私は旅に出るんです、

だからおねがい、カバンを買って。
四角く硬いトランクで
上に座って良いものを。
夢と期待を閉じ込めて
列車に乗って出かけたい。
片道キップをポケットに
陽の出るほうへと一人旅。

「学校にまにあわない」の恐怖。

前にも書いたが、私はいまひたすら「たま」というアーティストの音楽を聴き続けている。脱学校論者である私(「素人が、簡単に自分のことを『〜〜論者』と名乗るな」、と言われそうだが、自分で言わないと誰もそう認識してくれないので初めからそのように言う)に、有益なヒントをもたらしてくれる。そのうち、「たま」の音楽を評論することで脱学校論について整理する論文も書けるのでないか、と思う。




 

 「たま」の音楽をi-podに入れて、どこでも聴く。イヤな場所に行くのも、少し気が楽になる。「引き出しの中に広がった/三千世界の彼方まで/翼をゆらゆらバタつかせ/いますぐ着陸態勢に入るよ」(「はこにわ」)という歌を「たま」は歌うが、i-podの中にも「三千世界」が広まっているように感じるのだ。
 さて。今回は「学校にまにあわない」を例に取り上げよう。前半部には幻想的風景が、後半には「学校にまにあわない!」と叫ぶ主人公の恐怖が描かれる。冒頭は、次の詩で始まる。
百万階建ての
ビルディングの建設
階段だけしかない
それだけの為の建物
 「百万階建て」なのに「階段だけ」しかないビル。上に行くことが目的だが、それには有益性が何もない。このビルを学歴と捉えればまさにその通り。
 イリッチは「学校化」ということを述べた。学歴自体には何の意味もないのに、「能力がある」ことにされる。私の周りに「早稲田大学卒」という学歴を持つ人が多くいるが、皆すごく能力があるかというと決してそうではない。でも世間は「早大卒」という学歴には「高能力」という意味があると勘違いをする。
ある日足場踏み外して
そのままの姿勢で堕ちて行く
 学歴ビルの階段を、すべての人が上に登れるわけでない。ほとんどの人は途中で「足場踏み外して/そのままの姿勢で堕ちて行く」のである。学校秀才とされる人も、いつ「足場踏み外して」しまうかもしれないという恐怖を持っている。その恐怖が「頑張らないと!」という思いになり、さらに階段を上って行くことにつながる。そのことにより鬱になり、結局「足場踏み外」すこともあるのだが。
 学校のもつ恐ろしさ/恐怖を示すこの歌。けれど、直後に「脱学校」的希望が描かれている。「足場踏み外」す恐怖のあと、このように歌詞は続く。
でも下には網が張ってあって
僕はうまいことフィニッシュを決めるのさ
満場のお客様が
いっせいに拍手 拍手
 「足場踏み外」しても、あんがい「下には網が張ってあ」るものなのだ。大事なのはその際に「フィニッシュを決める」ことができるか、どうか。学校的価値観から脱落しても(脱落する道を選択しても)、それだけで人生に失敗することにはならない。学歴ビルの階段を上る時は「堕ちていく」ことは恐怖だが、堕ちてみると「下には網が張ってあ」ることに気付けるものだ。脱学校的価値観で生きて行く道を選択することが、「フィニッシュを決める」ことだろう。
 けれど。この歌の作者は「網が張ってあ」るだけで安心をさせてはくれない。「フィニッシュを決め」た後の、続きの歌詞を見よう。
でもひとりだけ
後ろをむいている男がいるぞ
こいつ前にまわってのぞきこんでやれ
あ なんだ僕のお父さんじゃないか
 脱学校的価値観で生きることを決めた私。周りも、けっこう肯定してくれる。「満場のお客様が/いっせいに拍手 拍手」なのだ。けれど、保護者は最後まで肯定してくれないことがある。親と子どもの価値観は、常に一致するわけではない。
 『学校の悲しみ』というエッセイがある。著者ダニエル・ペナックはものすごい「劣等生」だった。母親は子どもの将来に絶望をした。こんなに成績の悪い息子は、ろくな大人にならないのじゃないか。不安、心配。ペナックが教員になり、また作家として新聞に名が出るようになっても、母の不安は無くならなかった。

どんな「成功の証明」を見せても、母の心配がなくなることはなかった。ぼくがどんなに電話をかけても、どんなに手紙を書いても、母に何度会いに行っても、ぼくの本が出版されても、書評を見せても、ポヴォーの番組(石田注 脚注を見ると、フランスの書評テレビ番組であると出ている)に出ても、だめだった。(……)もちろん、母はぼくの成功を喜び、友人たちとそれを話題にし、息子の成功を知ることなく亡くなった父が生きていたらどれほど喜んだことかと言ってはいた。しかし、心の奥のどこかに不安が残っていた。そしてそれは、もともとの劣等生によって生み出された永久に消えることのない不安だった。(6〜7頁)

 親にとって、学校的価値を外れた存在に一度でも子どもがなってしまうと、子どもの将来を悲観してしまう。あるがままの存在として、子どもと向き合うことができなくなってしまう。「後ろをむいて」しまうのだ。
 おまけに皆がみな、「網が張ってあ」る上に堕ちるわけではない。
倒れたラクダの
目玉だけが生きててギョロリと僕を見ている
みないようにみないようにしているのだけど
どうしても見てしまう
 「ラクダ」君は、ビルから堕ちてそのまま地面に叩き付けられてしまったのだろう。学歴ビルから堕ちて、「網」にも乗ることができなかった人間は、「目玉だけが生きててギョロリ」と社会を見つめる。けれど、もの言えぬ「ラクダ」ゆえ、彼ら(彼女ら)の声は社会に響かない。私の周りにもいる。「学校的価値」のもとに生きてきたが、結局そんなものに意味がなかったことに絶望をする人。「就活が決まらないなんて、何のために早稲田に入ったんだ、俺は!」と嘆く人。残念ながら学歴ビルはそこから堕ちて「倒れたラクダ」になる人の存在を見越して設計してあるのだよ。どこかでそのことに気づき、「網」の上に乗り、「フィニッシュを決め」ないと、制度設計者の思うままになってしまう。




 「学校にまにあわない」のラストは、あえて(か分からないが、おそらく)カタカナで書かれている。読みにくいので、原文の下に漢字仮名まじり文でも示す。
ミタナ ボクノ オモイデ
キミハ キョウ カワニ ドブント オチルヨ
ボクハ クサノシゲミデ キョウカショヲ サガシテ
キョウカショガ ミツカラナイ
ガッコウニ マニアワナイ
ノートモ ドッカ イッチャッタ
センセ ニ オコラレル
見たな 僕の 思い出
君は 今日 川に どぶんと 堕ちるよ
僕は 草の茂みで 教科書を 探して
教科書が 見つからない
学校に まにあわない
ノートも どっか いっちゃった
先生に 怒られる…
 学校に行きたくないから、河原で道草。そのままお昼寝でもしたのだろうか。天高く太陽が昇っている。やばい、学校に行かなきゃ! でも、カバンを置いていたら中の荷物が散乱しちゃっている。どうでもいい教材はすぐ見つかった。でも重要科目の教科書がない。ノートも見つからない。行ったところで、「なんで教科書を忘れたんだ」と先生に怒られてしまう。
 「学校にまにあわない」。それは学校に行きたくないのに、無理して行かなければならない子どもの悲しみを描いた歌なのだ。私にも、こんな感覚があった(でも、何故か皆勤賞だった)。学校が持つ「恐ろしさ」を次第に忘れてしまっていたが、「たま」のお陰で思い出してきたのである。
 この、学校への原初的恐怖感が描かれたラストシーン。忘れることの出来ない風景である。
※なお、歌詞は『たま セレクション』の歌詞カードから引用した。歌詞カードには載っていない、ボーカルの石川さんのモノローグがこのラストシーンのあとに延々と続く。こちらも「学校への恐怖」が力強く表現されたものなのだが、別の機会に書くことにしよう。
 たまの歌は少し明るい。ゆえに歌詞のもつ暗さが見えにくくなる。そこに注意すべきだ。明るく楽しい歌の中で、人間のもつ本源的孤独を示していることがある。
参考文献

ダニエル・ペナック著/水林章 訳『学校の悲しみ』みすず書房、2009

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叙情詩・缶バッヂ

「何かしなきゃ」と思うのに
何にも出来ない 我が心
如何とせんと 思えども
どうにもならない 心持ち

トードバックに 付けたりし
岡本太郎の 缶バッヂ
我をみつめる その文字は
なぜか私を なぐさめる
「才能なんて なくていい」
そういう彼の 声を聞く

ともあれ私は 自転車に
またがってまた 坂をゆく
それが私に できること
ペダル漕ぎつつ 汗をかく。