エッセイ

大平レポート① 浦幌町の「チーム議会」

☆帯広市図書館で司書として活躍する大平亮介さん。
彼のFacebook記事には、とても「いい記事」が多いです。
そのため、今後「日本ノマド・エジュケーション協会」ブログでも本人の了承のもと、転載していきます。

 

浦幌町議会(北海道十勝管内)では議員さんが1人欠員になっている現状を踏まえて「チーム議会」という取り組みを始めました。
意見も募集しているとのことなので、送ってみました。

取り組み政策として「気軽に対話できる議会」を挙げています。
意見交換会だと、最初は参加のハードルが高いので思うので、本を紹介するゲーム・ビブリオバトルを取り入れたワークショップの開催を提案してみました。

これまで何十回もビブリオバトルに参加しているのですが、違う年代とのコミュニケーションの方法として最適かなと思います。

大平 亮介さんの写真

JCBギフトカード、その傾向と対策。

知り合いからJCBギフトカードをはじめ、商品券をもらった場合。
どのように使うかに、その人の人間性が現れる。

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だいたいの場合、「特別な買い物」に使用される傾向が強い。

例)「ブランドのバックを買うから、ギフトカードを使おう」
例2)「ギターを買い換えるときに使おう」

しかし、あらゆる商品券は一種の「負債」である。
もらっても、持っているだけでは1円の価値も発生しない。
使用してはじめて価値が発生する。

似た話は最近のTポイントやPontaカードのポイントにも当てはまる。
ためにためて数百・数千ポイント溜まっていても、使わなければ1円の価値もない。

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結論。

JCBギフトカードこそ、ふだんのスーパーの買い物に使う。
はやく使用し切ることで、その価値が発生する

「贈り物」の「大事」で「貴重」なギフトカードこそ、「普段使い」で「しょうもなく」「ふつうに」使ってしまうほうが、価値的。

人からもらった図書券もギフトカードも、使用しないままタンスに眠ることがある。
現金と違い、預金もできず、ほっておくと使用期限が切れてしまうことがある。

私は、そう思う。

私が早稲田で学んだこと。

私が早稲田で学んだのは「偽の二項対立をするな」ということだった。
 たとえば高校生時代の「切実な」悩みは「部活と勉学をどうやって両立するか」だった。
 この背景には、「部活もやりたい。でも受験で結果も出したい。どうやったら両方うまく行くのだろうか」という思いが存在している。
 この「悩み」を解決する方法は、当時の私が考えたもので3つある。

  ①部活のみに力を注ぐ。
  ②勉強のみに力を注ぐ。
  ③部活と勉強、両方に力を注ぐ。

 ①の場合、受験勉強がうまく行かなかった場合、その「後悔」を感じないか、というリスクがある。
 私の高校はある大学の「系列校」(付属校みたいなものだが、学校法人が違う)であった。
 私の同期生はみなその系列の大学に「推薦入学」する。
 それでいいのであれば、①の選択は可能であった。

 ②の場合。①の逆であるが、そもそも私の高校では「勉強」しかしない人に対する評価はあまり高くなかった。
 むしろ生徒の委員会活動や部活動、文化祭などに強く関わることが評価されていた。

 ③の場合。両方やるというのはもっともリスキーだ。
 なぜならば、両方ダメな結果しか残せない場合があるからだ。
 プロセスに満足できるなら、③が薦められる。
 
結局私は、③をやる形となった。厳密には私は生徒会活動が「両立」の一方の軸であった。
③の解決策こそ、「たいへんだけど、自分を成長させる」ものだと信じたからだった。
 じっさい、私の高校の友人達の間でも、③の選択肢がもてはやされていた。

 早稲田に入って学んだのは、①②③とも違う④の選択肢の存在だった。

  ④部活も勉強も、両方やらない。

 ④の選択肢の「すごさ」は、①〜③の前提をすべてひっくり返すところにある。 
 はじめは④を「不真面目」と思ってしまうことと思う。しかし、「そもそも、部活も勉強も、そんなに大事なのか」という問いかけをする点に、意味があるのである。

 ①〜③は「何かをしないといけない」という強迫観念に駆られた選択であった。
 しかし、④は「それ以外にもやり方があるんじゃないの」という思いを提示するものだった。

 ④の発想を一度することで、①〜③の選択肢が生きてくる。
 それは、①〜③は「何かをしないといけない」というマイナス志向から発している点である。
 ①〜③すべて、「まわりの評価」を求めている点では共通である。
 つまり、何かで結果を出し、「まわり」から評価されたい、という思いが表れているものなのである。
 「自分が本当に何をやりたいのか」が問われていないのだ。

 学習心理学では、「内発的動機づけ」と「外発的動機づけ」という概念を用いる。
 昔、「テストで100点とったら、ゲーム機を買ってあげるわよ」と親に言われた経験を持つ人はいないだろうか。
 残念ながら私の親はそうではなかったのだが、この場合が「外発的動機づけ」である。
 つまり、「誰かに何かをもらえるから」勉強する、という態度である。
 「誰かにほめられるから」「評価されるから」学ぶという態度だ。
 この「外発的動機づけ」、はじめは効果を発揮する。
 しかし、勉強して「ゲーム機を買ってもらった」あとには、効果がなくなる。
 ただそれだけの効果しかない。
 一方、「内発的動機づけ」は異なる。
 自分が「これを学びたい!」という思いから発している。
 「これを学び、仕事に役立てたい」という思いからの学習である。
 心理学的には「外発的動機づけ」よりも「内発的動機づけ」の方が効果的だ、という。

 ④の選択肢を考えることは、「内発的動機づけ」について考えることでもある。
 つまり、「本当に受験も部活も、やる価値があるのか」という問い直しが可能になる。
 今だから言えるが、高校生の時の私はまわりの「すごい」友人にコンプレックスを持っていた。
 自分も、まわりから「すごい」と言われるようになりたい。
 そんな「他人からの評価」が欲しくてたまらない弱い人間であった(今もそうかもしれない)。
 そのため、受験も部活も、「本当に」やりたいことだったかと言われると疑問を感じてしまう。
 ただ「東大に合格する自分」が、友人たちから「評価」されることだけを求めて、私は受験勉強をしたのであった。
 受験勉強で結果を出しながらも、部活でも結果を出すことで「すごい」と言われたかっただけなのであった。
 生徒会活動に精を出したのも、もとはといえば「すごい」と評価されたいだけであった。
 ④を考えるまで、私は厳密な意味で受験勉強をやる意味や部活動をやる意味を考えていなかったことに気づいたのであった。
 
 ここまで考えれば、①〜③の選択肢の「甘さ」が見えてくるはずである。
 なぜ「部活」か「勉強」かということで悩まないといけなかったのか、という根本原因が見えてくる。
 それが早稲田で学んだ④の選択肢である。
 要は私は他者からの評価をもとめていたのである。
 「外発的動機づけ」でしか動いていなかったのだ。
 
 この文章を読んでくださっている方には、あまり④の選択肢の意味が伝わっていないかも知れない。
 しかし、④を一度考えることはすごく重要なのだ。
 ④を考えた後、①〜③の選択肢を見ると、①〜③の内容をさらに深めることが出来る。
 やってみよう。

①’ 部活が楽しいから、部活に力を注ぐ。
②’ 学習するのが楽しいから、学習に力を注ぐ。
③’ 部活も勉強も両方楽しいから、両方やって両方とも楽しむ。

 要は他人の評価のために一生懸命やる必要はなかったのだ。
 早稲田で学んだ④の選択肢は、①〜③の内容を豊かにしてくれたのだ。
 ④の選択肢のお陰で「部活か勉学か」という「偽の二項対立」を乗り越える事ができるんのだ。
 
 ④の選択肢の存在は、私の持つ、物事への見方を大きく変えてくれた。
 これが「大学」に行く意味であるし、学問をする意味なのだなあ、としみじみ思う。

原発報道の「風化」

『寺山修司名言集 身捨つるほどの祖国はありや』(2003)にいわく、

「ミサイルという記号の一般化は、あきらかにミサイルそのものに先行している。
 ここでは、本質が存在を先取りし、ミサイルではなく「ミサイル的」な概念が、知れわたってしまっているからである。
 私たちは、次第に核弾頭をつけたミサイルのリアリティとは別に、ミサイルということばに慣れる。ミサイルは日常語の中で風化され、その恐怖感を摩滅させてゆく。(現代のキーワード)」(258)

 逆説的ながら、原発に関するニュースが流れれば流れるほど、人びとは「またか」と思う。「日常語の中で風化され、その恐怖感を摩滅させてゆく」。
 いうならばニュースを流せば流すほど、そのニュースの中身はインフレになり、人びとの感じる重要度がどんどん下がって行くのである。
 原発報道をするニュースは、実は原発の危険性を風化させる一つのファクターであるかもしれないのである。

福島原発報道に思うこと。

 いま、福島原発のニュースでテレビはもちきりである。原発については一時、徹底的に本を読みこんだ時期がある。それは高校二年のときのディベート甲子園の頃。論題の「日本は原子力発電を廃止すべきである、是か非か」。その時あった資料(2004年当時)のどれもが原子力発電の危険を指摘するものばかり。現状維持の否定側(つまり、原発を「廃止すべきでない」立場)はほとんど勝ち目がない。チームメートと「どうやったら肯定側のいう〈原発の事故で死者が多数出る〉という主張を打ち砕けるか」真剣な議論をした(自分は途中で抜けてスタッフとして甲子園に参加した)。
 結局、そのときに出ていた否定側の有力資料は、政府や御用学者のいう「安全基準は万全だ」というようなものしかなかった。そのため、肯定側の主張をすべて批判し、ブレイクイーブンで勝つ、というのが否定側に当たった際の必勝パターンとして考えられていた。なお、ブレイクイーブンとは肯定‐否定双方の主張が成り立たない、ということ。その場合は「現状維持の否定側の勝ち」になる。私のいた学校は決勝戦で否定側が当たる(=つまり、原発を廃止するな、という立場)も、なんと優勝してしまうという快挙を成し遂げた。いまの時期にディベートするなら、まずありえない話である。
 まあ、あのとき感じていた原発維持側の資料に書かれていた内容は前提自体誤ったものであったことが可塑的に明らかになったわけだ(「格納容器」は丈夫というのは資料通りであったけれども)。
 今回のニュースを見て、御用学者にだけはならないと決めた。

テキスト論で読む小説『エミール』

テキスト論で読む小説『エミール』

 ルソーの書いた教育小説『エミール』は、終始エミール少年の家庭教師の目線から書かれた物語である。これを一種の教育実践記録として読むとどのような読解が可能かを少し試みたい。
本書『エミール』では教員のみが語ることを許され、エミールの発言は教員によって記録されたもののみが残る。エミールには自由に発言することが許されなかった(発言してもどうせ教員の選んだ言葉・教員がきれいに解釈した言葉しか残らない)。小説内には掲載されていないだけで、実際のエミールは教員に相当反発をしていたのだと考えられる。小説『エミール』の世界では、教員が生殺与奪の権を持っている(窓ガラスを割ったエミールが凍える寸前までいくことからして、文字通りの意味を持つ)。教員の想定したルートを通らない限り、エミールは記録されることも物語ることもできない(消極教育を謳った小説『エミール』内の実践が、実は教員のこまかな計画のもとに行われていたとの指摘はかねてより多く存在する)。教員の教育計画上の予想通りに行かない場合、小説内では教員の失敗ではなく、エミール自身の失敗として処理される。
考えてみれば、小説『エミール』の成立する環境自身、異常なものである。エミールは田舎の一軒家に、両親から切り離され、尊敬を要求してくる教員と、二人だけの生活を幼少のころから押し付けられてきた。教員が幼児性愛者・同性愛者であった場合、エミールは記録されないが数知れない虐待を受けていた可能性が考えられる。教員が仮に変態性愛者であると考えた場合、小説『エミール』の持つ意味は変わってくる。エミールへの性的虐待の疑いをかけられた(実際に虐待しているかもしれないが)教員が、自分の正当化(言い訳)のためにエミールとの「関係」を美しく整理・記録・公刊した実践記録であった可能性が出て来るのだ。
ブルジョア家庭しか家庭教師を雇えない時代に、エミールは幼少時より家庭教師を付けられて育った。実家は相当な財力を持っているわけだ。しかし教員の教育の成果は、エミールを手工業者に変えただけであった。実家を継ぐという話も、「帝王学」を学ぶという話もいっさいなく、小説後半では両親・実家の姿が完全に消えていく。両親も実家も健在である場合、(a)エミールが教師にさらわれたと考えることも、(b)エミールが教員になつき実家を捨てたと考えることもできる。が、(a)・(b)両方とも我々の眼には不幸な出来事して読み取ることができる。家庭教師の自己認識的には最高の教育をおこなったはずであった。泥棒から貴族まで、教え子が望む生き方ができるようにする教育を、教員がエミールに与えたはずであった。その結果が自営業の手工業者とは、なんともお粗末な実践であったと言わざるを得ないのではないか。

実は『エミール』には続編が執筆されている。続編の『エミール』は教員ではなくエミール目線から書かれた書簡形式の小説である。恋人ソフィーとの苦い別れと教員への一応の感謝が述べられている。先ほどの実家との関係は、やはり文書として登場してこない。形式上、文書中ではエミールはこの書簡を出すかもしれないし、出さないかもしれないと留保して記録している。
この書簡をエミール少年自身が書いたと見る場合、①手紙を元教員に届け、元教員が公表したという見方と、②エミールは元教員に書簡を出さなかったが内容を公開した場合の2つのケースが想定される(読者の目に私的な書簡がさらされているということは、誰かが何らかの意図を持って公刊したというわけだ)。①の場合、書簡中の教員への賛辞は文字通りの意味をもつ。純粋にエミールは教員に感謝しているのだ。本書簡を読者が読めるのは当然①か②の手法によりどこかに公開されたためであるが、①の場合は教員の教育実践の最終的成功を暗示する内容になっている。
②の場合、話は逆になる。エミールは確かに教員に手紙を書いたのだが、教員に届けることを選らばなかった。教員への感謝の念も記された本書簡を届けたくはなかったのだ。けれど本書簡は公開され、読者は『ルソー全集』に収録されたものを目にすることができる。とすれば教員への感謝の念は本物ではなく、あくまで儀礼的に書いたものであるという読み方ができる。わざわざ本書簡を公開するということは、教員に届けるつもりではなく、形式的に書かれた教員への賛辞を世に示すことで結果的に家庭教師の教育実践の最終的失敗を示しているのである。エミールの復讐ともいえる。先に挙げたようにエミールが性的虐待を受けていた場合、教員への異議申し立ての意味合いがあったのだ。

補足

無論、これを矢野智司の「贈与」枠組みで説明することも可能であろう。「私」ことエミール自身が家庭教師の教育=贈与をあえて否定することで、自己の生き方を構築するという意志のあらわれを見てとることができるからだ(むしろ石原千秋の『こころ 大人になれなかった先生』の図式に近い)。

あるいは私はルソーの専門ではないのでわからないが、あまり有名でない『エミール』続編をルソーが実は公刊せず、手元に原稿として残っていたものを後世の研究者が整理して発刊したのかもしれない。その場合、積極的意図なしでエミールの書簡が公表されたという結果となる。その場合、①と②の図式が崩れてしまうことは言うまでもない。

ルパン三世の精神分析

 初期のテレビアニメ版『ルパン三世』はロールモデルがアルセーヌ・ルパン、つまり「一世」「おじいちゃん」なのである。準拠点がそうなっているからこそ、非合理にも「予告状」(時代錯誤を感じさせる)を出す。すべて祖父以上を目ざしたいのだ。
 しかし、祖父は帰るべき家でもある。アジトはあっても「自宅」のないルパン(おまけに通常の意味での平々凡々な「生活」もない)にとって、祖父という「理念」だけが寄る辺なのである。過度に女を求めるのも、過程を欲する証拠なのである。
 岸田秀的には、ルパン三世はよっぽど深刻な精神異常者なのであろう。

本を読むという、「主体」の行為

 本を読むとき、私は本の「装飾」をはぎ取る(=stripping)。本のカバー、帯(まさに裸にしているわけだ)、「愛読者カード」や新刊紹介文を投げ捨て・打ち破り・テープで本にとめている。
 いわば、食材たる本を消化可能な状態にまで下ごしらえをするわけだ。松岡正剛が本年(2010年)11月の「週刊読書人」インタビューで書いていたが、本を読むのはグルメや映画・演劇同様の行為である。後生大事に本を扱うのでなく、本をエンタテイメントとして享受可能な状態にまで変化(=メタモルフォーゼ)させる必要があるのである。
 私は本を「他者」の比喩で扱っている。他者を理解可能な形態にまで変形あるいは変化させるわけだ。これは通常、主体である「私」の変容モデルにおいて示すこともできるが、本においては「他者」自体の変容モデルでいうことができる。松岡がいうのは読書行為における「編集」作業の重要性である。本のカバーを捨てるのも、松岡のいう「編集」である。
 他者を理解可能な形態に変形させることは、「オリエンタリズム」(サイード)でもある。理解不可能な形態であったものを、「私」という主体が理解可能な状態にすることになるわけであるためだ。しかし、読書行為についてまでオリエンタリズムを敷衍させることは無理があるだろう。
 書籍はいわば「恋人」である。肝心な部分は装いに隠され、「主体」が少しずつ核心に近づいていくしかない。他者たる書物は「謎」めいた主体でもある。strippingする「楽しみ」は「恋人」にもあるし、「書籍」にもあると言えるであろう。このことを「まどろっこしい」と感じるか、「楽しい」と感じるかで、本を恋人にできるか否かが決まってくる。

子どもを子ども扱いする社会への批判。

 私は既存の教育学が子どもを「他者」として認識していない点に疑問を感じている。メーハンのIREではないが、教育的眼差しは子どもに「評価」の眼差しをおく。しかし、我々は友人に対して時間を聞いて「ありがとう」と言わず評価のみをすることは全くないはずだ。教育的関係においてのみ、子どもたちは「よくできました」と教育的眼差しで見られる。
 共同体社会の時代から共同体維持の成員育成が「教育」で行われてきたわけであるが、その教育自体の持つ「社会維持」の機能についてはあまり批判がなされていない。「子どものため」の「よい」教育であっても、子どもをまさに「子ども」扱いする。幼児段階はそれでいいが、小・中学生や高校生、はては大学生を同じ眼差しでみてもいいものなのであろうか。当然、「教える」エートスが求められるのは現在の社会(後期近代の社会である)そういった姿勢を要求するためである。
 その辺りを考察すると、教育的な眼差しをもって子どもを見ることが「気持ち悪い」と思ってくる。教育行為をどんなに奇麗な言葉で飾ったとしても、要は現在の社会の構成員になってもらいたい、あるいは構成員にさせる行為にすぎない。人々がそれに自覚的でないだけである。そのため、子どもに敬語を使ったり、逆に偉そうに振る舞う親や教員・大人たちをみると、その人々が「子どものため」と信じて行っていればあるほど、教育の共同体維持機能を無視しているように見えてしまい、「気持ち悪さ」を感じてしまうのだ。
 だからあえて私は考える。思いっきり、「大人げない」態度を子どもに行ってはどうか。無論、ピアジェ的には発達段階論で「大人げない」眼差しへの批判がアルであろう。しかし考えるべきは、我々大人は親しい関係にはまさに「大人げない」態度で関わっているのではないか。嘘をつけば、ネタとして友人を「いじる」。それはまさに汝−我関係という対等の立場に存在しているからである。しかし、子どもに対してはどんなに親しくなっても汝―我関係を成立させることはまれである。
 そんな理由から私は既存の教育学を根本から批判する脱学校論(非学校論)や半教育学が好きなのだが、あまり共感がなされないのが現状である。

フレイレ『希望の教育学』

Freire, Paulo(1992):里見実訳『希望の教育学』、太郎次郎社、2001。

 ブラジルの教育学者パウロ・フレイレ(1921-1997)。彼は対話による教育を生涯実践し続けた人物である。代表する著作は『被抑圧者の教育学』であり、晩年の著『希望の教育学』はフレイレ自身が『被抑圧者の教育学』を読み直したものとなっている。読んでいて気付くのは社会変革につながる識字教育と文化サークルでの対話の実践であり、教育と研究が2つに切り分けられることなく営まれることを提唱する内容となっている。マルクスを土台に理論を立てているのにもかかわらず、フレイレがいわゆる「マルクス主義者」から批判を受けていた理由もよくわかる。いわゆる「マルクス主義者」にとって、マルクスやレーニンの発想がアルファでありオメガである。そこには現実に存在する「民衆」の声を聞く必要性はなく、〈自分たちが民衆を引っ張って革命を導くのだ〉という傲慢な思いが表れている。フレイレの行動は人々との対話のなかにあった。それが「マルクス主義者」とフレイレの実践の大きな違いとなっている。
 本書において、フレイレは対話による学び(里見の訳では「問題化型学習」となっている)の重要性を何度も訴える。

「もし他人もまた考えるのでなければ、ほんとうに私が考えているとはいえない。端的にいえば、私は他人をとおしてしか考えることができないし、他人に向かって、そして他人なしには思考することができないのだ」(163-164)

 この対話を成立させるには、条件整備が必要である。

「教師の専横下で対話が成立しないように、自由放任主義の下でもやはり対話は成立しない。対話的な関係は、しばしばそう考えられているように、教える行為を不可能にするものではない。逆だ。それは教える行為を基礎づけ、それをより完全なものにし、また、それと関連するもう一つの行為、学ぶという行為にも刻印されることになるのだ」(164)

 本書ではフレイレとよく比較されるイリイチとの違いが明確になる箇所がある(そもそも本書冒頭の謝辞の欄には多くの人名を挙げて自らの思想形成の感謝を述べているが、そこにイリイチの名は無い。また本書においてイリイチの思想が直接に言及される箇所はなく、ただ文章の流れの中でのみ数か所イリイチの名が挙げられている)。

「どの時間と空間にも立地しない、抽象的で不可侵な観念だけをとりあつかう中立的な教育実践などというものは、かつて存在したことはなかったし、いまも存在しない」(108)

 フレイレは教育を一つの権力であると認めている。どんな教育実践にもイデオロギーが含まれている(例えば、「やる気のない授業をする」と認識される教員は、「学校で一生懸命やるなんて馬鹿げている」というイデオロギーを提示することになる)。フレイレに対して多く寄せられた批判である「教育実践は中立的であるべきだ」との意見に応えたものとなっている。

「基本的にいえば、ぼくにたいしてなされるこの種の批判は、意識化という概念にたいする誤解と、教育実践にたいするあまりにも甘いビジョンに由来するものだ。それは教育実践をあたかも中立たりうるもの、人類の福祉への貢献とみなすばかりで、危険をおかすことなしには実践しえないという点にこそ、教育実践のとりえがあるということが、まるで見えていないのだ」(108)

 イリイチも、教育は権力であると認識する(山本哲士はさらに進んで、教育は政治であると指摘する。『教育の政治 子どもの国家』を参照のこと)。違うのはその認識後のふるまいである。教育は権力だ。そのため教育というものは放棄しなければならない、といったのがイリイチである。一方、フレイレは〈教育は権力性を逃れられない。だからこそその権力性を自覚したうえで人々の解放につながる教育実践をすべきだ〉と主張したのである(この対立が明確に表れているのが『対話 教育を超えて』である)。