学参

論理力って、なあに?

国語力。

物を書いたり、考えたり、文章を読んだりするときに使っている力です。

学校でも、「国語」の授業があります。

ところで、この「国語力」とは、一体何なのでしょう?

福島隆史『論理的思考力を鍛える超シンプルトレーニング』では次のように定義しています。

国語力とは、論理的思考力である。
論理的思考力とは、バラバラの言葉や考えを整理する(関係づける)ための力である。(10)

出口汪さんの「論理エンジン」シリーズは塾や学校でも多く使われています。
「論理エンジン」シリーズも、この定義同様、国語力=論理的思考力と定めるところから始まります。

下手に国語力に「文学」や「読解」、「漢字書き取り」とすると、混乱が起きます。

なぜでしょうか?

それは「文学」を読むことも、文章の「読解」も、「漢字書き取り」も、国語力の根幹ではないからです。

そうではなく、「論理的思考力」という幹から伸びる枝に過ぎないのです。

学校の「国語」の授業では伝えられていない本質がここにあります。

『論理的思考力を鍛える超シンプルトレーニング』ではこの論理的思考力を3つのちからに分けることができる、と指摘します。

「言いかえる力」……抽象・具体の関係を整理する力
〈A つまり B〉〈B たとえば A〉

「くらべる力」……対比関係を整理する力
〈A 一方 B〉〈A それに対して B〉

「たどる力」……因果関係を整理する力
〈A だから B〉〈B なぜなら A〉(10)

「論理的思考力」を、「言いかえる力」「くらべる力」「たどる力」という3つにきれいに整理してしまっているこの定義。

非常にシンプルです。

使うのも「つまり」「たとえば」「一方」「それに対して」「だから」「なぜなら」と、日常よく使っているものばかり(「一方」や「それに対して」はちょっとつらいかな)。

つまり、いつもよく使っているこれらの言葉を完璧に使えるようになることが「論理的思考力」を高める最短ゴールなんじゃないか。

そんなふうに感じてきます。

 

下手に「論理」や「ロジック」「ロジカル」などという言葉を連発しないところがこの本のいいところです。

残念なことに、「論理力を身に付ける」ことを謳っている本や「ロジカルシンキング」を謳っている本は、「結局、論理って何?」「なにをもってロジカルって言ってるの?」という根本的疑問に答えないまま終わってしまうことが多いのです。

その点で、この本はおすすめです。

51k5X2TQM7L._SX351_BO1,204,203,200_

たかが受験ごときで…

 修論で書く関係上、受験勉強法の本を本屋であさっている。
 勉強法の本のタイトルや中身は色々と面白い。たかが受験ごときで「科学的勉強法」や「脳科学に基づいた」学習法が語られる。「孤独に打ち勝つ力をつけよ」とアドバイスされ、「死ぬ気でやれ」と訴えかけられる。

 受験生当時、私はこれらの本を購入し、読み込み、そして必死に勉強をした。けれど大学を卒業した今から思えば、「たかが受験に、なぜここまで熱心にやる必要があったのだろうか」と疑問を感じる。

 「東大脳を作る」という言葉や、受験合格のための「食育」本。どっかの塾や予備校のヨイショ本(宣伝本)に怪しげな記憶法の本。これらを見て、受験生が踊らされているように感じられてしまう。

 勉強の仕方くらい、自分で決めさせてほしい。自分でやらせてほしい。山本哲士の名言「ほっといてくれ!」はこの状況でも有効である。

 そんな風に今の私なら思うが、これは受験を終えた立場だからこそ言えることなのだろうか。学習参考書や受験勉強の「仕方」について書かれた本を目にするたび、受験生がものすごく気の毒に感じられるのである。

学参の研究〜コンヴィヴィアリティのための道具を目指して〜

 脱学校論を、私はずっと研究してきたが、これはイリイチの「イイタイコト」ではなかった。あくまで、産業社会の「制度化」(価値の制度化)を批判するためのものであった。

 これでずっと研究するのもいいが、いささか飽きてきた。
 次のテーマとして、自主的・自律的学習を可能にするもの、要は「コンヴィヴィアリティのための道具」を研究していきたい。その例として、学習参考書をとりあげてみてはどうだろうか。
 研究初めとして、手元にある『現代 教育学事典』(労働旬報社、1988)を見てみよう。
参考書
予習・復習をふくめて学習を自主的に深めていくために副次的に用いられる、教科書以外の図書の総称。したがって、参考書は、本来、子どもの学習が主体的に行なわれるさいの手引書という性格をもつ。すでにこのような性格のものは、大正期の自由教育の展開のなかで用いられていた。しかし、参考書の利用が直ちに自主的な学習を意味するとはかぎらない場合もある。明治後期には上級学校進学のための参考書がすでに使われており、それ以降も国定教科書を学習するための安易な解説書が利用されていたのはその好例である。今日における受験参考書の氾濫も同様である。このような参考書とその利用は、暗記主義・教科書中心主義の傾向を招きやすい。むしろ、その弊を克服し自主的な学習を促す参考書とその利用が望まれる。同時に、学習における問題意識の喚起、学習のもつ面白さの体験の指導などを先行させたい。(久田敏彦)