抜粋集

書評『君はいつでもはじめられる〜自分を活かすために「働く」ということ〜』

「何かやりたい!」
「起業したい!」
「でも、何からやっていいか分からない!」

そんな時、役に立つのは本か人。

 

の場合は励まし系の本。
の場合はコワーキングスペースなどが該当します。
(参考:イキナリ起業すると失敗する理由~起業の前には、イベントをしよう。~

 

「やってみたい!」ことがあっても、
やり方が分からない。

そうこうする間に、
「まあ、いいや」。
なにもしないまま時間が過ぎていく。

 

今日ご紹介する片岡勝さんの『君はいつでもはじめられる』は、
「なんでも良いから、何かやりたい!」人に役立つ本です。



 

 

「何か、やりたい!」人は2つのパターンに別れます。

(A)本を読まずにまず「動く!」人と、
(B)やたら勉強する人。

 

(A)本を読まずにまず「動く!」人は、
まさに本書の著者・片岡さんに近いタイプ。

「なんでも良いからやる!」という人です。

このタイプの人は、「我流」にこだわる傾向があります。
アドバイスを聞きたがらない人もいます。

だからこそ、「あえて」本書のようなものを読むと
活動の方向性が広まります。

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(B)の「やたら勉強する人」は、
意外にたくさんいます。

「あの資格を取らないと、独立できない・・・」
「7つの習慣も読んで、ドラッカーも読んで・・・」
「まだ自分には早い」

本当にたくさんいます。

ですが、そんな人にはあえて本を捨てて
「何かする」機会が必要です。

 

そんな人は「この本」を一度読むと良いでしょう。

書評はこちらをご覧ください。

 

片岡さんの『君はいつでもはじめられる』でも、こういう指摘があります。

 

完璧思考の人はいつまでもその位置にいたままだ。ある起業家は僕に「目指せ60点」と言われ、何だかすべてが楽しくなったという。「赤点でなければいい。続けよう」と前に進めるようになって、次第にやっていることも充実していったという。(122)

 

あえて不完全でも良いから始める。

重要な指摘ですね。

 

さて。

片岡さんの『君はいつでもはじめられる』。

私にとっても、得るものの多い本でした。

読みやすく、すぐ読み終えることができます。

 

慶応大学卒業後、大手銀行に勤務。
そこに「なにか違う」と思い起業し、
全国で市民活動やNPO・ボランティア活動等を支援している人です。

 

何かやりたいときに読むと、元気が出る本。

この後は抜粋を載せておきます。

 

気軽にはじめてみればいい。自分のゴールに向かって小さくても一歩踏み出せば、不安は解消してしまうし、きっと自分への可能性が見えてくる。そうすれば、もう君の目の前には自由な階段が広がっているのと同じだ。そこには面白いことがたくさん待ち受けているにちがいない。(19)

 

要するに、一流の人間は自分で考え出して、自分の仕事をつくり、自分で食っていく。二流は専門職。自分の専門性で勝負する。その人がいてもいなくても成り立ってしまう大企業で働くのは三流なのだ。(48)

 

まずはじめたことをしゃべりまくる。熱く語るとまず、仲間が共感し、口コミで広がる。そのうちマスコミが取材に来る。そこでも熱く語る。そして、マスコミに出るとちゃんとしたビジネスだと世間も思いはじめて、そのビジネスは僕の口先から離れて一人歩きしていく。(32)





面白いことをやると人が動く。生産も消費もそれが動機づけになっている。
そのためには自分が面白がらないとはじまらない。これが本当にいいのか、面白いんだろうかと悩んでいるうちに面白いものもどんどん変わっていく。それでは面白さに乗り遅れる。面白いことに直感的に乗っかっていこう。
今の時代は変革期。やりたい放題やるヤツがチャンスをつかむのだ。(94)

 

僕の場合、サラリーマンを辞めた後、最低限の生活を実験した。新聞、つき合い、車も全部捨てた。新聞を見ないから考える。車がないから歩く。するといろいろなものが目につく。景色がまったく違った。小さな花が咲いている、風が吹いていることも気づかなかったサラリーマン時代の自分に気づいた。気づかないというのはビジネスにとっては致命傷だ。(97)

 

僕は24時間以上迷わないことにしている。時間をかけたからって、上手くいくことなんてない。放置せずその場で決めてしまうことが肝心。(114)

 

 

・・・さあ、早速動こう!

今日は北18条で作文教室ゆうの授業日だし。

 

日本は孤立した島国か?(網野善彦『日本論の視座』①)

 羽原又吉(はばらゆうきち)が、戦前まで紀伊の串本、潮岬、大島(以上、和歌山県串本町)などの漁民が行っていたオーストラリア沿海への貝類採取の出稼ぎ漁業が、江戸時代まで遡ると述べているのも、決して誇張ではなかろう。なにより、伊豆七島の八丈島にいたるまで、縄文時代の遺跡が分布している事実は、それ以後の時代においても、太平洋の海の道がさかんに用いられたことを推測させるので、この方面についても考え残された問題は多いといえよう。(38)

【和歌山からオーストラリア沿海へのイメージ】Google Mapより。

 以上によって「島国論」の成り立ちえないことは、もはや明白であろう。日本は周囲から孤立した「島国」などでは決してない。日本列島はむしろ、アジア大陸の北と南を結ぶ、弓なりの架け橋であった。もとよりときによって消長はあり、いくつかの国家によるさまざまな制約はしだいに強まったとしても、庶民の生活そのものの働きに基づく交流は、決してたえることはなかったのである。
そして「黒船」の渡来以前でも、太平洋は東方あるいは東南方の島々との交流を阻害する決定的な障壁ではありえなかった。つらなる北方、南方の島々を経て、海の道はアメリカ大陸にまで通じていたということすらできる。こうした事実を見ようとしない「島国論」が、日本人、日本文化が人類社会の歩みの中からのみ生まれえたという、あまりに当然の前提を無視する結果にならざるをえないことを、われわれは知っておく必要があろう。(38-39)

 

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中高生が「ちくまプリマー新書」を投げ出すのは、どんな時か?

ちくまプリマー新書は、「中高生向け」でもある新書。
やさしい言葉で、学問の本質を伝えるという、50年くらい前の「岩波新書」と同じような狙いの新書(岩波新書は決して「やさしい言葉」でないときもあったけれど)。

ただ、思うのは「中高生向け」を謳った本にも「中高生が投げ出しそうだなあ」という本が少なくないのはなぜだろう、という点である。

ではどんな時に「中高生が投げ出す」のだろう。

たまたま今読んでいた根井雅弘『経済学はこう考える』(ちくまプリマー新書)を元に見ていきたい。

(ちなみにこの本、まったくもって中高生向けには感じられません)

(1)抽象概念を抽象概念で説明する場合

本書で言えば、「流動性選好説」(ケインズ)の説明に当てはまる。

「流動性」とは、必要なときにいつでも他の財に代えられるという「交換の容易性」や、他の財と比較して元本の価値が安定しているという「安全性」の総称ですが(以下略)(68)

「流動性」も「財」も「元本」も、日常ではほぼ使わない言葉。
それでもって「流動性選好説」なる「抽象概念」を説明する場合、中高生のワーキングメモリ(および「普通」の大人のワーキングメモリ)に「?」マークが浮かぶ。

するともはや理解が進まなくなる。

(2)複数のカタカナ人名が出てくる場合

一般的な中高生は、アーティストでもタレントでもない外国人の名前に触れることは(ほぼ)ない。

そんなときにやれケインズだ、ハイエクだ、ケインズの弟子のロビンソンだ、などと聞き覚えのないカタカナ人名が出てくる時点で本を閉じたくなる。

そのため、せっかくいいことを言っていても「ケインズによると」がついた途端に読むが薄れてしまう。

ちなみにいわゆる「女子トーク」が面倒なのは、話す相手が知らない人物名が複数(一つなら耐えられる)出てくるためである。

(3)言っていることが日常会話レベルをはるかに凌駕している場合

これはあらゆる本の宿命。
日常会話や日常での認識をはるかに超えた内容を理解するのは、ちょっと体力がいる。

もともと日本語という言語は「一方的に長く話す」のに向いていない言語だった。
江戸時代、幕末の志士たちが「今後の日本をどうするか」考える時もそうだった。

彼らはどうやって議論したか?
なんと「筆談」(正確には手紙)なのである。

幕末の志士たちは同じ宿屋のとなりの部屋の人と議論するときも、日常会話ではできないのでいちいち手紙を書いていた、という。

(4)数式及びわかりにくいグラフの登場

これは中高生にかぎらず成立する。
(経済学の本は大体、(4)があるせいで極端に読みにくくなります)

 

いかがだったでしょうか。

本書は理数系の高校生でなければ、途中で投げ出すだろう本。
かくいう私もあんまり理解できないところもある本だったが、学ぶことの多い本だったことを補足しておく。

ケインズは、『自由放任の終焉』のなかで述べたように、資本主義にはいくつかの欠陥があるにもかかわらず、賢明に管理されるならば、他の経済システムよりもはるかに効率的であるという信念をもっていました。(63)

 

一言でいえば、ケインズにとって、経済学とは「目的」ではなく「手段」に過ぎなかったのです。(76)

 

☆根井雅弘, 2009, 『経済学はこう考える』ちくまプリマー新書.

 

論理力って、なあに?

国語力。

物を書いたり、考えたり、文章を読んだりするときに使っている力です。

学校でも、「国語」の授業があります。

ところで、この「国語力」とは、一体何なのでしょう?

福島隆史『論理的思考力を鍛える超シンプルトレーニング』では次のように定義しています。

国語力とは、論理的思考力である。
論理的思考力とは、バラバラの言葉や考えを整理する(関係づける)ための力である。(10)

出口汪さんの「論理エンジン」シリーズは塾や学校でも多く使われています。
「論理エンジン」シリーズも、この定義同様、国語力=論理的思考力と定めるところから始まります。

下手に国語力に「文学」や「読解」、「漢字書き取り」とすると、混乱が起きます。

なぜでしょうか?

それは「文学」を読むことも、文章の「読解」も、「漢字書き取り」も、国語力の根幹ではないからです。

そうではなく、「論理的思考力」という幹から伸びる枝に過ぎないのです。

学校の「国語」の授業では伝えられていない本質がここにあります。

『論理的思考力を鍛える超シンプルトレーニング』ではこの論理的思考力を3つのちからに分けることができる、と指摘します。

「言いかえる力」……抽象・具体の関係を整理する力
〈A つまり B〉〈B たとえば A〉

「くらべる力」……対比関係を整理する力
〈A 一方 B〉〈A それに対して B〉

「たどる力」……因果関係を整理する力
〈A だから B〉〈B なぜなら A〉(10)

「論理的思考力」を、「言いかえる力」「くらべる力」「たどる力」という3つにきれいに整理してしまっているこの定義。

非常にシンプルです。

使うのも「つまり」「たとえば」「一方」「それに対して」「だから」「なぜなら」と、日常よく使っているものばかり(「一方」や「それに対して」はちょっとつらいかな)。

つまり、いつもよく使っているこれらの言葉を完璧に使えるようになることが「論理的思考力」を高める最短ゴールなんじゃないか。

そんなふうに感じてきます。

 

下手に「論理」や「ロジック」「ロジカル」などという言葉を連発しないところがこの本のいいところです。

残念なことに、「論理力を身に付ける」ことを謳っている本や「ロジカルシンキング」を謳っている本は、「結局、論理って何?」「なにをもってロジカルって言ってるの?」という根本的疑問に答えないまま終わってしまうことが多いのです。

その点で、この本はおすすめです。

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古市憲寿, 2015, 『保育園義務教育化』小学館.

私より、ただ3つ年上で、
東大社会学出身で、
エッセイ文体が上手く、
ときにサラッと毒舌を書く。

そんな意味で、大学院の頃から古市氏は「あこがれ」を感じる研究者だった。
本書はそんな古市氏の魅力が溢れている。
(人によっては鼻につく本ではある。まあ本人も自覚しているんだけど)

日本では「少子高齢化」と言われている。
しかし、「子どもを持ちたい」という思いを持つ人へは非常に風当たりが悪い。
だからこそ、それを改善するアイデアが「保育園義務教育化」だ。

これは本書のスタンスである。

今の世の中、「子どもを持ちたい」人や「子どもを持っている人」、特に「お母さん」へのバッシングが強い。

実際、数多くの育児ノウハウはあふれているのに、子どもを産んだ「お母さん」の身体に対して日本はあまりにも無頓着だ。(32)

 

子どもの育児を「孤独」に行うことは、母親にとっても負担が大きくなる。
それが結果的に育児放棄や児童虐待を招くこともある。

仕事をしようにも、都心部では待機児童が多すぎて認可の保育園を使用できない。
しかたなく無認可の保育園に子どもを預けると、【母親の給料と変わらない額】を払うことになることもある。

保育園義務教育化には、母親支援だけでなく、日本経済にも貢献する。

社会学の分析でも「保育サービスなどの拡充によって、働く女性が増えた時に、その国は経済成長率が上がる」(122)ことが示されている。

きちんとした保育サービスを整備すれば、女性が働いてくれ、労働力人口が増える。
さらに忙しく働く女性はルンバや食洗機を買ったり、家事関連産業の拡大にも貢献する。また現代は女性向けの仕事が増えているため、女性が働くと企業の生産性も上がる。(…)女性の労働力率を上げるには、子ども手当を支給するのではなく、保育園を整備したほうが効果的なこともわかっているという。
「経済成長」が大好きなおじさんたちは、「東京オリンピック」や「リニアモーターカー」といった話題は大好きだ。そのくせ「少子化」や「待機児童」といった話題には、「なんとかします」といいながら、あまり興味がなさそうである。
しかし実は、「保育園義務教育化」は、少子化解消のみならず、日本の経済成長にも貢献するアイデアだったのだ。(123)

これらの背景には、次のものがある。

社会のあらゆる制度や環境が、全力で少子化を促進しているかのようだ。日本は実質的に「一人っ子政策」をしていたのだ。
そんな状況を解決するアイディアが「保育義務教育化」だった。
「保育園義務教育化」はただ少子化解消に貢献するというよりも、社会全体の「レベル」を上げることにつながる。良質な乳幼児教育を受けた子どもは、おとなになってから収入が高く、犯罪率が低くなることがわかっている。
同時に「保育園義務教育化」は、育児の孤立化を防ぐ。今の日本では、子育ての責任がとにかく「お母さん」にばかり背負わされている。
子どもが電車や飛行機の中で泣くことも、学校で勉強ができないことも、友だちと起こしたトラブルも、何かあると「お母さん」のせいにされる。
だけど、本当は育児はもっと社会全体で担ってもいいもののはずだ。しかも子育て支援に予算を割くことは経済成長にもつながる。いいことずくめなのだ。(158-159)

ちなみにこの「保育園義務教育化」、カバーにもあるが「もう世界では始まっている!」。

やらない理由はないようだ。

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根井雅弘『経済学3つの基本 経済成長、バブル、競争』ちくまプリマー新書,2013.

 

 

 

 

 

 

ちくまプリマー新書や岩波ジュニア新書は、中高生向けに学術を語る。
それだからこそ、大人が読んでも十分に役立つ。

今日はそんな勉強の一環で、『経済学3つの基本』の抜粋集。

 

ふつうの経済学の教科書では、最初のほうで「消費者主権」という概念を習いますが、これは企業は消費者の嗜好や選好を忠実に反映するような生産をおこなうという規定を指しています。しかし、ガルブレイスは、これは現代資本主義の特徴を捉えていないと考えました。なぜなら、現実には、企業のほうが広告や宣伝などを効果的に駆使して消費者の欲求を創り出しているからです。この意味で、欲求は生産に「依存」していることになります。それゆえ、ガルブレイスは、これを「依存効果」と呼びました。(19)

ガルブレイスの眼は、たんに経済成長至上主義への疑問に向かっているわけではありません。「依存効果」が民間の経済部門に協力に作用している限り、資源は民間部門に優先的に配分されるはずです。それゆえ、豊かな社会であるにもかかわらず、公共部門がきわめて貧しい状態に放置されやすいのです。ガルブレイスは、これを「社会的バランス」の欠如と表現しましたが、これはもちろん「市場」に任せるだけでは解決できない問題です。
ガルブレイスは、このように、アメリカのような豊かな社会でも依存として公共部門の「貧しさ」が残っているという問題を、『ゆたかな社会』というタイトルの本の中で見事に指摘しました。私たちはそのタイトルに紛らわされてはなりません。(22)

マーシャルは、もともと、経済学が「富の研究」であると同時に「人間の研究」でもあることを強調していました。そして、人間性というのは時代とともに「進歩」するし、またしなければならないと堅く信じていました。(35)

 

マーシャルはよく「余暇を立派に利用することを学ぶ」と表現しましたが、現代日本では、たとえ「余暇」ができたとしても、それを活かしきっていない、あるいは、余った時間をまるでルーチンワークを消化するかのように無自覚に費やしているような若者をときどき見かけます。しかし、真の豊かさを実現するためには、自発的かつ明確な目的意識をもって余暇をみずからの潜在能力を伸ばすために使うような態度を身につけるべきではないでしょうか。(37)

私たちはふだん「競争」という言葉を何気なく使っていますが、以前にもどこかに書いたように、偉大な経済学者の「言葉遣い」には意味があることを繰り返し指摘したいと思います。古典派の人々は、資本が最大の利潤率を求めて自由に書く産業間を出入りする可動性のことを「競争」と理解することによって、私たちの生きている社会がまさしく「資本主義」に他ならないことを教えてくれました。(97)

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網野善彦・鶴見俊輔, 1994,『歴史の話』(朝日新聞社)①

鶴見俊輔網野善彦も、私の好きな作家・研究者である。

どちらも、独自の立場から、歴史や思想を解き明かそうとしている。

そんな2人が、実は対談をしていたなんて・・・。

思わぬ発見のあった本。
そこからの抜粋集。

鶴見 私は、「烏合の衆(うごうのしゅう)」を思想上の強さのバネにしたいと思っているんです。(…)味方の陣営はたった十人。その十人がみんな「烏合の衆」でも、「烏合の衆」であることを自覚すれば、それは思想的な強さになっていくと思うんです。「烏合の衆」は、つまりバラバラということでしょう。ディファレンス(違い)がある。それが思想的な強さになっていく。十人の「烏合の衆」で単一の立場に団結しよう、とは私は思わない。「鉄の団結」というのは考える力を弱めていくんです。(18~19)

 

烏合の衆。

烏合の衆

【意味】烏合の衆とは、規律や統制もなく、ただ寄り集まっただけの群衆・軍勢。役立たずな人々の集まり。

)「烏合」とは、カラスの集団のことで、カラスが集まっても、鳴いてうるさいだけで統一性に欠けることから、たとえとしてこの語が生まれた。(語源由来辞典

言葉は悪いが、「規律や統制」なく「寄り集まっただけ」だからこそ、彼らは考える。

私も「考えない」団結でなく、「考える」烏合の衆でありたい、と思った(思っただけかも)。

 

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宇山卓栄, 2015, 『日本の今の問題は、すでに{世界史}が解決している。』①

社会保障制度やTPPなど、今の日本をめぐる課題はたくさんあります。

この課題に如何に答えていくか?
本書は「世界史」からアプローチします。

「歴史から教訓を得る」などという仰々しい考え方は、捨てたほうがよいのかもしれません。この表現を、私は「歴史から視界を得る」という表現に書き換えたいと思います。歴史から得られるものは、「教訓」という普遍のルールではありません。(…)歴史を習得しようとする試みは、まさに、「山の上からの広い景観を獲得し、その景観を眺望し、俯瞰する行為」と言えます。自分の周りは、川に囲まれているのか、田に囲まれているのか、野原に囲まれているのか、その全貌を理解・解釈・分析することができます。(11)

さて、本書は「世界史から日本を見る」スタンスの本です。

世界史から見てみると、日本の幕末〜明治近代化の流れは決して日本人のみで成し遂げたものではないことがわかってきます。

 日米修好通商条約の締結後、アメリカは日本に無理難題を押しつけて、日本を支配しようと画策していました。ところが、実際には、そうならなかった。なぜでしょうか。
1858年の条約締結後の1861年に、アメリカを揺るがす大事件が起こりました。南北戦争です。5年間に及ぶ、この内戦で、死者が60万人を超え、アメリカ社会は荒廃しました。その後も、数十年間、戦争の後遺症に苦しめられます。
アメリカが南北戦争の混乱の中にある時、日本にしばらくの猶予期間が与えられます。日本は、この期間に明治維新をなしとげ、近代化へと進みます。日本にとって、1860年代の十年間の猶予は、まさに天の助けともいうべきもので、その間に、封建社会の眠りから醒め、新たな時代へと進むことができました。もし、アメリカで、南北戦争が起こらなかったならば、日本は近代化の機会を失い、アメリカに主権を奪われ、従属させられていたかもしれません。(15)

実際、独立し国際的にも承認されていた「ハワイ王国」はアメリカに併合されてしまいました(ハワイ併合)。

1898年のことですから日清戦争の頃。
日本がモタモタしていたら、ハワイの次、あるいはハワイにかわって「アメリカ51番目の州」になっていたかもしれません。

 

 

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藤野英人, 2013, 『投資家が「お金」よりも大切にしていること』星海社新書.②

働き方、お金の使い方・・・。
本書にはいろんな気付きがあります。

そんな一節を抜粋。

従業員に過重労働を強いる「ブラック企業」を生み出しているのは、私たち消費者である(89頁)

 

経済とは「共同体のあり方」であり、どのように生きたらみんなが幸せになれるかを考えるのが、経済学の本質だということです。
まさに互恵関係であり、自他不二こそが、経済の本質なのです。(98頁)
経済とは、お金を通してみんなの幸せを考えること−−このことを、ぜひみなさんは覚えておいてください。(99頁)

太古の昔、人間はアフリカで細々と生きていた、弱い哺乳類のひとつだったようです。そんななか、インドネシアで大規模な噴火があり、それによって地球の温度が一気に寒冷化に向かい、多くの生き物が死に絶えました。
人間の祖先も多くが死んでしまい、絶滅の淵に立たされたそうです。
しかし、ここからが面白いのです。生き残った人間のうち、さらに生きのびることができたのは、血縁でなくてもお互いに助け合い、少ない食べ物を争わずに分かち合ったグループだけなのだそうです。|
要は、「協力」こそが、人間が生き残った大きな戦略であり、人間を人間たらしめている大きな要素だということです。
協力することで「company」になり、いま持っている資源を「share」することは、動物にはできない人間独自のものなんですね。(127-128頁)

 

本来あるべき金融教育とは、働くことに価値があり、その価値ある労働の延長に起業の利益があり、その利益の将来期待が会社の価値を形成していると理解することです。(151頁)

真の安定とは、変動・変化をしないことでは、けっしてありません。
変化と向き合い、変化をチャンスと捉え、変化(成長)を望んで、実際に働くこと。要は、変化こそが安定なのです。(213頁)

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アメリカのヒーロー、日本のヒーロー〜藤野英人, 2013, 『投資家が「お金」よりも大切にしていること』星海社新書.①〜

アメリカ映画にはヒーロー物の伝統がある。
バッドマン、アイアンマン、サンダーバードなどなど。

これらは基本的にマンガのヒーローを映画化したものだ。
ちなみに、これらのヒーローの特徴はなんだろう?

バッドマンはウェインカンパニーの社長の御曹司。
大金持ちのいわば余暇として、人助けをしていく。

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サンダーバードは土木建設事業で一旗揚げた一家の慈善事業。
資産をもとに自分の家族を訓練し、世界中のトラブル解決を目指す。
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チャーリーズ・エンジェルのチャーリーは実業家の大富豪。
「チャーリーがスポンサーになって、3人の女の子(エンジェル)たちを支援し」(52頁)、事件を解決していく。

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アメリカのヒーローたちは、基本的に「民間人」なのです。それも、事業を成功させてお金持ちになった実業家が多い。(52頁)

では、日本では?

日本のヒーローといえば?
ウルトラマンや◯◯レンジャー、などなど。

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 一方、日本の場合はどうでしょうか?
同じように日本のヒーローを思い描いていただければわかると思いますが、面白いことに、そのほとんどが「公務員」なんですね。
たとえば、ウルトラマンの科学特捜隊は、国際科学警察機構の下部組織で、パリに支部があり日本に支部がある公の期間です。
ウルトラマン自身も、宇宙警備隊員ですね。(54頁)

日本人の場合、ヒーローは公務員。
それは「「なぜ国がやらない!」と怒り出すのが日本人」(70頁)である証拠かもしれない。

テレビや映画から生まれた日本のヒーローは、ほとんどが公務員です。実業家や大富豪が世の中の悪を倒す、みたいなものは、ほとんどありません。(55頁)

NPOやNGOのやることに「うさんくささ」を感じるのが日本人。

でも、昔はそうでなかったはず。

たとえば角倉了以は私費を投げ打って運河や河川の整備を行ったヒーロー。
いつからかヒーローは国などが公務員として働くもの、というイメージが付いてしまっている。

注 ◯◯レンジャーのシリーズには、国の秘密組織などの前提で作られたものもあれば、太古からの守護神の化身、というものもある。しかし、そのへんの大金持ちが私費で運営しているような◯◯レンジャーシリーズは存在していない(と思います)。

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