自己洞察

『大人のいない国』(内田樹と鷲田清一の共著)

 好きな作家の本をある程度読んだ後、ブームが去り、その作家の本を全く読まない時期がある。そんなとき、その作家の本を久々に読んだとき、不思議な感情が芽生えることがある。

 その作家の言葉が、脳内からあふれ出してくる。その作家の思考の枠組みが、頭の中によみがえってくる。
 同一著者の本を読みためておくと、未来にその著者の本を再び読んだとき、一気に著者の思考を思い出すのである。
 若いときに好きな作家を見つけ、読みこんでおくことのメリットであろうか。
 久々に内田樹の本を読みながら、このことに気づいた。
 
 以下は、『大人のいない国』(内田樹と鷲田清一の共著)の抜粋である。
●「実学」中心に教育を再編するということは、要するに学校内外の価値観を平準化するということである。(111頁、内田)
→宮台真司のいう「学校化」の、別の表現の仕方である。宮台は〈学校的価値が社会全般に吹き出すこと〉という定義で「学校化」を語った。これは要するに「学校内外の価値観」が「平準化」するということである。
●言論の自由が問題になるときには、まずその発信者に受信者の知性や倫理性に対する敬意が十分に含まれているかどうかが問われなければならない。というのは、受信者に対する敬意がなければ言論の自由にはもう存在する意味がないからである。(83頁、内田)
●教育の目的は信じられているように、子どもを邪悪なものから守るために成熟させることにあるのではない。子どもが世界にとって邪悪なものとならないように成熟を強いることに存するのである。少なくとも、私たちの遠い祖先はそう考えた。(107頁、内田)
→灰谷健次郎的「子どもに学ぶ」姿勢の両義性である。

これからの時代とヴァルネラブル

 『ボランティア もう一つの情報社会』(金子郁容著)という岩波新書がある。結末部分に、ボランティアに関わる人間について、「ヴァルネラブル」という言葉で説明をする箇所がある。

 ヴァルネラブル。英語で書くとvulnerable。「傷つきやすさ」「弱々しさ」を意味する。ボランティアに関わる者は「そんなことをして、一体なんになるの?」「所詮、自分のためでしょ?」という冷たい視線にさらされる。〈にもかかわらず〉、行動し続けられるかどうかが、ボランティアには求められるのだ。周囲から必ずしも評価されるとは限らない。ヴァルネラブルだ。けれど、行動し続けることがボランティアには欠かせない。

 金子郁容のメッセージは、私の生き方にも繋がってくる。来年、大学院に進学する私。研究者を目指している。おそらく、修士課程1年目はフリースクールのボランティアとアルバイトをして生活することとなる。それ以降も、どこかの高校の非常勤講師をしながら自分の研究を進めることとなる。大学に定職を得ても、現場の学校を知るために非常勤講師をやり続けたいと思っている。
 この生き方を選択した場合、私はどこにいっても「はみ出し者」となる。ボランティアでフリースクールへいくと、毎日来ているスタッフと子どもが存在する。そのフリースクールの「常識」を自分だけはいつまでたっても知ることができないかもしれない。ヴァルネラブルだ。
 高校の非常勤講師。クラスを持っていもいなければ、学校集団に馴染みきることもない。ヴァルネラブル。
 大学院に行くということは、まわりのクラスメイトが社会で働いているのを横で眺めつつ、他者には評価されにくい研究をやり続けるということだ。「俺は、一体何をしてるんだろう。社会に出たほうがよっぽどいいんじゃないか」。ヴァルネラブルである。
 私はおそらく、しばらくの間は特定の集団に帰属し、フルタイムで行動するということはないはずだ。曜日ごと、あるいは時間ごとに参加する集団が変わってくる。どこにも落ち着けないということで、弱々しい気持ちになる。「俺はこれでいいのだろうか?」と。
 自分で選んだ道である。この生き方はヴァルネラブルであると自覚して、「わが道を行く」決意で日々進んでいくしかない。支えになるのは自らの哲学と信念である。
 考えれば、共同体が生きていたころは、ヴァルネラブルな生き方をする人間はあまりいなかったであろう。「こう生きればいいんだ」という大きな物語が生きていたために、自らを「弱々しい」立場に落とす必要性は必ずしもなかったのだ。
 今の時代に、特定の集団(会社、公務員など)に属さずに生きる人々は多くいる。その人たちはフリーターと呼ばれたり、ボランティアと呼ばれたり、大学院生と呼ばれたりする。「あえて」特定の集団に属さない生き方をする際は、ヴァルネラブルな存在であることを自覚して、生きることが必要となるような気がしてならない。
追記
●湯川秀樹は、京大のいろんな研究会に参加しまくった、という経歴を持つ。文学など、専門外のところにいき、頓珍漢な発言をするということで有名人だったのだ。ノーベル賞学者の隠された一面である。
 なぜ湯川は自分の専門外の箇所に顔を出しまくったのだろう? ヴァルネラブルな生き方を実践していたのかもしれないと私は思う。
 昨日、フラッと前を通ったことをきっかけに「海洋酸性化」についてのシンポジウムに参加してきた。まわりは理系研究者ばかりのようだ。文系の学部生など、ほとんどいない。発言内容も、化学式が登場しよくわからない。まさにヴァルネラブルな状況だった。けれど、その状況に耐えていると、少しずつだが海洋酸性化という問題について理解できるようになった。
 湯川にとっても、専門外の場所に出るのは私と同じ発想に基づいていたのではないかと思うのである。あえて自分が弱々しくならざるを得ない場所(専門外の研究会)に参加するという態度。ヴァルネラブルを恐れない姿だ。この姿勢を貫いたために、日本人初のノーベル賞受賞に繋がったのではないかと思うのである。
再記
●考えてみれば、不登校という選択もヴァルネラブルな生き方であるように思う。あえてメインストリームを外れるという選択。そしてその選択に伴うデメリットでさえも気にせずに乗り越えていく姿(高検に受かって有名大学に行く人もいる)は、いま私の持っている閉塞感を払拭してくれるのだ。

集団の健全性は、内部批判者への対応によって決まる。

 昨日、サークルの話し合いに参加。議題は、11月8日の早稲田祭企画について。企画の方向性や意義、今後のスケジュール等など。大体2時間半かかった。これから毎週続く。いつ故郷に帰るべきか、毎年タイミングを計るのが難しい。
 本サークルの特徴は、方向性を定める3〜4年生の「首脳」メンバーが、時を追うごとに減っていくという点だ。十数人から始まり、いまはヒトケタ。「次は自分がいなくなるかも…」との不安を、今でも持っているのが私である。

 そのサークル内では「来ないメンバーを何とか来れるようにしよう」という声が強い。以前の私はその声に同調する側だった。けれど、最近は疑問を感じている。無理にサークルに来させることに、いかほどの価値があるのか? 周りの「首脳」は来れなくなったメンバーが戻って来て、「僕が悪かった。ごめん」というシナリオを描いているようである。
 
 あれ、こんな構造、何かに似てるぞ? そうだ、学校組織だ。
 『学校が自由になる日』の内藤朝雄の文章を思い出す。日本の学校共同体の中では いじめられた側が「私が悪かった。性格を直すから、仲良くして」とすりよるため、陰惨な いじめが行われることがあるという。
 いじめられているなら、学校という集団に来ないという「不登校」という選択肢もある。けれど、日本の子どもたちは虐められるのが分かっていながら、学校に行ってしまう。「学校に行かないのは悪いことだ」と素直に信じている者も多い。 
 不登校は社会の健全性のバロメーターではないか。そんなふうに思う。いじめという「人権侵害」のある集団に、「NO!」を突きつける個人がいるかどうかが重要なのだ。理不尽な苛めがあっても、誰も不登校という選択肢を選ばない。そんな集団は個人に際限のない人権侵害を行ってしまう、「腐った」組織である。不登校を選んだ子どもがいるという事実が、集団から逃れるという選択肢の存在を、集団内メンバーに自覚させることになる。
 不登校は悪いことではない。不登校の存在が「不登校という道がある」と他の構成員に示すことになるからだ。

 不登校同様に、サークルに来れなくなったメンバーの存在を認められる集団は、「健全である」という評価をすることができるのではないか。皆が一律に同じ行動をする。そんなことは不可能だ。集団の力は個人よりも大きい。故に、しばしば集団は個人に人権侵害を行う。人権侵害が存在していても、「集団に参加し続けないといけない」と思うことが、さらなる侵害を招く。いじめの構造だ。

 集団の力は、個人よりも強い。そんな中、不登校という存在は「集団から出ることは可能なのだ」という、強いメッセージを他の集団内メンバーに示すことができる。

 学問の世界では、論文の評価は〈批判が来るかどうか〉で決まる。よい論文には、必ず反論がある。反論・批判がない論文は最悪の論文だ。同様に、集団に対して構成員から批判がないのは不健全な組織であることが多いのではないか。つまり、通常の認識とは逆に、学校における「問題児」や「不登校」の存在は、学校が「健全」であることの証明であるのだ。逆転の発想である。

《全員が》、《一人も残らず》、《一丸となって》、《団結する》。学校的共同体特有のキーワードである。本当に人々が「心を一つに」することはあるのだろ うか? 幻想である。内田樹は〈幻想であっても、幻想があると考えることに何らかの意味があるならいい〉というだろう。けれど、この問題に関し『サヨ ナラ、学校化社会』で上野千鶴子(内田の「天敵」)が語ったのは、「学校化社会とは、だれも幸せにしないシステムだということになります」(57頁)というメッセージであった。「学校化社会」とは、学校的共同体がもたらす「幻想」の別名である。
 無論、組織によっては本当に皆が「心を一つに」しているところも存在するかもしれない。けれど、それを当然視していると、集団が個人に持つ暴力性に対し、無自覚になってしまう。「心を一つにするのが当然だ」と、集団に批判的な個人を攻撃することとなるからだ。

 まとめをするなら、こうなるだろうか。集団は個人に対し、しばしば人権侵害を行う。そのため、「集団から逃れることができるのだ」という道(不登校など)を示している集団は、個人の人権侵害を極力減らすことができる。それゆえ、「健全である」といえる。逆に集団から逃れることができない組織(あるいは集団から出るということを誰も行っていない組織。不登校のない学校など)は、個人に対し人権侵害を行っていることがある。
 離脱者がいる集団こそ、健全な集団であるといえるのだ。
 

 

「学校じゃ教えてくれないこと」批判

 よく、「学校じゃ教えてくれないこと」というキャッチ・フレーズを耳にする。先日買った本の帯紙にもそう書かれていた。「学校じゃ教えてくれないこと」というタイトルのテレビ番組もあった。『教科書にない!』という漫画もある。「学校では教えてくれないけど大事なこと」というような本を読んだこともあった。

 「学校じゃ教えてくれないこと」という言葉には、「もっと役立つことを学校では学びたかった」という思いが込められている。そんな思いを哲学的にはルサンチマンという。学校に対する「恨み」ということだ。この「恨み」はしかし、学校それ自体への批判ではない。「学校制度でこんなことを教えてほしかった」「もっと役立つことを教えてほしかった」との、ムシのいい思いが感じられる。学校で「教える」ということ自体には何も批判をしていない。また「教えられる」ことを無条件に「善」としている点も気になる。
 問題なのは「教えてもらいたい」「教えられたい」という受身の感情、「奴隷根性」が見え見えである点だ。自分で学ぶ、という自発性・能動性が感じられない。思想家・イリッチは『シャドウ・ワーク』などの著作を通して、「自分でやること」「自分で作り出すこと」「自分で学ぶこと」の大事さを訴えた。他者を頼りにする姿勢(ここでは「教えられるのを待つようになる」という「学校化」の様子)は本当の人間のあり方ではない。
 「学校じゃ教えてくれないこと」。この言葉、脱学校論者からみれば「当たり前じゃないか」と感じる。学校は何も役立つことを教えてくれはしない。そんな期待をしてもいけない。来年には私は「教員免許」を入手できるが、「先生」といわれるほど人格は高くない。「人生において大事なこと」を教えられる自信は全くない。
 人生で大事なことなんて、学校が教えてくれるわけないのだ。自分で学ぶしかない。そんな当たり前のことを、なぜ今さらキャッチ・コピーに使うのだろう。
 私は高校までは「優等生」であった。早稲田という場所は「優等生」を崩してくれる場所である。だいぶ不真面目になったなあ、とつくづく思う。
 こんな話を、非常勤講師をしたとき、中学・高校でしたいものだ。
追記
 イリッチの話を敷衍するなら、学校の「部活動」というものにも再考が必要だ。
 部活動は「勝利主義」的。勝つこと・プロになることを子ども達に押し付ける。「勝てなくてもいいから楽しくやろうぜ」とは決して言わない。「どうせ甲子園に出れるわけないんだから、紅白戦を毎日やって、楽しくゲームしようよ」という野球部のキャプテンは、おそらく吊るし上げられる。
 日本で健康のためのスポーツが根付かないのは、「部活」による「勝利主義」の存在が大きいのではないか。ゲームそれ自体を楽しむのではなく、「大会に出る」「根性をつける」「努力の大切さを学ぶ」という、汗臭い目標の達成が「部活」の目標になっているからだ。
 イリッチは「レコードよりもギターが、教室よりも図書館が、スーパーマーケットで選んだものよりは裏庭で取れたものの方が価値があるとされる」(『シャドウ・ワーク』52頁)社会の誕生を待ち望んだ。スポーツも同じだ。勝利することなど「結果」として得られるものよりも、過程を大事にする姿勢(「楽しむ」ということ)の重要性をイリッチは教えてくれる。

宮台真司『14歳からの社会学』

 いま私は宮台に夢中である。
 宮台の著書『14歳からの社会学』に、「承認」論が描かれている。社会から、他者から認められ、「自分はこれでOKなのだ」という「尊厳」を得るためには(ちょうどエヴァのシンジのように)、何が必要か?
 宮台は「試行錯誤」を行うことが必要、と語る。

《他者たちを前にした「試行錯誤」で少しずつ得た「承認」が、「尊厳」つまり「自分はOK」の感覚をあたえてくれる》(32頁)

 これは面倒くさいことだ。けれどこれをせずに歳をとってしまうと、「死んだときに誰も悲しんでくれる人がいない」という悲劇を味わうこととなる。「承認」され「尊厳」を得る努力を怠ると、不幸になってしまうのだ。
 それゆえ宮台は〈幸せになりたいなら、勉強だけしていればいいわけじゃない〉と本書で伝えているのだ。もはや勉強だけ出来れば幸せになれる時代は終わったのだ。
 『14歳からの〜』を読み、私の物の見方が180度変わった。パラダイム転換とでも呼ぶべきか。大学でろくに勉強をしない人間を無意識下でバカにしてい た自分の方が、実はバカであったことに気づいたのだ。勉強をしていると、いまの社会では褒められ、評価される。けれど、その評価は未来に渡ってのものでは ない。現体制で褒められる言動が、これからの社会でも同じ評価を受けるわけではないのだ。いまの社会では勉強だけすることに評価が与えられる。けれど宮台 のいう新たな社会では、勉強よりも他者から「承認」される能力・技術が必要となる。「大学でろくに勉強をしない人間」は、実は来るべき社会の「勝者」とな る可能性を秘めているかもしれないのだ。「パラダイム転換」と私が言ったのはこの点だ。

 勉強だけやるのはもうやめよう。寺山修司ではないが、『書を捨てよ町へ出よう』だ。

追記
 宮台はこれからの社会の「勝ち組」像を語る。その人物は、他者とコミュニケーションを自在に行うことができ、自分の示すビジョンの実現のために多くの人々を動員し、実現できる者である。
 コミュニケーション能力こそが、必要となるのだ。
 外に出て、人に会うのだ、石田よ! 
 誰かが「人生において重要なこと」として言っていた。「本を読め、人に会え、旅に出よ」と。私はこれに「映画を観ろ」を追加したい。
 さて。今日も人と会って深い対話をし、「承認」を得られるように努力していきたい。

夏の目標

 眠れない苦痛を逃れるため、過去の投稿を読んでいた。文章の下手さ加減に感心してしまう。「今ならこう書くのに…」。けれど、それに気づける時点で自分の成長が測れるのだろう。

 私の今年のテーマは「人と比べるな、昨日の自分と比べよ」である。過去の自分の文章に駄目出しできることは、過去の自分よりも成長した証しと言える。

 夏休みの私の目標。一日1本映画を観ること、一日1回はブログ更新をすること、『社会学』の厚い参考書を3回読むこと、卒論を「とりあえず」書き上げることである。インプット・アウトプット両方を重視しつつ、自分の成長につながる時間を過ごしたい。

 映画『燃えよドラゴン』解説での、ブルース・リーの言葉。
「自己表現を学べ。自分自身を研究するんだ」
 そんな夏にしたい。

 ともあれ、時間というストックだけは万人に開かれている(梅田望夫『ウェブ時代をゆく』)。ならば戦え、自分よ。目前の時間を価値的に使え、惰眠に使うな! 「生きるとは行動すること」とは誰かの言葉。
 自分に負けるな!

 
 

大二病

人間は社会的生物である。一人暮らしの夏休みほど、それを感じる時はない。

何もすることがないということの悲哀。可処分時間が多すぎると、人は空しさだけを噛み締める。そんなとき、むやみと人に会いたくなる。「まったり」話していると、孤独さから解放される。

Hさんという人と今日の夜、ずっと話していた。
「早稲田に入って、やたら映画に詳しい人によく出会うので、『映画詳しいよ』とうかつに言えなくなりました。だから毎日1作のペースで映画を見ているんです」といった所、Hさんは、
「大二病だね」
とおっしゃった。

大二病とは中二病(中二病の定義は文末を見てほしい)の亜種らしい。自分より遥かに「出来る」友人を見て落ち込み、引きこもり気味になり、その間徹底的に映画を見るなどして自信を付けたがることをいうらしい。

そうか、大学4年生にしてようやく「大二病」になったのか。罹らないまま卒業して方が幸せだったのだろうか?

Hさんの話の中にもあったが、世の大学生は本当に「大学生」たるべき行動をしているのか妙に気になった。軽々しく「ポストモダン」論を語るが、真剣に本を読んで学んだ時期があったのか? 簡単に「もう自民は駄目だよ」というが、真剣に政治学を学んだ時期があったのか? 教育学部生は「教育学」をマスターしているのか? 大学院に行く人間はそれにふさわしいだけの学問を学んできたのか? 

「大二病」に罹ることが出来る方が、「大学生」らしい大学生と言えるのではないかとふと思った。

*Wikipediaにおける、「中二病」

思春期の少年が子どもから急激に大人に なろうと無理に背伸びをして、「(子供の価値観での)大人が好みそうな格好のいいもの」に興味を持ち始め、「子供に好かれそうなもの」、「幼少の頃に好き だった幼稚なもの」を否定したりするという気持ちが要因である。こういった感情から「もう子どもじゃない」、「(格好の悪い)大人にはなりたくない」とい う自己矛盾からくる行動が、実際に大人になってから振り返ると非常にピントが「ずれ」ており、滑稽に感じることが大きな特徴である。

加えて生死宇宙、人間や身近なものの存在に関して、(的外れ気味に)思い悩んでみたり、(子供基準での)政治社会の矛盾を批判してみたりするのも特徴的である。さらに実際の自分よりも自らを悪く見せかけようとするものの、結局何も行動を起こさないでそのまま収束するといった性質も「中二病」の「症状」として含まれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E7%97%85

猛省、猛省。

今日も12時まで寝てしまった。その後、映画『燃えよドラゴン』を見つつ寝てしまい、行動開始は16時。何という自堕落な生活だ!

先日中学時代の友人に電話した。彼は上京して現場監督として働いている。電話口の声が疲労で溢れていた。その彼の話を思い出す限り、「大学生」を味わわせてもらっていること自体に申し訳なさを感じる。

アメリカの大学は、大学生が週に45時間勉強することを想定してカリキュラムを組んでいるらしい。授業が15時間あり、残り全て自習という想定。
何故45時間か? それは一日8時間労働×5日+土曜は半日(5時間)労働、という一般企業の労働体系を学問にも合わせているからだ。
「君たちと同い年の人間は、週に45時間くらいは働いている。だから君たちもそれくらいは勉強しろよ」という、考え方なのだ。

アメリカでは一度社会に出てから大学に行くことも多いらしい。そのようなとき、「労働するのと同じくらいは大学で学ぶ」という考え方には納得できる点が多いであろう。

私も、猛省をしなければ。明日は7時に起きて、即行動開始をしよう。

早稲田大学で学べること

早稲田大学にいることで学べることはいくつかある。

1、酔っ払いへの対応の仕方・介抱の仕方が無理なく修得できる。
2、受験秀才というのは大した存在ではないということが自覚できる。
3、相手との話のネタに困ったとき、バイトの話か就活の話を振るという「技術」を身につけることができる。
4、図書館に行くと六法全書を手にした人物が必ず座っており、多くの者はそのまま突っ伏している事実を知ることができる。
5、早稲田出身者は必ずと言っていいほど「授業に出なかった」ことを自慢するということを知ることができる。
6、受験の中で第一志望に受かる人間はほとんどいないのだと気づくことができる。

教育実習中の雑感。

 久しぶりにパソコンを使うと、キーボード入力のありがたさに気づく。なかなか、無精して授業案をパソコンで作る気にならなかったのだ。大体は、教科書や参考書を見ながら手書きするほうが手っ取り早い気がしていた。けれど、キーボードを叩くと「仕事しよう」という気持ちになってくるのである。不思議だけれど。

 よく「変人だ」と言われる。実習先の中学生からも聞く。何故だろうか。
変人と言われていることを気にする所が変人なのか。このように「変人と言われていることを気にする所が変人なのか」と考える点が変人なのか。
 内田樹のいわく〈自分が悪人であると認識している人間は、他人にデメリットを与えないように注意するので結果的に悪人ではなくなる〉。
〈変人であると認識している人間のほうが、他人にデメリットを与えないで済むのではないか〉と私は思う。