社会学

映画『真夜中のカーボーイ』(1969)からみる、「死」の贈与論。

 文字通り、真夜中に本作を見て書いている。

 ストーリーなどはネットでいくらでもあがっているので、社会学的(ないし教育学的)考察点を中心に描くことにする。

 親には愛されないが、祖母には愛された主人公・ジョー。職場のレストランでも、ニューヨーク行きのバスでも、ジョーは誰とも会話(=対話)が成立しない。話を振るが、相手は会話に乗らず、モノローグに終ってしまう。他者からのすれ違いをさんざん示す本作は、会話の成立しない「孤独さ」を強烈に表現している。
 回想シーンには子ども時代と前の恋人のシーンばかり。ジョーは過去にすがって生きている。それが嫌で大都会へ行くのだが、やはり上手く行かない。そんなこんなでダスティン・ホフマン演じるリッツォと共同生活を送ることとなる。

 はじめ、誰とも会話が成立しないジョーであるが、リッツォと出会ってから会話が成立するようになる。リッツォはいわば潤滑剤である。本作では2回バスに乗ることで場面が転換するが、1回目とちがい、2回目ではリッツォとジョーは楽しげに談笑をするようになっている。しかし、フロリダ行きのバスから降りた後、ジョーは誰かと会話をすることは本当に可能なのか(後述する「贈与」が働いている、とみるならばジョーはバスに乗る前よりも成長できているため会話が成立する可能性が高い)?

 本作を見て疑問に思うのは、何故ジョーは自分を騙した(=男色の斡旋人のもとに送られる)リッツォに友情を覚えるのかという点だ。宿を提供してもらったとは言え、憎しみすら抱いた相手である(内面のシーンでは首を絞めている)。おそらくではあるが、都市の片隅で自分同様「孤独」を感じる点にシンパシーを覚え(人間は間共振的律動系である以上、波長が同調している、ということである)、リッツォの存在自体から救済を得ていたのではないか。「自分は1人じゃない」という認識を得るためにリッツォに友情を抱いていたのであろう。

 こうなると、リッツォの方が逆に「贈与」(マルセル・モース)を受け続けることになる。病人の自分の世話という「シャドウ・ワーク」の受け手に、ジョーが志願して行ってくれている。ジョーの献身(=文字通りの売血も含む)という「贈与」に対し、リッツォは何も「反対給付」することができない。ラストでのリッツォの死は、ジョーの「贈与」に対する「反対給付」としての「贈与」であったとは考えられないであろうか。

 『贈与と交換の教育学』において矢野智司は、時に人は他者から「死」を贈与され、それを背負って生きていくことを余儀なくされる、と述べている。本作がまさにそれである。リッツォの「死」を贈与されたジョーは、何らかの形でその贈与への反対給付の義務を負う。マルセル・モース『贈与論』以来の構図である。
 本作を通してみると、ジョーはこういった「死」の贈与を2回、精神病院に送られた「恋人」もカウントするなら3回、「贈与」を受けている。その度にジョーは生き方を変える決断をする(リッツォへの反対給付の仕方は本作では明らかではない)。「恋人」の別れ(=死に近い)がニューヨークでカウボーイ(=男娼)として生きる決断につながり、祖母との別れが子ども時代の甘い記憶からの「別れ」に繋がった。ジョーは生きるのが下手な人物ではあるが、「死」の贈与への反対給付を絶えず行いつづけている点では評価できるのである。

 月並みな表現を使えば、他者の死と向きあう分(「死ぬのはいつも他人ばかり」とは寺山修司の名言である)、人間は強くなるというテーゼにまとめられる。他者の「死」という「贈与」を受け止められるとき、人間は成長する。あるいは、受け止めようと努力することが自分を成長させる。この場合、他者の「死」という「贈与」に、個人が自分の一生をかけて「反対給付」する義務を負うためである。この「反対給付」が成長である。
 逆に、この「死」の「贈与」から逃避したとき、人間の成長は止まる。個人の成長という「反対給付」から逃れているためである。
 親しい人物からの「死」の「贈与」は重々しく個人の中にのしかかってくる。この「贈与」の重みから逃れず、「反対給付」としての成長を遂げることが、人間の人間たる所以なのである。
 

贈与論とシャドウ・ワーク論から読み解く「内職」現象

●贈与論の観点から「内職」を読み解く

1、内田樹『下流志向』から読み解く内職現象。

 授業の場は、教員と生徒間の相互行為の場である。特に高校において一斉授業を教員がとる場合、生徒に要求されるのは静かに席に着き、話をひたすら聞くという受動的モデルである。静寂モデルでもある。生徒が声を発しても構わないのはわずかに質問するとき/されたときと、「Speak after me」と英語の教師が要求した時のみである。
 が、この古典的生徒モデルの成立するケースはずいぶんと減ってきた。授業を「聴く」姿勢が高校においても消滅し、立ち歩き・私語・「ケータイ」利用・化粧・睡眠が行われる空間となることが多くなった。この場合、生徒と教員間で相互行為は成立していると言えるのであろうか? 教員のモノローグが、生徒に聴かれないまま空しく授業が続くように見えるとき、相互行為はなされているのだろうか。
 内田樹は「成立している」と答える。教員の授業に対し、生徒は「不快貨幣」を用いての「等価交換」を行っているのだと内田は語る。

五十分間の授業を黙って耐えて聴くという作業は子どもたちにとっては「苦役」です。彼らはその苦役がもたらす「不快」を「貨幣」に読み換えて、教師が提供する教育サービスと等価交換しようとする。
 学校において、子どもたちが交換の場に差し出すことのできる貨幣はそれしかないからです。彼らは学校に不快に耐えるためにやってくる。教育サービスは彼らの不快と引き換えに提供されるものとして観念されている」(内田樹『下流志向』講談社、2007年、48頁)

 授業中のだらけた雰囲気、「内職」や「遊び」の溢れる教室。これは生徒が「『不快という貨幣』を最高の交換レートで『教育商品』と交換しようとする」(同)ためにあえて行う行為であると内田は語る。

例えば、五十分間授業を聴くという不快の対価として、そこで差し出される教育サービスが質・量ともに「見合わない」と判断すれば、「値切り」を行うことになります。仮に、その授業の価値が「十分間の集中」と等価であると判断されると、五十分の授業のうち十分程度だけは教師に対して視線を向け、授業内容をノートに書く。そして、残りの四十分間分の「不快」はこの教育サービスに対する対価としては「支払うべきではない」ものですから、その時間は、隣の席の生徒と私語をしたり、ゲームで遊んだり、マンガを読んだり、立ち歩いたり、あるいは居眠りをしたり、消費者である子どもにとって「不快でない」と見なされる行為に充当される。(内田2007:48−49頁)

 つまらない学校の授業を、自分たちは受けなければならない。そんな状況ならば必要最小限だけ教員に「つきあって」、あとは自分のために時間を使う。そんな形で授業の「再構成」を生徒たちは半ば無意識的に行っている。

2、マルセル・モース『贈与論』から読み解く内職現象。

 内田の発想は、『贈与論』の影響を受けているように思える。それは、生徒の側の授業中の「遊び」やだらけ、「内職」を教員の行う「教育サービス」に対する「交換」として行っていると示している点である(正確にいえば「交換」というよりも「反対給付」である)。
 モースは『贈与論』のなかで、「未開社会」における食物の分配や首長への贈り物をする行為について、以下のようにまとめている。

結局、こうした贈与は自由ではないし実際に無私無欲でもないのである。その大部分は反対給付であり、奉仕や物に対する支払いのためだけではなく、利益になる協同関係を維持するためにも行われる。(Mauss1925:274頁)

 贈与の説明としてモースは全体的給付という概念を用いる。

全体的給付は、受け取った贈り物にお返しをする義務を含んでいるだけでなく、一方で贈り物を与える義務と他方で贈り物を受け取る義務という二つの重要な義務を想定しているからである。(Mauss 1925:38頁)

 この全体的給付に代表される贈与行為は、未開部族に見られるだけでなく、先進国社会にも見られる要素であるというのが『贈与論』のテーマであった。授業も、同じ贈与の発想で考察することができる。
 
3、シャドウ・ワーク論から読み解く「内職」

 イリイチは学校の授業が生徒の側のシャドウ・ワークによって成立していることを述べた。「賃労働を補完するこの労働を、私は〈シャドウ・ワーク〉と呼ぶ。これには、女性が家やアパートで行う大部分の家事、買い物に関係する諸活動、家で学生たちがやたらにつめこむ試験勉強、通勤に費やされる骨折りなどが含まれる」(Illich 1981:207-208頁)。賃労働には給料が発生するが、シャドウ・ワークは無償の行為であり、おまけにシャドウ・ワークの担い手が逆にお金を出すことで経済社会を支えることになる。具体的な例でいえば、消費者は企業の新製品を受動的に受け取るという意味のシャドウ・ワークを行っているといえる。これが学校においては教員の一方的な授業を黙って受け取るという行為がシャドウ・ワークとなる。
 「賃労働にとって人は選択されるが、一方〈シャドウ・ワーク〉の場合は、人はそのなかに置かれる。時間、労苦、さらに尊厳の喪失が、支払われることなく強要される。けれども、よりいっそう経済成長をすすめるためには、〈シャドウ・ワーク〉の支払われることのない自己開発が、ますます賃労働よりも重要なものになってくる」(同:209頁)。教員によってなされる教育サービスは、生徒のシャドウ・ワークによって支えられているのだ。イリイチ思想の研究者でもある山本哲士は次のようにシャドウ・ワークを解説する。

隠れた支払われない労働がある、それはサービス労働の裏側に構成されている、たとえば教師のサービス労働にたいして生徒の消費ワークがある、(…)これらは「させられている」行為、他律行為の働きかけによってなされている受け身的な消費行動になっている。このインダストリアルなサービス商品を消費していると考えられてきたものを、隠れたシャドウのワークであると切り替えたのだ。つまり、産業的な価値を産み出しているワークである、消費ではなく生産であるという切り替えである。(山本 2009:238頁)

教育サービスの受け手である生徒の側が、サービスを受動的に消費する。これをシャドウ・ワークとして位置づけたのがイリイチである。
 この生徒の行うシャドウ・ワークは、モースの『贈与論』をもとにして説明することができる。教育サービスの受け手である生徒は何もなさないわけではなく、贈与に対する何らかの反対給付を行っている。そうでなければ生徒は現状以上に教員に従属する地位に追いやられてしまう。「受け取って何のお返しもしないこと、もしくは受け取ったよりも多くのお返しをしないことが示すのは、従属することであり、被保護者や召使いになることであり、地位が低くなること、より下の方に落ちること」(Mauss 1925:276頁)になるのだ。それゆえ生徒は反対給付として「内職」や「遊び」・居眠りを行う。内田のいう「不快貨幣」も、授業という贈与行為に対する反対給付の説明として読み解くことが可能であろう。

4、まとめ 「内職」シャドウ・ワークの存在理由

 退屈な授業を「黙って耐えて聴くという作業」。その際の「『不快』を『貨幣』に読み換えて、教師が提供する教育サービスと等価交換しようとする」行為についてをここまで考察してきた。「内職」など生徒が授業中に行う行為は、シャドウ・ワークであるといえる。授業を聴く以外にシャドウ・ワークが行われることで、教員はかろうじて授業を最後まで行うことができる。それは、聴いてもつまらない授業がおおっぴらに拒否されるわけではないためだ。「内職」も「遊び」も睡眠も、退屈な授業に何とか耐えるための「知恵」であるという側面であることを意識したい。
 教員の教員たる所以は授業を為すことである。これは文科省の学習指導要領に底流するテーゼである。退屈な授業を教員が為してしまうとき、生徒はおおっぴらに拒否をする(授業ボイコットなど)ことが可能ではある。それが大きな形で現れたのが戦後の大学紛争であった。けれど、殆どの場合は生徒の行うシャドウ・ワークによって教員の授業は「耐える」ことが可能なものと再編成される。生徒の「内職」を注意する教員は多いが(アンケート調査においても、教員に注意されるのが嫌だからこそ内職しない、という回答が多い)、その教員の存在基盤を生徒のシャドウ・ワークが支えていることには無自覚である。
 つまり、「内職」など生徒が授業中になすシャドウ・ワークは、教員の行う教育サービスを底支えしていると言えるのである。

参考文献

Illich, Ivan(1971):東洋・小澤周三訳『脱学校の社会』、東京創元社、1977。
Illich, Ivan(1981):玉野井芳郎・栗原涁訳『シャドウ・ワーク』、岩波現代文庫、2006。
Mauss, Marcel(1925):『贈与論』、吉田禎吾・江川純一訳『贈与論』、ちくま学芸文庫、2009。
内田樹(2007):『下流志向』、講談社。
山本哲士(2009):『イバン・イリイチ』文化科学高等研究院出版局。

H小学校・研究授業の「思い出」。

 一昨日、はるばる北日本まで行き、公立・H小学校の教育研究会に参加した。これは公開授業を全校的に行う実践である。もう20年も前からこのような実践が行われてきたという。
 よくよく考えると、公開授業とは奇妙な現象である。生きた人間たちを、彼らより年長の人間たちが「観察」の対象にする。要は小学生版「動物園」なのだ。よく思想家は「動物園」を近代の特徴のように語る。それは観察される客体と観察する主体とを明確に二分割するからだ。中世的な「見世物小屋」と違い、「真面目」な「研究」の対象と取り扱われる。
 ミシェル・フーコーは〈見る―見られる〉関係性のうちに権力作用を見出した。とすれば、この授業研究会というのは大人の側が小学生たちを「監視」する権力作用以外の何物でもない。小4のクラスを「見学」する中でそれに思い至り、思わず気持ちが悪くなったのを覚えている。
 この小学校の児童たちは、興味深いことにこれだけ多くの大人たち(下手をすると、クラス内の児童と同じくらいの人数。しかも大半は「先生たち」である)に「見られて」いながら、普段通りの姿を見せてくれる。ある子は机に突っ伏し、私語し、鼻に人差し指を突っ込む(そこまで「観察」してしまう私は、すっかりゾウの檻の前に立って見ている動物園の客である)。巧妙に訓練を受け、餌付けされた「動物」たちの姿を思い出す。とすれば教員は調教師なのか。フーコーが「よきディシプリン(しつけ)はよき調教である」と述べた通りだ。
 授業が終わった後の分科会という「反省会」も非常に「面白い」。先ほどの授業中の「~~君」「~~さん」の言動が問題にされ、それに対する教員の今後の「教育」方針が語られる。この場において、生きた人間の処遇が語られる。語られた生徒は、そんな話し合いの存在を知る由もない。おまけにコメントするのはもう二度とこの小学校に来ない人々なのである。そんな人間たちによって、小学生たちは勝手に今後の生き方を決めつけられてしまうのだ。これを権力作用と呼ばずに何と呼ぶべきなのか。 

追記

●教員の語りに耳を傾けなければ、評価されることのない小学校の退屈さ。それこそ鼻でもほじるしかやることはない。対話は成立せず(1対30の営みは「対話」ではない)、教員の語りは児童の耳から抜けていく。
●私は研究授業や公開授業では、児童・生徒を観察する人を「観察」するのが趣味である。観察する側は、意外に無防備なので「素」が出るのだ。これはツタヤにおいてDVDを探す人を見る「楽しさ」と同じである。いかがわしいDVDを真剣に見つめる人を見るのはなかなかに愉快だ。
●教員たちの軽々しい「皆が仲良く過ごしました」という言説に気持ちの悪さを感じる。この一言には恐るべき「圧力」がかかっているのではないか。「仲間」という言葉や「学びの共同体」という言葉。これらの言葉のネガティブな部分に、本当に目がいっているのか? 「仲間」を構成するのはピア・プレッシャーでもある。つまり同調圧力。少しでも異なる「他者」を排斥する働きが裏にはある。その恐ろしさを知らずに軽々しく「皆」とか「仲間」とかいう言葉を使うべきではない。そう思う。
●教室の後ろの置かれた飼育小屋。いくつも並んだその姿が、私には複数の「棺桶」に見えた。飼育される動物たちは、はじめは可愛がってもみくちゃにされ、飽きられれば餌もやり忘れられるようになり、やがては知らないうちに「死んで」しまう。教員は死ぬことを予期した上でその死体を「デス・エデュケーション」の「教材」にする。そう、はじめから飼育動物たちは「死ぬ」ことを想定されているのである。ペットであればそうではない。
 恐るべきは学校である。どんな存在も「教材」にされてしまう。動物も、その辺にいる地域住民も、駅のホームレスも、すべてが「教材化」。この権力性についても、考察をしていきたい。

努力教、あるいは努力「狂」。

 なかなか生きづらい世の中である。そう感じるのには理由がある。この世の中は常に「努力」を要求するためだ。いわば「努力教」(あるいは努力シンドローム)に形づくられているようである。
 努力しないことも、大事なのではないだろうか。昨年以来の勝間vs香山論争は、結局の所、「頑張る」「努力する」ことへの違和感を人々が潜在的に求めるようになったことの結果ではないだろうか。

 努力やガンバリズムを否定して生きていきたい。学習においてもそうである。「勉強」という言葉は「強いて勉める」と読む。それこそ「努力」シンドロームの現れた言葉だ。

 よく人間の尊厳として過酷な状況を努力して乗り越えた体験が語られる。会社再建の「美談」も、基本的には資金繰りに昼夜走り回った「努力」の結果として語られる。しかし努力とはそれほど美しいものなのだろうか? 「ほどほどに過ごす」のは駄目なのか? 皆が「頑張る」社会は病んでいる社会である。

 現在の状態で誰も満足してくれない。これは文明を進める要素ではあるのだろうが、『成長の限界』(ローマ・クラブ)以降の社会ではそろそろ「努力の終焉」を語ってもいいのではなかろうか。
 苅谷剛彦はインセンティブ・デバイドの存在を「嘆いた」。所得下位層に生まれた子どもは学ぶ「意欲」や努力する「意欲」が少ないという「格差」があると主張したのだ。けれど、考えてみれば努力するという「意欲」に格差が出るということは、「努力」の終焉に一部の人間が気づき始めた良い「兆候」とも言えるのではないか。
 ほどほどのところで、ほどほどの人生を送る。これでいいんじゃないだろうか。確かに「階層の固定」と言って批判する人もいるだろうが、本田由紀のいう「ハイパー・メリトクラシー」下で要求されるスキルについて考えてほしい。常に自らの向上を目指し、「さわやかに」努力し続けるスキル。本田はハイパーメリトクラシーが「努力し続ける」姿勢を要求することを描くことで社会批判をする。そうである以上、「ほどほど」(昔の宮台真司は「まったり」と言った)の生き方は、社会改革の一つのファクターであるように思われる。
 ニートでも、フリーターでも人は生きていける。何も努力するだけが人生ではない。

努力シンドロームの彼方に。

 久々に落ち込んだ。もう1週間になる。私は自分が不要だ、と感じるときガクッと落ち込むことが分かった。サークルにしても、ボランティアにしても、「あ、俺いなくても大丈夫かもしれない」と感じたとたんに落ち込む。今回もそんな文脈の中で落ち込んだ。
 宮台真司は『14歳からの社会学』において「代替可能性」というキーワードを提示した。自分の存在の代替不可能性を感じられない限り、生きている実感を失ってしまう、という文脈で語られていた。要は、「自分でなく、他の誰かでも構わないのではないか」という思いのことである。いまの私にも当てはまる。「俺なんて、いなくてもいいんじゃないか」と感じるとき、私・藤本研一という人間の「代替可能性」を感じてしまう。
 この現象は再帰性(ギデンズ)に特徴づけられた近代社会特有のものである。再帰性を英語で書くとreflexivity。絶えず自分自身を「振り返り」(=reflective)、自分の行為の結果について考察をしていく態度のこと。
 「自分とは何者か?」を、近代社会では誰も教えてくれない。前近代の共同体社会では「〜〜さん宅の息子さん」というアイデンティティがあった。生き方にしても、「まあ、親父と同じことをして一生を過ごすのだろう」という自明性があった。いまはそれが無い。だからこそ、絶えず自らを「振り返」り、自らを作り替えていくことが必要となった。
 この「振り返り」は、非常に面倒なプロセスである。中学生時代、何か行事の度に「反省会」が行われたことを思い出す。「もっと早く準備をしていればもっとよい企画になったと思います」という意見表明が連発される会議室。子どもながらに生産性のなさを感じていた。再帰性とは、要はこういうことではないか。面白くもなく単調な「反省会」を自らのうちで何度も何度も行う作業。そのうち「自分は何者か」判明する時もあるが、基本的にはただ「振り返る」だけで終ってしまうのではないだろうか。それこそ「反省会」を「努力して」行うことが必要なのだ。
 自分に必要なスキルを、自分で計画して身につける。それだけでなく、「自分は何者か?」「自分は何をしたいのか?」常に考える必要のある近代社会。「努力」し続けないと生きれないように巧妙にプログラミングされた社会である。まして都市に生活していると、日常的に「努力しない」存在の比喩としてホームレスの存在が目に入る。いやでも「努力」が要求される。けれど「努力」は楽ではない。にもかかわらず努力しないと地位やアイデンティティの獲得が手に入れられない。
 本当に生きにくい社会である。
 考えてみれば、「俺はもうダメだ」という状態を「振り返り」の結果として受け止めるのも、ある意味で自分のアイデンティティを形づくったこととなる。自ら「ダメ人間」を名乗るのだ。「ダメ人間」を名乗るとき、とりあえず「自分は何者か?」という問いにはきちんと答えがである。けれど私の自尊心はその状態で満足させてくれはしない。
 「ダメ人間」で満足できないのなら、結局自分自身で「努力」して自分を「向上」させる必要が出てくる。…ああ、努力しないと自分のアイデンティティを獲得できないのか。努力しないと「代替不可能性」に気づくこともできず、この「落ち込んだ」状態からの離脱も図れない。
 いまの状態からの解決方法は見えている。なのにその方法である「努力」をしたくはない。…この「救われない」状態から、どのように抜け出すか? 「努力」して方法を探し出すことにしよう(トートロジーである)。

マイノリティ論。

 昨夜、明治通り沿いのマクドナルドで(珍しく)勉強していた。席に座り、延々と本に向かい続ける。斜め前の席に、「日本語」と書かれたテキストを勉強する一団がいた。左横の席にも、「日本語検定」の教科書をもった若者が座っている。アジア出身の、おそらくはニューカマーの人々だろう。文化現象として見て、興味深いことだった。
 彼らは何故ここで勉強するのだろう? それもラフな格好で。おそらくは日本国内での「マイノリティ」を自認するがゆえに、相互扶助し合うことをお互いに要求するからであろうか。
 マイノリティは孤立すると、おそろしく弱い。「社会」から切り離され、絶望した感覚(アノミー、とデュルケムは言った)に陥れられている。それに対処するには「かたまる」(団結とはあえて言わない)ことである。
 
 社会的弱者であるマイノリティが「かたまる」のを見ると、マジョリティは恐怖を感じる。「朝鮮学校」という存在への「無償化」に日本人が反対したのも、マイノリティが「かたまっている」状態への恐れであるからだろう。
 マイノリティは「かたまる」が故にマジョリティからは脅威であるのだ。それゆえ、先の朝鮮学校の「無償化」論争のとき同様に、露骨な差別意識をなんだかんだ理屈をつけて合理化する。けれどマジョリティはマイノリティが何故「かたまる」のかを考えようとしない。もとはといえば自分たちマジョリティがマイノリティたちに「かたま」らないと生きていけないようにしていることに気付かないのだ。

なぜ妖怪物語の舞台が高校に移ったのか?

 『かのこん』というアニメを見た。主人公・小山田耕太(おやまだ・こうた)はいつも源ちずると犾森望(えぞもり・のぞむ)という「恋人」たちに振り回されるという単なるラブコメ(ただしR指定が付く)。ちずるも望も実は「妖怪」で、物語の裏テーマに妖怪との共生が描かれている。

 観ていて一つ気づいたことがある。それは《妖怪の出る高校》が舞台である点だ。

 90年代後半に連載されていた『地獄先生ぬーべー』と『かのこん』は非常に似ている。妖怪の出てる学校が舞台で、登場人物達はその妖怪に振り回され、主人公の活躍で妖怪が退治される、というストーリー運びに共通性が見られる。違うのは『ぬーべー』が小学校が舞台なのに対し『かのこん』は高校が舞台であるという点だ。
 昔から妖怪と出会う物語の主人公は、学齢期以前か小学校の年代の子どもであった。座敷童が見えるのは小学生低学年ごろまでであった。『となりのトトロ』では二人姉妹がトトロという妖怪(と言って悪ければ異界の存在)と出会う物語であり、『ゲゲゲの鬼太郎』は鬼太郎と小学生たちの交流を描いた物語であった。
 一昔前は妖怪が見える(言葉をかえるなら「異界と出会える」)のは小学生までの子どもであった。けれど『かのこん』において妖怪と出会うのは高校生。段々と妖怪と出会う物語に出てくるキャラクターの年齢が上がってきているのだ(アニメ化されると言うことは「高校生が妖怪と会うなんてありえない」と言う声よりもこの舞台設定を受けいれる読者が多いということを意味する)。
 昔、妖怪を含め「異界」と出会うのは文字通りの「子ども」のみであった。彼らはよく世の中を理解できないため、説明不可能なものを「妖怪」と感じたこともあっただろうが、「子ども」でしか見えない/出会えない世界があった。それが「異界」であり、「妖怪」であった。異界は成長するにつれて、段々見えなくなっていく。そのため、以前ならば中学校以上を舞台にした「異界」「妖怪」ドラマは成立しなかった(というか、読者というオーディエンスの側が受容したがらず、物語が作られることがなかった)。いま『かのこん』という高校を舞台にした妖怪ドラマが存在しているということは、その分、妖怪の存在を受容する年齢が上がってきたことを意味しているのだろう。
 いまのところ、「大学」に異界が広がるアニメやドラマは存在しないように思える。しかしそれも程度問題である。知らない間に大学を舞台にした異界との出会いを描く物語が登場することだろう。そうなったとき、日本人の「幼稚化」はさらに進むであろう。
 あるいは異界と現実が混じり合っていた中世に逆戻りするのかもしれない。ポストモダンとを中世回帰のように認識する人もいるが、それこそ日本の未来の世界ではないだろうか。
 スピリチュアルな言動を見聞することが最近多いが、「異界」との出会いを人々が求めている証拠と言えなくもない。
追記
 民俗学では「妖怪が見える」ことを非科学的だ、と批判することはない。「なぜ妖怪談義が語られるか」に問題意識を持つ。同様に「何故子どもは妖怪物語の主人公になるか」と言えば、それは子どもという存在がカオスに包まれた存在だからである。
再帰
 冒頭の「妖怪との共生」について。
 本作では耕太少年はちずるという先輩に振り回されつつも彼女を受容し、彼女を愛そうとする。それが「妖怪」との恋愛であることを百も承知で、耕太は日々生活を送っていく。ちずるの「母」たちが耕太少年へのテスト(結婚することを見越した上で、ちずると耕太を結婚させるべきか否かのテスト)を行っても、耕太とちずるの仲は深まっていく一方であり、周囲からも承認を得られていく。
 多文化共生社会となった昨今、我々は異質な「他者」と共生を余儀なくされる。ちずるが「妖怪」であることは、「他者」概念の比喩なのではないか。つまり、他者との共生を「妖怪との共生」に置き換えることで、このドラマは急に現代的テーマを持ってくるのである。
 映画『ビッグ・ファット・ウェディング』には保守的ユダヤ社会と陽気なギリシャ社会との「共生」の困難さとそのダイナミズムが描かれる。『ビッグ・ファット・ウェディング』では新郎側が在米ギリシャ人コミュニティに加わることで共生(ここでは結婚)を実現していた。結婚することが決まっても、共生をスムーズに行うためあえて時間をかけて新郎側と新婦側が交流をしている。『かのこん』でも「新郎」である耕太少年が妖怪社会を受容することで源ちずるとの共生を実現させようとしているのである。その受容と妖怪コミュニティからの「承認」には時間がかかるため、本作(アニメ版)では「一線を超える」ことなく恋愛関係を続けている。
 結論。「共生」にはコミュニティへの受容が必要である。そして受容され「承認」されるには時間が必要である。下手をすれば結婚を決めるまで以上に時間がかかることもあるが、それを素っ飛ばして結婚しても、結局はうまくいかない。
 従前は親やコミュニティが結婚相手を決めていた。その際、新郎側と新婦側のコミュニティの間に受容と承認のプロセスが存在していた。結婚が「愛し合う二人の問題」になった現在、新郎・新婦両コミュニティの承認なく結婚関係を行うことが多くなった。『かのこん』や『ビッグ・ファット・ウェディング』は、異文化を持つ相手と結婚をする際には両コミュニティとの間で受容と承認のプロセスを持つべきであるということを描いた作品なのである。