自己洞察

アランとO先生

先週の日曜の夜からずっと、ボランティア先の高校寮に泊まりっぱなし。今週の水曜まで。入寮式の準備、入学式の準備、入学式着任などなど。盛りだくさんな内容で非常に価値的であった。新入寮生の息吹にも触れられたし。けれど、いささか疲れた。昨日も今日も、体が重い。

疲れたときに、人生の大問題を考えてはならない(自分は誰を人生の師匠とするか、など)。「自分がいかに不幸か」考えてもいけない。それよりもアラン流に伸びをしたり、あくびをしたりしたほうが価値的である(あれ、こんな記述、前にも書いたぞ。ちなみこれです)。今くらい疲れているなら、いっそのこと寝てしまうほうがいい。

昨日のO先生の道徳教育論に、非常な感銘を受けた。先生はアランを基にして、道徳教育は一体何のために行うのか、を力説された。
「本物の不幸ではなく、偽物の不幸から開放されるための方法が道徳であり教育である」(補足 偽物の不幸とは、不注意や突発的な感情の結果もたらされる失敗のこと。カッとなって人を殺してしまった、など、不注意による不幸は数多い)
「道徳は不注意をしないためのものである」
「自分が不幸を感じる原因を自分で解決できるのが大事である」
冒頭に書いた内容と、昨日の授業とがリンクしている。疲れたときには人は冷静な判断はできない。また生命力も落ちているので、マイナスにしか物事を考えられない。そんな状況では何も考えず、別の仕事をするか、寝てしまうかしたほうがいい。疲れたときに「自分は不幸だ」と考え始めると、〈偽物の不幸〉にとらわれてしまう。O先生も引用されたアランの『幸福論』には〈幸福になると決意することが大切だ。不幸になる考えはすべて誤った考え方だ〉という内容も書かれている。さっさと今日は寝よう。
それにしても「授業に出ると触発を受けるものだなあ」、と感じる。
同じ内容を本で読んだとしても、教員の話す「いきいきさ」「息吹」は伝わらない。書籍では知識しか身につかないのだ。

追記
●内田樹はこういっている。

人間は他人の言うことはそんなに軽々には信じないくせに、「自分がいったん口にした話」はどれほど不合理でも信じようと努力する不思議な生き物だからです。ほんとですよ。(『狼少年のパラドクス』81頁)

うーむ、アランやO先生につながる考え方だ。

〈よろしくお願いします〉禁止令

「よろしくお願いします」

今日、私は30回以上はこのセリフを聞いた(気がする)。東京にいる現代人は「よろしくお願いします」を頻発する(気がする。「東京にいる現代人」限定なのは、私が東京に住み・東京の大学に通っているためであり、私が基本的には日本語しか聞いて理解できないからだ)。
ゼミのO先生に「〈よろしくお願いします〉と言わないようにしよう。そうすると自分で考えるようになる」と今日教えていただいた。その際に改めて「あ、俺、けっこうこのフレーズを使っていたな」と実感した。それにしてもO先生は常に〈自分で考える〉ための素材を提供してくださる。ありがたいことだ。

では現代人は〈よろしくお願いします〉にどのような意味を与えているのか。検証してみよう。

⑴「今後、ぜひお付き合いをしていってください」というポーズを示すときに使う。自己紹介の時などに使用される。実際には〈よろしくお願いします〉と言われても(言っても)、まったく付き合いが無いことがある。
例:「新入社員の石田です。よろしくお願いします」

⑵相手に何かを頼む。特に本来ならば依頼できない以上のことを頼むときに使う。選挙時によく聞くフレーズ。
例:「いしだ、いしだはじめに、皆様の清き一票をよろしく、よろしくお願いします」

⑶間を持たせるときに言う一言。
例:「えっと、まあ(セリフを考える)、よろしくお願いします」

⑷仕事を忘れていた相手・ミスをした相手に、「こっちは怒っているんだ」と伝えるときにいう。注意を促す際に使用する。
例:「えっ、あの仕事、まだできてないの? よろしくお願いしますよ」

うーむ、何とも偽善臭いぞ。振り返ってみると、私もよく「よろしくお願いします」を使っている。正の字でカウントすると、正が一日で9つは書けるかもしれない。偽善臭い言葉をしょっちゅう使っている自分に反省。

…この一見、非生産的なことがらをブログに書いているのは何のためか。無論、暇つぶしではない(たとえそう見えたとしても)。小笠原喜康(おがさわら・ひろやす)は卒論執筆のテクニックとして【「九」勉強して「一」考えるのではなく、「一」勉強して「九」考えよ】(『大学生のためのレポート・論文術』講談社現代新書、2002、p147)と語る。自分の頭/手/足で考えるために時間を捻出して書いているのである(希望も含めて)。

山のあなたの空遠く 「幸(さいわい)」住むと人のいう (カール=ブッセ)

どこか遠くに幸せがある。どこか遠くに自分のことを本当に理解してくれる親友がいる。

そんなわけはない。密かに期待している自分に対し、戒めの為にここに書いておく。

今いる場所でないところに幸福があるか、どうか。実際にあちこちに行ってみなければ分からない。手間も暇もお金もかかる。そんなカンタンに移動できないからこそ、人は夢を見てしまう。そして現状の慰めとして、〈遠くにある/いる幸せ〉ユートピアを設けるのだろう。もし仮にユートピアがあったとしても、そこに行き着かない可能性も考えなければならない(砂漠ではオアシスの幻が見えます。ユートピア=オアシスに向かっていても、それが蜃気楼だったら悲しすぎますね)。ユートピアの存在を信じるのはリスクが大きい。

どこか遠くに幸せはない。どこか遠くに親友がいるわけではない。だからこそ、今いる人間関係をよくしていくしかない。

幸せの青い鳥は、あんがい身近にしかいない。今までの自分は近くにいた「青っぽい鳥」をカゴからわざわざ逃がしていたのではないか。洗ってあげていれば青くなったのかもしれないのに。

どこか遠くに幸せがあると考えることにリスクがある以上、今いる現実で満足するしかない。つまり、いまの現実を楽しむしかないのだ。現実を否定して「俺は不幸だ」と考えるのは、頭のいいやり方ではない(オアシスの蜃気楼をみることになる)。

アランは「悲観主義は感情によるものだが、楽観主義は意思によるものである」と語る。意識的に楽観主義で現状を楽しむことが大切なのだ。

内田樹は‘幸せになるには開放系をとるしかない’と書いた(『疲れすぎて眠れない夜のために』)。現状の人間関係を否定せず、楽しめる方法を考えていくことが、現代の「幸せになる方法」なのかもしれない。

自分の言葉

自分の中で哲学を発見しながら、生きている。他者の本を読んで得たものも、自分の中で熟し、自分の言葉で表現できるようにならなければ本当に自分のものになったとは言えないのではないだろうか。

ショーペンハウアーも〈本を読みすぎると、自分で考えなくなる〉危険性を語る。

自分の言葉で表せなければ、借り物の知識にすぎない。

このブログの中に、こうした自分なりの哲学が多少なりとも入っている。雑文ではなく、こうした哲学的考察の記述を多くしていきたい。

まあ、内田樹にいわせてしまえば〈100%オリジナルな言葉など存在しない〉ことになってしまうのであるが。

石田一とは誰だ?

石田一というペンネームを用いて、私はずっとブログを書いてきた。私が「石田一」を名乗るわけであるから、「石田一」イコール「私」であるはず。けれど、読み直すとブログにいるのは「私」ではなく「過去の私」しかいないことに気づく。「あれ、俺こんなこと書いたっけ?」。ずっと昔の記述とほぼ同様のものが書かれていることがあるのはそのためだ。「過去の私」の別名が石田一である。

内田樹(本当によくこのブログに最近登場するなあ)はこう言う。自身のブログ〈内田樹の研究室〉の著者は「ヴァーチャル内田」である、と。「ヴァ―チャル内田」はホンモノの内田樹よりも人間性の高い人物である、という。

このブログを書いている瞬間の「私」はまぎれもなく「私」である。この時において石田一は「私」をさすのだ。けれど、ブログに投稿後、ネット画面を確認して読んでいるとき、もはやその文章は「石田一」の文責となる。一瞬間後の「私」は「石田一」にほかならず、「私」ではないのだ。

私がこのブログを読むとき(特に2年ほど前の記述を)、石田一という人物と対話をしている感覚になる。

今日は、やけにややこしいことを書いてしまった。今から明日のゼミのレジュメを作らないといけないため、気晴らしに書いていた。これも「石田一」が書いたのであって、現実世界の「私」が書いたわけではない(責任逃れ)。

追記
調べてみれば、さっそく見つかりました。「俺オリジナル」と思っていた発想が、実は誰かの発想をそのまま口にしていた、というケースが。https://nomad-edu.net/?p=501

4月2日の投稿より。

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 本日読了。相変わらず内田は面白い。 

レヴィナス老師は「時間とは私の他者との関係そのものである」と書いた。
 時間 のうちで、私は絶えず私自身ではなくなり、他者も別のものとなってゆく。私は他者といつか出会えるかもしれないし、出会えないかも知らない。私は他者に 会ったことがあるのかも知れないけれど、今のところそれを思い出すことができない。時間とは、端的に言えば、この過去と未来に拡がる未決性のことである。 私の現在の無能がそのまま底知れない可能性に転じる開放性のことである。(pp25~26)

問題は「意味」なのである。
「意味がわからないことは、やらない」
 これが私たちの時代の「合理的に思考する人」の病像である。
 ニートというのは、多くの人が考えているのとは逆に「合理的に(あまりに合理的に)思考する人たち」なのである。(p31)

 

 

一匹狼に憧れて。

ジェームス=ボンドやゴルゴ13等、名だたるプロは常に一匹狼。ポアロもホームズも、基本的には日常は孤独である。その方が逆にプラスになっている。情報が漏れることもなければ、仲間割れもない。情報を共有する必要がないのでスピーディである。

彼らの姿がフィクションであることはわかっている。けれど、〈孤独でいる方が多くを成し遂げられるのではないか〉と思ってしまう。現実に幾つかの団体・集まりで〈集団のしがらみ〉を実感している分、よけいにそう感じる。

大学に行く前から「将来、必ず独立したい」という思いがあった。仕事が何であるかを決める前から、すでに感じていた。そのためか、〈集団のしがらみ〉を感じるたびに一匹狼に憧れてしまう。

〈孤独でいる方が多くを成し遂げられるのではないか〉との仮説。これは私が、「もしそうだったらいいな」と思っているだけなのか。もしそうなら、〈人間は見たいものだけを見る〉という構造主義の知見の正しさが証明されることとなる。

追記。
そういえば北杜夫の『どくとるマンボウ青春期』では〈成熟した人間には孤独こそが望ましい〉とあった。

さらに追記(09年7月26日未明)。
 いまの私はやたら「相棒」や「パートナー」を無意識的に探すことが多くなった。一人では何も成せない、けれど支えあえる「仲間」がいれば大事業を成すことも不可能ではないのではないか。こう考えるようになった。
 一匹狼を貫くことはキツい。精神的に強い者でなければ挫折を被る。けれど、「相棒」がいた場合は話は別だ。支えあえる。またアイデアを共有できる。それで成功したのが藤子不二雄だ。漫才師も結局は「二人」だからこそ笑いを生み出すことができる。
 一匹狼に憧れる自分ではあるが、それを「承認」してくれる「仲間」がなければ戦い続けることは困難であると自覚するようになった。
 自分一人に自己完結せず、自らの思いを他者に語ることが重要なのだ(傷つくことを恐れずに)。

我慢しないこと。内田樹とフリースクール。

内田樹は「ぼく自身はぜんぜん『我慢』というものをしない人間です」(角川文庫『疲れすぎて眠れぬ夜のために』p31)という。そのため高校を中退して家を飛び出し、受験失敗後には再び家で大検の勉強をし、そのまま大学の寮に移り住んだ。

内田同様、フリースクール関係者も「我慢をしないこと」を重視する。

どのような不登校の始まりでも、
「ゆっくり休む」「学校は行こうとしない」
これがあなたを一番楽にします。

これは東京シューレのwebにある言葉である。ちなみにアドレスは、https://www.shure.or.jp/futoko/iroiro/page4.htm

現代人は「我慢をすること」「忍耐すること」を重視する。
内田はそれに対し批判的だ。先の本から引用する。

今の自分の状態が分からなくなって、身体が悲鳴をあげていても、それに耳を傾けずに、わずかばかりの欲望の実現のためには耐えきれないほどの負荷を自分の身体にかけることのできる人間は、「私」が極端に縮んでいるという意味では「むかつく若者」のお仲間です。(p18)

続けて内田は、最近の家庭での教育の仕方が「ある条件をクリアーできたら(きちんと排便ができたら、言葉が話せたら、勉強ができたら、**大学に受かったら・・・)、お前を子どもとして承認する、その条件を満たせないようなものは私の子どもとしては承認しない」(p18)ものになっていないか、と問題提起をする。結果的に、無条件に自己を肯定するということが置きづらくなる。

引用を続ける。

繰り返し言うように、人間が使える心身の資源は「有限」です。限度を超えて使用すると、必ずシステム全体に影響が出て、一番弱いところから切れてきます。
「不愉快な人間関係に耐える」というのは、人間が受ける精神的ダメージの中でももっとも破壊的なものの一つです。できるだけすみやかにそのような関係からは逃れることが必須です。(p24)

よく考えると、いじめられるのが分かっていながら〈がんばって〉登校してしまう小中学生もそうだ。不登校を〈悪いことだ〉と思ってしまい、「不愉快な人間関係に耐え」てしまう。結果、心身の限界が来て引きこもったり、鬱になってしまう。

内田の文章からの2つの引用をした。ここで述べられていることは、不登校の子どものメンタリティーとも符合するのではないか。

追記。
…それにしても、日々思うことや考えたこと・発見したこと・学んでいたことをテーマに分けてブログに書いていく。そうするだけで自然と卒論が完成していくような気がしてきた(そうだといいな、という願望とともに)。

さらに追記(09年7月26日未明)。
 内田樹にハマったころのこの文章。いま私は宮台に夢中である。宮台の著書『14歳からの社会学』にも、本稿にある「承認」論が描かれている。
 内田の文章から「ある条件をクリアーできたら(きちんと排便ができたら、言葉が話せたら、勉強ができたら、**大学に受かったら・・・)、お前を子どもとして承認する、その条件を満たせないようなものは私の子どもとしては承認しない」という部分を本稿で引用していた。内田のいう無条件の承認が行われていた時代は過去のものとなった。それを受ける形で、宮台は〈どうすれば承認されるようになるか〉を示している。
 宮台は『14歳からの〜』中で「試行錯誤」を行うことが必要、と語る。
《他者たちを前にした「試行錯誤」で少しずつ得た「承認」が、「尊厳」つまり「自分はOK」の感覚をあたえてくれる》(32頁)
 これは面倒くさいことだ。けれどこれをせずに歳をとってしまうと、「死んだときに誰も悲しんでくれる人がいない」という悲劇を味わうこととなる。「承認」され「尊厳」を得る努力を怠ると、不幸になってしまうのだ。
 それゆえ宮台は〈幸せになりたいなら、勉強だけしていればいいわけじゃない〉と本書で伝えているのだ。もはや勉強だけ出来れば幸せになれる時代は終わったのだ。
 『14歳からの〜』を読み、私の物の見方が180度変わった。パラダイム転換とでも呼ぶべきか。大学でろくに勉強をしない人間を無意識下でバカにしていた自分の方が、実はバカであったことに気づいたのだ。勉強をしていると、いまの社会では褒められ、評価される。けれど、その評価は未来に渡ってのものではない。現体制で褒められる言動が、これからの社会でも同じ評価を受けるわけではないのだ。いまの社会では勉強だけすることに評価が与えられる。けれど宮台のいう新たな社会では、勉強よりも他者から「承認」される能力・技術が必要となる。「大学でろくに勉強をしない人間」は、実は来るべき社会の「勝者」となる可能性を秘めているかもしれないのだ。「パラダイム転換」と私が言ったのはこの点だ。
 勉強だけやるのはもうやめよう。寺山修司ではないが、『書を捨てよ町へ出よう』だ。

内田樹に読んで、読まれて。

「この人しかいない!」
そんな作家に出会ったとき、私はその人の書を貪り読む。自分にとっての「バーチャル師」(内田樹ならこういいますね)を見つけたときである。

見つけたならば、ほぼ毎日のようにその人の本を読みあさる。そのうちに、「同じことを何度も言うのだな」と感じてくる。おそらく、私の脳内に「バーチャル師」が居座り始めるのだろう。

齋藤孝に始まり、野口悠紀夫(以上、大学2年生まで)・灰谷健次郎(大学3年生まで。しかし灰谷の本はかなり読んだものだ)・そして内田樹(現在進行形)に行き着いた。

内田との出会いは『寝ながら学べる構造主義』。あざやかな説明に感銘し、自分も文章を書いた(『高校生と語るポストモダン』)。ほとんど内田の受け売りに終った観もある。

私はさきほど『子どもは判ってくれない』(文集文庫)を読み終えた。いささかの衒学趣味(やたらにカタカナ言葉を使うのは、内田の嫌う石原都知事と同じニオイを感じてしまう)を我慢しながらではあるが。

この本からのメッセージは要言すれば次の二つの命題に帰しうるであろう。
一つは、「話を複雑なままにしておく方が、話を簡単にするより『話が早い』(ことがある)」。
いま一つは、「何かが『分かった』と誤認することによってもたらされる災禍は、何かが『分からない』と正直に申告することによってもたらされる災禍より有害である(ことが多いい)」。(pp329~330)

ちなみに、私の所蔵する内田作品は下の通りである。市場に出てるくらいは全て読んでしまいたいと思う。内田の文章は彼のブログ『内田樹の研究室』に死ぬほど書かれているのだ。市場に出ていない彼の文章すらある。

『寝ながら学べる構造主義』(三読)
『先生はえらい』(二読)
『街場の教育論』(二読)
『大人は愉しい』(一読)
『子どもは判ってくれない』(一読)
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(一読)
『知に働けば蔵が建つ』(一読)
『私の身体は頭がいい』(挑戦中)
『狼少年のパラドクス』(一読)
『こんな日本でよかったね』(一読)
『下流思考』(一読)

追記
●このブログのようにやたら( )でツッコミを入れるのも、内田樹が書籍でやっていることの受け売りである。
●『街場の教育論』を手に取ったのは『R25』に内田のインタビューが掲載されていたからだ。そこから、次々と内田「先生」の本を読むようになっていたのである。
●そのうち、内田樹論を書こう。「師弟論」の観点から。

雑念集

●一日中/学問やって/過ごしたい/家に行けども/お留守のときは

●人間一人の小さな動きが、歴史を作っているのではないか。ちょうど、トインビーの「水底の小さな動き」のように。

●ジョセフ・ナイの言葉「リーダーは天性の資質だけで深まるのではなく、主としてつくられるものであり、リーダー・シップは学習可能である」

●一人で演劇にいくと寂しい。自分が舞台に立ちたくなるからだ。それは一体何故だろう?

●演劇は常に暗闇になるところから始まる。

●劇場の広大な空間に一人座っている小宇宙としての「私」。

●「学校に感じる気持ち悪さは何だろうか」。私がフリースクールを大学院で研究したい理由。

●小林秀雄の『考えるヒント』に、〈書く前に内容を考えるのではなく、書きながら考える〉とあった。ブログを書く身として共感した。

●メガネをつけると、まるで写真のように夜景が見える。

●「どうして〜何だと思う?」と、相手の発言から相手の本当の弱点を気づかせていくという対話法があることをYさんとの会話で実感した。

悪について

他人の真心/思いを感じられないこと。これは悪だ。

今日、後輩のG君の合唱祭にいった。不覚にも泣いてしまった。

G君の合唱祭への意気込みについては、何度も何度も聞いていた。会うたびに彼はそのことを私に語ってくれたのである。

「来てくれた人を、必ず皆元気にします」

彼はそう決意していた。

今回、このG君の思いを私が聞いていたからこそ、このように感動を受けたのであろうと思う。けれど、仮に私が一流の人間であるならば、G君の話を聞かずとも感動できたのかもしれない。

私の考える一流の人間とは、「他者への想像力をもてる人」である。

自分が見ていないところで、他者は何を考えているのか。何をしているのか。これについて想像できるということだ。

追記

私は劇場でアンケートを求められると何故かしら酷評してしまう癖がある。

「こんな歌、人に聞かせるな」とか、「途中で寝てしまいました」とか。

意味なく酷評するのは悪に通ずる。