。カテゴリカルに差別され続ける女たちがそれでも自然な性差を信じ続け、スティグマを付与された人たちがそれでも現行秩序に居場所を求めつづけているように。相互行為プラクティスへの習熟、その結果として馴染んだ経験の安定性と圧倒性をリアリティとよぶなら、人は、このリアリティのなかでまさしく眠っている」(23)

「ゴフマンの社会学とは、〈間身体的行為〉の社会学であり、〈間身体的行為〉の社会学とは、〈間身体的行為〉に関する規範・規則を記述すること、つまり〈間身体的行為〉の秩序構造を分析することである」(38)

「人びとはドラマトゥルギィ的感覚をもち、ドラマトゥルギィ的実践活動を実行している特徴があり、市民=公民の「ドラマ」をまじめに考え実演している。ドラマトゥルギィ的枠組みは、英米社会における日常の舞台で生起する社会的相互行為の大部分の特性を示している」(40)

「さまざまな状況の定義に関する公然の対立を回避することが望ましいときにも単一の状況の定義が存在している。参加者たちは共同して単一の状況の定義に寄与しているのである」(46)

→「内職」論に繋がる。学校の授業という「状況の定義」を、「内職」実践者はやはり支えている。授業ゲームを維持する働きがあるのである。

「状況の定義は単に主観的に実行されているのではなく、社会的場に限定されながら投企されているのである」(51)

「日常世界では、会話の相互行為の可能性が物理的に生じると、自己に関する儀礼秩序が作動して、それがメッセージの流れを誘導する手段として機能することとなる。社会化された相互行為者は、会話の相互行為を自己についての儀礼的配慮をもって取り扱うのである。コミュニケーションの間にメッセージの流れを誘導するシステムは、儀礼規則のシステムである」(55)

「ゴフマンにとって自己は、個人レヴェルの心理現象ではなく、間身体レベルの社会的事象である。神聖な自己は相互行為上の儀礼規則から築き上げられた一種の構成体であり、したがって〈間身体的行為〉において儀礼秩序上、状況適切的に注意して取り扱わなければならない儀礼的な産物である」(57)

「こうした自己の産出を担っているのが実のところ、〈間身体的行為〉の秩序構造・儀礼原理なのである」(59)

Bourdieu, Pierre(1980):今村仁司・福井憲彦・塚原史・港道隆訳『実践感覚2』、みすず書房、1990。

 本書はアルカイック(本書を見る限り、前近代社会のことを指すと思われる)な社会を元にしたブルデューの理論書である。
 農村社会における男性-女性の仕事のアナロジーについての部分(117頁等)を見ていて、Ivan Illichの”Gender”や”Shadow work”を思い起こした。また128頁の「農業年と神話年」の表なども、Illichの図式を思い起こす内容となっていた。要はIllichもBourdieuもレヴィ-ストロースの研究を受け継ぐ形で理論構築を行っているため、当然と言えばそうである。
 『実践感覚1』より読みにくいが、文化人類学が好きならこっちのほうが具体論が多くて興味深く読める(だろうと思う)。

「伝統に則って相続される家産相続分と、結婚の際に支払われる補償とは、同一のものにほかならないのであるから、所有地の価値こそがアド(adot=これは、贈与をなす、持参金を与えるという意味のadoutàに由来する)の額を命じているのである」(7)

「換言すれば、経済的必要性によって押しつけられる結婚すべてのうち、十全に承認される結合とは、文化的恣意によって男有利に樹立された非対称性が、夫婦間での経済的・社会的状態においても男有利であるような非対称性によって倍加されているもののみだ、ということである。アドの額があがればあがるほど、付随的に夫の位置もいっそう補強されることになる」(20)

「こうして次男以下は、こういう表現が許されるとすれば、構造的犠牲なのである。すなわち、集合的実体にして経済的単位である「家」、経済的統一性によって定義される集合的実体としての「家」を、実に多くの保護措置によって取り囲んでいる体系の、社会的に指定された、したがって忍従する以外にはない、犠牲だったのである」(26)

「ハビトゥスは、自らが再生産する構造の産物であるがゆえに、そして、より正確に言えば、ハビトゥスは、確立された秩序とその秩序の守り手の命令に対する、すなわち先人たちに対する「自発的」従属を内包しているからこそなのである。相続戦略、育児戦略、さらには教育戦略、つまりは、相続した権力と特権を維持しつつ、あるいは増大させつつ次代に伝えるために集団全体が採用する生物学的再生産諸戦略の全体から、切り離すことのできない結婚戦略は、打算的な理由を原理にしているのでもなければ、経済的必要性からくる機械的決定を原理にしているのでもない。そうではなく、存在諸条件によって教え込まれた心的傾向、いわば社会的に構成された本能こそが原理なのであり、それが、特殊な形式の経済の客観的に計算しうる必要性を、義務の不可避的必然として、ないしは感情の不可抗的な呼びかけとして生きるよう、しむけているのである」(30)

「コード化された知およびそのような形で伝承される知の中にみられるハビトゥス図式の客観化は、実践領域によって大変異なる。格言・禁令・諺・極度に規則ずくめの儀礼の相対頻度は、農業活動と関連する、あるいはそれと直接的に結びついた諸実践—機織り、製陶、料理—から労働日の区分あるいは人生の節目へと移るにつれて漸減する」(100)

・アルカイック社会の男-女のアナロジー(あるいはIllich的に言う本源的な意味でのジェンダー)

「再生産とは、生活の実質にして生計維持のことであり、豊穣にされた大地と女性、つまり致命的な不毛性―これは女性原理の不毛性であって、それを放置すれば致命的不毛性を現出する―から免れた大地と女性のことである」(119)

「優れて文化的行為とは、分離され境界線を引かれた空間を産出する線を引く行為である」(115)
「全く社会的な力の、純粋に魔術的な性格は、刀や魔法の結び目程度には魔術的な境界や絆(結婚)によって個人や集団を切り離したり、結合したり、あるいは、事物(デザイナーのブランドのように)や人物(学歴のように)の社会的価値を変動させたりしながら、社会的な世界だけに働きかける場合でも、やはりそれとなく現れるものだ」(163)

・「ランプは、ふつう男性の象徴である」(168)

「すべては、実践が二つの使用法の間でためらっていることを示している。同じものが、女性や男性的な雨を呼ぶ大地のように、水をかけられることを要求するものでもあり、また、天上の雨のように、それ自体が水をかけるものでもある。事実、実践にとって、最良の解釈者たちにつきまとってきた区別は重要性をもたない」(199)
→こういう部分に、イリイチのジェンダー論を思い出す。

「別の言い方をすれば、システムを構成するすべての対立は、その他のあらゆる対立と、だが多かれ少なかれ長い道程を経て(可逆的なことも不可逆的なこともあるが)、つまり関係からその内容をしだいに取り除く等価性の連続の果てに、結びつく。そればかりではない。あらゆる対立は、異なる意味と強度の関係を通じて、様々な点で別の対立と結びつくことができる」(208)
→左手と右手、女性と男性の対比などを指して言っている。ブルデューは本書で二元論的図式の乗り越えを図っているのである。

「以上のことから分かるように、食う・眠る・子孫を作る・出産するといったあらゆる生物学的活動は外部世界から遠ざけられ(「牝鶏は市場では卵を産まない」と言われる)、内輪の避難所や家という自然―自然の管理に委ねられ公共生活から排除された女の世界―の秘め事の中に追放されている」(220)

「このように、女たちの家と男たちの会議、私生活と公共生活、あるいはこう言ってよければ、真昼の光と夜の秘め事との対立は、家の低い・暗い・夜の部分と高い・高貴の・光に満ちた部分の対立とぴったりと重なる。言い換えれば、外部世界と家との間に設定される対立は、この関係の一項—すなわち家自体―がそれを他項と対立させる同じ原理によって分割されていることが知られてはじめて、その完全な意味を明らかにする。男が女と、昼が夜と、火が水と対立するように、外部世界が家と対立すると言うのは、正しいと同時に間違ってもいる。というのは、これらの対立のうちの第二項はその都度それ自身とその対立物に分割されるからである」(221)

●訳者あとがき(今村仁司)より

「『実践感覚』は、材料としてはアルカイックな社会を取り上げている。同じ理論構図をもって現代の複雑社会を材料にし」「実行してみせたのが『ディスタンクシオン』である」(265)
「ブルデュは、『実践感覚』と『ディスタンクシオン』の両書をもって、人間社会を汎通的に分析しうる社会学的視座を設定したと言えるだろう」(266)

分業論

「分業」は、社会思想家においては普遍的なテーマであったのかもしれない。アダム・スミスの『国富論』は「分業」から始まっている。分業がないならば「精いっぱい働いても、おそらく一日に一本のピンを造ることも容易ではないだろうし、二〇本を造ることなどはまちがいなくできないだろう」(岩波文庫『国富論(1)』24頁)。しかし分業を行うならば「一〇人は、自分たちで一日に四万八〇〇〇本以上のピンを造ることができ」(同25)る。一人当たりで計算すると「一日に四八〇〇本のピンを造るものと考えていいだろう」(25)といってまとめている。
 また次の記述もある。「労働の生産力の最大の改良と、それがどこかにむけられたり、適用されたりするさいの熟練、腕前、判断力の大部分は、分業の結果であったように思われる」(23)

 スミスの場合、分業を肯定していた。それにより各人の貯えを高めることができるからだ。この分業肯定論に対し、マルクスは批判をする。そのときのキーワードが「疎外」労働論であった。資本主義による分業の結果、人々は人間的でない労働をさせられるようになった。その点をマルクスは批判したのだった。

 テンニースのゲマインシャフト/ゲゼルシャフトの分離も、地縁・血縁をもとにする「分業」か、目的性をもとにする「分業」かという読み直しをすることもできる。

 ジンメルは32歳の作品『社会的分化論』(1890)のなかで社会の「分化」(分業とも読み取れる)の結果、社会圏が拡大する旨を述べている。またその「分化」につきまとう社会的相互作用(あるいは心的相互作用)により社会が成立すると言う件を述べている。

 デュルケムは『社会分業論』において機械的分業から有機的分業に「分業」が切り替わって行くことを述べている。

 このように、分業をどのようにとらえるかによって社会思想家ごとの違いが浮かび上がってくるように思われる。