卒論

シューレ大学学生ゼミでの、卒論発表会。

 本日19時から21時まで、若松河田のシューレ大学で「学生ゼミ」が行われた。今回、有り難くも私が卒論を発表させていただいた。テーマはイリイチの『脱学校の社会』。周りはフリースクール関係者がほとんど。相手がすでによく知りすぎていることを、話してしまわないか、という不安が襲った。けれど、何とか形になってよかったと、と思う。

 卒論の第三部の内容をもとに話をした。そこの中に「教育とは待つこと」という概念を軽々しく書いていたが、もっと考察したうえで書くべきだったと気づかされた。
「待つのが大切とはいうけれど、〈待たれるプレッシャー〉がある。不登校になったわが子にいつ親が〈いつまで待てばいいんだ!〉と言い出すか分からない。それに、シューレでは〈待つ〉態度が貫かれているというが、それは本当だろうか。むしろ、〈待つ〉というよりも子どもをそのままの姿で認めるという態度が重要なのではないか」。
 Sさんの発言(趣旨)だが、非常にためになった。
 もう一点、非常に勉強になった所がある。それはフリースクール的学びを行う際の課題とも言うべきものだ。フリースクールにいて、文字を書けないまま18歳になり、免許をとろうとしても字が書けないから取れない、という方がいる。その人が小さいときに、「文字を書く練習しようよ」と多少強引でも語るべきだったのかどうか、ということがテーマだった。
 朝倉さんは「海外のフリースクールだと、そのことはあまり問題にならない。それは日本の場合、フリースクールに来るのは不登校経験のある子が多いことが一つの要因だ。学校で傷つき、学ぶことを〈辛いこと〉〈苦しいこと〉と経験している子にとって、学ぶモチベーションになれないことが多い。学ぶことを楽しみであるとは捉えられず、比較されるもの・自分のバカさ加減を知られるものだと認識していることがある」。
 この話も興味深い。「学びに傷ついている」ということは、非常に恐ろしいことである。
 さて、このテーマにあった「文字が書けないまま大きくなる」ことについてだが、フレイレの言葉を思い出す。フレイレは脱学校論者の一員であるが、〈成人への識字教育は6週間ほどで行える。それなのに、何で何年も学校に通わないと行けないのか〉という理由からであった。フレイレは実践の中で識字を即習できるプログラムを開発したのだ。さきの18歳の方の件も、「必要ならば数週間で即習出来る」学習プログラムを用意していると、「渇きによる学び」が起きた際容易に学ぶことができる。そういえば、前に『こんばんわ』という夜間中学校を描いたドキュメンタリー映画を見た。そこでは生活に必要な漢字を250程度に選別し、それらを生活文脈の中で学習できる教材が用意されていた。せっかく教育心理学が発達し、脳の研究も進んだのだから、「簡単に日本語の読み書きができる」プログラムを開発すべきであろう、と感じた。
 

イリイチ『生きる思想』「レイ・リテラシー」の章より、脱学校(非学校)について。

 『生きる思想』の「レイ・リテラシー」の部分で、イリイチは《自分自身が『脱学校の社会』のなかでとっていた素朴な見解を批判しようと思います》(116頁)と述べている。

原稿は九ヶ月も出版社のところにありましたが、その間わたしはますますその内容に不満をもつようになりました。ところで、ついでながら言うと、その本は、学校の廃止を論じたものでありません。この誤解は、ハーパー出版社の社長、キャス・キャンフィールドのせいです。かれはわたしの乳飲み子の名付け親になったのですが、そうすることで、わたしの考えに誤った表現を与えてしまったのです。この本は、学校の廃止ではなくて、学校の非公立化を主張したものでした。ちょうど教会が、合衆国では非国教化されているようにです。(116〜117頁)

 イリイチは『脱学校の社会』では費用がかかりすぎるという点からも「非学校化」を提唱したのであった。
 このあと、イリイチは「学校の典礼論」についてを説明していく。「典礼」とはYahoo!百科事典(データ元:『日本大百科事典』(小学館))では次のように説明されていた。要は、礼拝の際の儀式のことをいう。

キリスト教の教会で司祭によって公に行われる礼拝の儀式のことである。語源ラテン語のリトゥルギアliturgia。典礼は神を崇(あが)め、人々のために神の祝福と恵みを求めるために行われるが、典礼にあずかる信者が同一の信仰を確認しあい、連帯心を強める効果をももっている。典礼は、カトリック教会東方正教会、ルター派、改革派教会などによって、それぞれ公認された典礼書の指針にのっとって行われ、典礼書には祈り、賛美歌、聖書朗読の箇所などが記され、司式者と奉仕者のなすべきことが定められている。(…)[ 執筆者:安齋 伸 ]


 《教会学の中でも典礼論は、いつもわたしが好んでいるテーマです》(118頁)と、神学というイリイチの出自に基づいて論を進める。典礼論は《「教会」という現象を作り上げるうえでの礼拝の役割を扱ってい》(同)る。典礼論の研究テーマは《おごそかな身ぶりや聖歌、位階制度や儀式の諸道具が、どのようにして、信仰ばかりでなく、信仰の対象である教会共同体という現実を作り出すのかということ》(同)である。
 《比較典礼論を研究することによって、神話を作り出すのに本質的な儀式と、そうでない非本質的な様式とを区別する目が鋭くなります》(118〜119頁)とイリイチは続ける。このような典礼論研究をもとにして、《学校で行われていることがらを典礼の一部として見る》(119頁)姿勢をイリイチは身につけた。

そうやって、わたしは、学校schoolingという典礼が、近代の事物が社会的に構築されていくうえでどんな役割をはたしているのか、そして、そうした典礼がどの程度、「教育への[依存]欲求」というものを作りだしてきたのか、という点を研究するようになりました。また、学校[という典礼]に参加する人びとの精神のありかたのうえに、学校がどんな痕跡を残すかということにも気づくようになりました。わたしは、学習の理論や学習目標がどれだけ達成されたかといった研究についてはカッコに入れ[判断を控え]、学校における典礼の形態に注意を集中しました。『脱学校の社会』として出版した諸論文のなかで、わたしは、学校の現象学を論じました。

 その「学校における典礼の形態」の例として、次のものをあげる。
《「教師と呼ばれる人間のまわりで、年に二百日、日に三時間から六時間勉強する年齢別に構成された集団》(119頁)
《落第したり、低いランクのコースへ追いやられた者たちが排除されることを年ごとに祝う進級[という儀式]》(同)
《これまでのどんな僧院の典礼にもないほど細分化され入念に選択された学習項目》(119〜120頁)
 

生徒の数は一般に十二人から四十八人、教師は、数年間は、生徒以上にこうした儀式に骨の髄までひたった者でなければなりません。生徒は、一般になんらかの「教育」を受けたとみなされ、また学校だけが、独占的にそうした「教育」を授けることができるとみなされています。(120頁)

そういうことから、わたしは、教育を、必要な財と考えるような社会的現実を、学校という典礼が、どのようにして作り出してきたのかを知ることになりました。二十世紀の最後の二十年のあいだに、このような[教育の必要という]神話を作り出す働きをするものとして、包括的な生涯教育が、学校にとって代わるだろうということについては、当時でも気がついていました。(120頁)

 けれど、イリイチはこう語る。《『脱学校の社会』を書いたとき、わたしの関心の核にあったのは、依然として、教育の社会的影響であり、教育がそもそも歴史のなかでどのようなものとして形成されてきたかということではありませんでした》(121頁)と。このようにイリイチは自己批判をする。
 この文章の後、イリイチは人間を「ホモ・エージュカンドゥス」(教育を要するヒト)の「種に属している」とみる自身の仮説を疑い始める。「稀少性」というキーワードから文明を読み解くイリイチの姿勢が《実は、歴史的につくられたものだということに、カール・ポランニーの本によって気づかされ》(122頁)る。

こうして、「教育」とはなんであるかということを私は理解するようになりました。つまり、「教育」とは、学習を生産する手段が稀少であるという仮定のもとでとり行われる学習のことなのです。この点から考えると、「教育」への[依存]欲求とは、いわゆる「社会化」のための手段は稀少である[かぎられている]、とする社会的な信念や合意から生まれる結果であるように思われます。そして、同じ点から考えて気づきはじめたのは、教育という儀式が反映し、強化し、現実に作り出してもいるのは、稀少性という条件のもとで追求される学習への価値への信仰だということです。(122頁)

※なお、カール・ポランニーについてYahoo!百科事典で調べた結果も引用しておく。

ポランニー Karl Polanyi

(1886―1964)

ハンガリー生まれの経済学者。主としてアメリカで活躍。ブダペスト大学その他で哲学法学を学び、第一次世界大戦後ウィーンで雑誌の編集に従事。ナチスに追われてイギリスに移り、オックスフォード大学の課外活動常任委員会の講師その他を経てコロンビア大学客員教授となり、経済史を講義。物資の交換形態として、互酬性、再分配、(市場)交換の3様式を摘出し、交換形態の分析により、近代の市場経済社会と、その他の非市場社会とを同時に扱うのを可能にした。近代西欧の市場経済が人類史上、特殊であることを示し、経済人類学の発展に多大の貢献をした。主著として『大転換』(1944)、『ダホメと奴隷貿易』(1966/邦訳名『経済と文明』)などがある。なお、物理化学者、社会科学者のミヒャエル・ポランニーは弟、化学者のジョン・ポランニー(1986年ノーベル化学賞受賞)は甥(おい)である。

[ 執筆者:豊田由貴夫 ]

学校の持つ気持ち悪さについて

 私の卒論のテーマは「学校の持つ気持ち悪さ」の研究である。これは私自身が学校に違和感を持っていた、ということが問題意識の背景にある。
 けれど、人によっては学校時代が楽しくて仕方なかった、という人もいるようだ。学校を「気持ち悪い」と感じるか「楽しい」と感じるか。この違いはどこにあるのだろうか。

 初めに結論を書くが、学校のもつ「気持ち悪さ」を「貨幣」として支払うことに正当性を感じている人は、「学校が楽しい」と感じるのだと考える。言い換えると、「学校の楽しさを味わうためには、この気持ち悪さを感じるのは仕方のないことだな」と感じる人が「学校が楽しい」と言っているということである。

 学校に行けば部活も出来るし、友人とも遊ぶことができる。だから校則や画一的な授業を我慢しよう。この思いがあるのではないか。
 
 私はよく人気ラーメン店にいく。暑い中、行列にならびジッとラーメンを待つ。人の体臭や待つ苦痛。不愉快な時間だ。けれどその代償として食べるラーメンは格別に旨い。学校も同じではないか。
 上野千鶴子は「学校化社会は誰も幸せにしない」といった。「学校」は人々に不愉快さ・「気持ち悪さ」を与えている事実は変わらず、それを「まあ仕方がない」「当然だ」と考えるか、「もう無理なんだけど」「ウザイ」と考えるかの違いしかないのである。
 ・・・ここで書いた部分は、卒論の中核となるところだと思う。
 卒論的には、「学校の気持ち悪さ」を内藤朝雄の「中間集団全体主義」/イリッチのいう学習の「価値の制度化」「学校化」の2つの側面から考察していく。
追記
●ヘルマン=ヘッセの『車輪の下』は、学校の持つ気持ち悪さに拒否感を示し、それがきっかけで自分のアイデンティティすら失い、寂しく冷たく死んでいく少年の物語である。この物語も、卒論に使おうとおもう。

卒論のリライト

久しぶりの投稿。なんだか緊張する。

シルバーウィーク後半は、長野でフリースクールの「学生ゼミ」合宿に行っていた。フリースクールに関心のある学生が集まっての合宿。3日間ともずっと議論・講義・討論。遊び要素がほとんどない。なんて真面目な合宿なのだと、大学のゼミの合宿を経験した後なので思った。

収穫がいくつか。今回は1点だけあげる。
卒論を、私は6万字で書いた。それを書き直す決意をしたのだ。
当初、私は「学校の持つ気持ち悪さ」をテーマにしていた。そのテーマに戻るのだ。
6万字の文章の方は、結局イリッチの『脱学校の社会』を読み解くだけで終っており、「私」の意見は全く入っていなかった。
卒論はイリッチでなく、「私」が書くものである。「私」の「やりたいこと」をまとめるためにも、再び論文を書くことにしたのだ。

卒論の進み具合。

 早稲田大学教育学部教育学科教育学専修の卒論規定文字数は3万2000文字である。

 途中までではあるが、いま3万4000文字を埋めた。
 本ブログのリンクに途中までではあるが卒論を掲載したので、ご興味のある方は参照していただきたい。ちなみにここからも見ることができます。可能ならぜひコメントをお寄せ下さい。文章は随時更新していきます。
 なお、別のブログに掲載したのは果てしなく文字数があるからである。
 友人Oに聞くところによると、早稲田の場合卒論を出した後、本人の手元に提出した卒論が返されるようだ。この場合、卒論を読むのは①書いた本人、②担当教諭くらいである。合計、たった2人。ある意味で卒業論文を書くために4年間の歳月を費やしたのであるから、これでは苦労が報われる気がしない(卒論を「2日で」書き上げた場合は除外するものとします)。
 修士論文になると院生読書室に保管される。そのため、「何十年もした後、後輩が論文を読み研究に生かす」というプロセスが起きる可能性を期待できる(ほとんどこんなこと、発生しないだろうが)。
 卒論が本人に戻されるというのは悲しい。せっかく苦労して書いたものなのだから、いろんな人に読んでもらいたい(自己満足な研究である場合は除く)。
 そのため、ブログに掲載することにした。だれかがGoogleで発見してくれると、自分の苦労が報われる気がするからだ。 

『脱学校化の可能性』「解説」より。

『脱学校化の可能性』「解説」より。

「近代文明と人間に対するラディカルな問いかけ」をする人々が1960年代後半から1970年代初頭に現れてくる。
  ↓
「この時期にはまた『脱学校化』を唱える人々と共に,様々な学校批判と改革を主張する一群の人々があらわれた」(197頁)

「このようなラディカルズと呼ばれる人々をデイヴィッド・ハーグリーブズは脱学校論者(Deschooler)と新ロマン主義者(New Romantics)とに分類している」(197頁)
脱学校論者:「教育制度と社会を根本的に批判し、ラディカルな代案の構想を提案している人々」「彼らの主な仕事は、社会の構造の中における教育の構造についてであり、学校の廃止を主張し、教育は特定の教育制度の仕事であることをやめ、かわりに社会の様々な部門に拡散される」
「イヴァン・イリッチ、エヴァレット・ライマー、パウロ・フレイレ、等」
「長期的で幅広い展望」「学校ばかりではなく社会の変革」(分析の焦点)

新ロマン主義者:「現在の教育の実践には非常に批判的ではあるが、学校にかわるラディカルな代案よりも改革を主張する。彼らの主な関心は、カリキュラム内容の再構成や教育の性格の再規定であり、その分析は、ほとんどミクロな社会学的レベルあるいは社会心理学的レベルである」「脱学校論者の学校診断を受け容れているが、教師や学校そのものを攻撃しているのではなく、教育制度内改革を目ざしている」
「ハーバート・コール、ニール・ポーストマン、初期のジョン・ホールト、カール・ロジャース、オンタリオ教育研究所の人々や、さかのぼれば、サマーヒルのニール、フリーデンバーグ、コゾル等」(198頁)
「短期的(展望)」「焦点は教室の中」(分析の焦点)

*ポール・グッドマンは、脱学校論者、新ロマン主義者「双方のグループの父と言われている」(199頁)

卒業論文レイアウト。

何度も変遷しているが、卒論の概要は次のようにしたいと思う。

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題目:イリッチ『脱学校の社会』の現代的意義の考察(「学校化」「脱学校」「価値の制度化」「ラーニング・ウェッブ」の定義の考察)


序論:『脱学校の社会』特有のキーワードを探る。

本論:イリッチ『脱学校の社会』を読み解く。
イリッチが本書を書いた理由は何か?
  ライマー、ホルトなどの影響。
  「価値の制度化」への批判
価値の制度化とは何か?
  価値観の転倒する社会
学校化とは何か?
  「学校化」という言葉をめぐる混乱
     宮台真司・上野千鶴子の「学校化」とイリッチの「学校化」の違い
       学校的価値が吹き出す社会(宮台)
       学びが制度化する(イリッチ)
ラーニングウェッブとは何か?
  イリッチの描くラーニングウェッブ像
  ブログ空間によって、ラーニングウェッブは構築可能か?
イリッチのフリースクール観
  フリースクールを否定的にみるイリッチ。
  「脱学校」とフリースクールはイコールではない。
  フリースクール論はニイルに求めよ。

結論:『脱学校の社会』から何が見えてくるか。
「価値の制度化」が起きていないかを常に確認せよ。
ウェブ時代におけるイリッチ再考の必要性。
今後の課題
  イリッチの思想の変遷を探る
  フレイレとの出会いの前後の変遷。
  ニイル思想の研究の必要性。

参考文献

『オートポイエーシスの教育』、または卒論の概要。

 山下和也『オートポイエーシスの教育』を読んでいる。ルーマンの社会システム論のキー概念である「オートポイエーシス」理論をもとに、教育を再考するという本である。

 山下は、2通りの教育コミュニケーションが存在していることを説明する。ひとつは、「全体としての社会システムの期待される人格一般としての人格の担い手の育成を期待する」普通教育コミュニケーションである。もうひとつは「特定の社会システムの特定の人格の担い手育成を期待する」専門教育コミュニケーションを意味する(117頁)。
 現在では、普通教育コミュニケーションは最低限必要な基準であると考えられている。いわゆる義務教育である。社会の一員となるに当たり、「ないと困る」レベルの内容である。一方、専門教育コミュニケーションは、個人に応じ要求されるものが異なってくる。山下の言葉を使うと、将来になう人格に応じて専門教育コミュニケーションの中身は変わっていくのである。
 この言葉を説明した後、山下は次のように語る。これはイリッチの「学習のためのネットワーク」(ラーニング・ウェッブ)の欠点をしたものだ。
 将来どの人格を担うにしろ、その社会における社会人人格を最低限担えるだけのコードを前もって習得させておく必要が生じ、そのために特化した教育システムが分化してきました。これがつまり普通教育です。技能教育のネットワーク化を唱えて学校を否定するイリッチが見落としているのがこの点で、何を学ぶべきかが個人個人にわかっていないからこそ、学校による普通教育が必要なのです。独学の困難は学ぶべきことの選別にこそ存するのですから。(pp123~124)
 重要な指摘だ。けれど、見当違いもいくつかある。イリッチは確かに『脱学校の社会』のなかで、「技能教育」についても書いていた。けれど、山下の文脈にある意味ではなく、「学校的な機能が役立つのは、技能教育についてだけだ」といっているように私は解釈している。「技能教育」と「ネットワーク化」をつなげてはいなかったはずだが・・・。小中さんに聞いてみようかしら。
 個人は「何を学ぶべきか」「わかっていない」という点が印象的だ。若干、内田樹の語り口を思い出す。内田ならば〈学びとは、何を学ぶべきかわからない状態の中からはじまる。「自分はこれを学びたい」、と学びを商品のように扱うことはできない。学びは、何をどこまで学ぶかわからない中、それでも学び始めることから始まるのだ〉という感じで書くだろう(『街場の教育論』にあったはず)。ある程度学びが進まない限り、「これを学びたい!」という感情が起こることはないようだ。
 この点についてだが、フリースクールの理念を思い出すと、いささか疑問も感じられる。
 フリースクールの「自由な教育」は、「勉強しない自由」も認めている。奥地圭子のいう「ヒロベン」(広い意味の勉強)が行われているから、いまは遊んでいてもいいのだ、という態度である。『超・学校』に紹介されたサドベリー・バレースクールの実践も、「ヒロベン」である。生徒達は何をしてもいい。一日中、釣りを続けてもいいし、学校に来なくてもいい。「これを学べ」とは決して教師が言わず、「これを授業して下さい」と子どもがいうまで、教師はものを教えない。「教育とは待つということだ」という言葉があるが、サドベリー・バレーはそれを地でいく学校(語弊があるなら「学び場」か?)であるのだ。
 サドベリー・バレーのようなフリースクール(あるいはデモクラティック・スクール)において、「普通教育」を行っているといえるのか? 「ヒロベン」という便利な言葉を使うなら、「ヒロベン」を「普通教育」と考えられるのだろうか? 山下は学校内での、制度としての授業を「普通教育」と考えてるようだが、制度によらない「ヒロベン」を「普通教育」ととらえてもよいのであろうか。
 フリースクールなどの「自由な教育」の中で、「最低限必要な学習」が行われることを説明できるなら、いま以上にフリースクールが教育界で重視される存在となると考えるられる。
 けれど自分で書いといて何だが、この結論はフリースクールの命取りともなるような気がしてならない。イリッチは「価値の制度化」という状況への批判を『脱学校の社会』で行ってきた。イリッチのいうラーニングウェッブやフリースクールに、「普通教育を行いなさい」と伝えることは、フリースクールの「フリー」さを損ねる結果となるのではないか。「教えられたことを学んだことの結果だと考える」のが価値の制度化、「学校化」現象である。自由さがウリのフリースクールに、「これを行いなさい」ということは「価値の制度化」といえなくもない。
 方向性としては、いまフリースクールで繰り広げられている学びを、山下の言う「普通教育」ととらえていくという姿勢が必要となるのだろう。東京シューレなど「フリースクール全国ネットワーク」加盟団体であればこの考え方でいい。
 ただし、これは団体に入っているからOK、というわけではない(それでは「価値の制度化」である)。団体加盟の際に加盟条件に適った団体かをチェックする機能が働いているからOKとみなすのである(無理に子どもに教育を与えようとする組織は、外される)。このチェック機能にも残念ながら穴がある。加盟後に不適切な行動をしはじめる団体へのチェックを行えない点だ。実際、フリースクール全国ネットワークの活動を見てみると、「総会」に参加しない団体へのチェック機能がないように思う。また「総会」やその他活動にフリースクールの代表者が参加していても、適切なフリースクール運営をしているかを、「全国ネットワーク」メンバーが確認することはほとんどない。加盟数が100に満たない間は、それでも善意でなんとか運営されるかもしれない。けれど、数が増えて加盟数が300を超えてくると誰も実体を知らない組織が存在することになる可能性がある。絶えず加盟団体の行動をチェックする機構が「全国ネットワーク」に存在するのか否か。それがキーになる気がする。
 話が脱線したので戻すと、フリースクールだから「普通教育が」が「ヒロベン」の名で行われているのだろう、と思うことに危険が伴うのだと私は考えてるということだ。下手に「フリースクールには『普通教育』を制度としては取りいれない」とした場合、「フリースクール」という名称が名ばかりとなっているような学びの場(昨年の丹波ナチュラルスクールなど)に対し、「もっと~~な教育を行いなさい」といえないことになってしまう。
 この問題も、自称「フリースクール」と、「フリースクールの理念に合致した真のフリースクール」が明確に区別され、第三者機関によって評価される時代が来たら、解決するような気がする。現段階では「フリースクール全国ネットワーク」加盟のフリースクールを、典型的な「フリースクール」であると考えておくのが無難なようだ。
 
追記
 卒論では、イリッチのラーニングウェッブに対しての批判を行う内容を行いたいと思う。『学校が自由になる日』内の「学校リベラリスト宣言」の内容を踏まえ、「最低限必要な学習」と「発展的な内容」に教育内容を分けて行うなら、イリッチの主張は実現可能であるということを示したい。
再記

 再び確認してみると、イリッチの本文に、技能教育のネットワークを示唆するものがありました。ただ、山下さんの記述にあるような「技能教育のネットワーク」だけをイリッチが説いたわけではありません。
 …。おかしいな。イリッチは技能教育を学校で行うことに肯定的だったはずなのに…(というか、学校が役立つのは技能教育と大学だけだ、といっていた)。

卒論の構成

 そろそろ、卒論のことを考えていこう。卒論の構成について、次のように考えている(随時更新)。

卒論の題目:「    」
はじめに
イリッチ『脱学校の社会』
・イリッチが本書を書いた理由は何か?
・価値の制度化とは何か?
・学校化とは何か?
 →宮台真司・上野千鶴子の「学校化」とイリッチの「学校化」の違い
フリースクールの中身
・フリースクールの「フリー」の意味
・フリースクールの存在がもたらす社会的意義
 →オルタナティブな社会
・東京シューレの活動
・ミーティングの意義
 →子どもの権利条約との関わり。
ラーニングウェッブの可能性
・イリッチの描くラーニングウェッブ像
・ブログ空間によって、ラーニングウェッブは構築可能か?
・『学校が自由になる日』の「学校リベラリズム宣言」との対比
結論
うーむ、全然まとまっていない。まずは構成を完成させないと。

イリッチが『シャドウ・ワーク』で言いたかったこと

『シャドウ・ワーク』においてイリッチは〈制度に縛られない〉生き方の大事さを何度も主張している。少なくとも、一章と二章を見る限り、そうである。

 「学び」という営みも本来、もっと自由なものであったはず。「学校」という制度に頼らなくても、子どもたちが周りの「まね」をのびのび行っているのが本来の「学び」であったはずだ。いま、「まね」ることの出来る環境が無くなりつつあるのと平行して、「学び」が「学校」のみに一元化されようとしている。また宮台の言うように学校的価値が社会にひろまるという意味での「学校化」も起きている。「学び」と「制度」がつながってしまったのだ。「価値の制度化」である。

 『シャドウ・ワーク』でイリッチは言う。「もし自分の手で丸太小屋を建てることができるほどのひとならば、そのひとは本当は貧しいとはいえないのだ」(43頁)。丸太小屋という粗末な家をあえて自分でつくることができるのは、金持ちの特権なのである、と。近代成熟期には制度に頼らず「自分で」することは特権階級のすることとなってしまった。制度に頼らない学び、たとえばフリースクールやホーム・エジュケーションに関心を持つのは金持ち層が多い。イリッチの主張はこのような点にも現れている。

 追加すると、イリッチは「理想の社会」と一つのことばで表される社会を嫌っているように思える。コミュニティごとに、「理想の社会」は異なるはずだ。文化環境も、思想・信条も、自然環境も違っているのだから。山本哲士は『教育の政治 子どもの国家』において「社会」と「場所」とを対比的に語る。一元的な「社会」ではなく、その場その場の(ヴァナキュラーの)「場所」を重視すべきだと主張している。
 経済を基にしていると、経済はすべてを一元化してしまう。『シャドウ・ワーク』の「公的選択の三つの次元」のZ軸の定義として、上限が「経済成長につかえる社会」であると示している。その反対側の下限が「生活は自立と自存を志向する活動のまわりに組織され、それぞれのコミュニティは、成長の要求に懐疑的になることで、コミュニティ独自のライフスタイルをいっそう強化する」というものであった。「経済に基づくコミュニティも多様な選択肢の一つではないか」という意見が聞こえてくることを見越した上での、主張であろう。経済を基にすると、コミュニティの独自性が失われてしまうことをイリッチは嘆いているのだろう。XYZ軸をすべて説明した後に、「当今の政治の概念作用となると、すべてを一次元化してやまない」といっているのは、そのためではないだろうか。

※余談だが、昔読んだリンカーン大統領の伝記を思い出す。サブタイトルは「丸太小屋からホワイトハウスへ」であった。当時の私は丸太小屋、つまりログハウスに住んでいる人は「別荘を持った金持ち」というイメージをもっていた。本来、19世紀初頭における丸太小屋は「貧しさ」の象徴であったのだが、誤解していたのだ。