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岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント

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岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント

①1日の流れを、決まったものにする

②明白なルールを作り、それを一貫させる
③ルールは、できるだけ具体的にする
④ルールや日課は視覚化し、見えるところに掲示する
⑤一つ活動を行う前に、予めいつまでで終わりになると見通しを与える
⑥活動と活動の変わり目では、前もって予告をするなどの工夫をする
⑦お気に入りのことは、苦手な活動の後でする
⑧否定的な言葉を使わずに、できるだけ肯定的な言葉を使う
⑨感情的に叱ることは慎み、どうすればよいかを客観的に伝える
⑩よいことは、まめに褒めて強化をはかる
⑪よくない行動を叱るより、よくない行動をしなかったときに褒める
⑫ご褒美は、一回分は控えめで、積み重ねられるものがよい
⑬本人の特性を活かす方法を考える
⑭本人の主体性、気持ちを尊重する
⑮問題行動に過剰反応せずに、その背景を振り返る
(171頁)
 これはアスペルガー症候群にかかわらず、
わかりやすい説明や授業をする上で必要なスキルである。
 また、仕事術としても有意義であり、コーチングの際に
意識すべきリストでもある。
  
 アスペルガー症候群を知ることは、仕事のやり方・勉強のやり方を
再考することでもあるんだなあ。

岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント

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岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント

①1日の流れを、決まったものにする

②明白なルールを作り、それを一貫させる
③ルールは、できるだけ具体的にする
④ルールや日課は視覚化し、見えるところに掲示する
⑤一つ活動を行う前に、予めいつまでで終わりになると見通しを与える
⑥活動と活動の変わり目では、前もって予告をするなどの工夫をする
⑦お気に入りのことは、苦手な活動の後でする
⑧否定的な言葉を使わずに、できるだけ肯定的な言葉を使う
⑨感情的に叱ることは慎み、どうすればよいかを客観的に伝える
⑩よいことは、まめに褒めて強化をはかる
⑪よくない行動を叱るより、よくない行動をしなかったときに褒める
⑫ご褒美は、一回分は控えめで、積み重ねられるものがよい
⑬本人の特性を活かす方法を考える
⑭本人の主体性、気持ちを尊重する
⑮問題行動に過剰反応せずに、その背景を振り返る
(171頁)
 これはアスペルガー症候群にかかわらず、
わかりやすい説明や授業をする上で必要なスキルである。
 また、仕事術としても有意義であり、コーチングの際に
意識すべきリストでもある。
  
 アスペルガー症候群を知ることは、仕事のやり方・勉強のやり方を
再考することでもあるんだなあ。

生徒も「わくわく」を求めている。

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生徒も「わくわく」を求めている。

小阪裕司は「顧客のニーズなんかない。顧客はわくわくを求めている」と述べる。(『「惚れるしくみ」がお店を変える!』)

これは教育にも言えることだ。
ハッキリ言って、生徒は「学びたがっている」ことなんて、ない。
学びたいものもない。
「ほしい物」がはっきりしない分、「受験」をテーマに授業をすることになる。
そして「ニーズに応えている」と受験校の教員は述べる。
しかし、それは本当だろうか、と感じた。
内田樹は〈学びというのは「贈与」であり、学ぶまでは自分が何を学びたがっているか分からない〉と述べる。
何を学ぶか、なぜ学ぶか分からない状態から学習は存在すると言っているのである。
生徒は学びたがっているわけはない。
生徒は「わくわくすること」を求めている。
学校もひとつの総合サービス業である。
であれば、生徒の「わくわく」を誘発する「しくみ」を作らねばならない。
それが「この内容は面白い」「楽しい」ということが伝わる授業であろう。
私はかねがね、「ドラクエ並みに面白い微積の学習教材が開発されれば、日本の国富が増大する」と思っているが、
これも「楽しい」「わくわくする」状態を学校のなかに取り入れることになると考えられる。
昔のマグネットスクールの発想である。
学校に生徒自らが「惹きつけられる」状態を理想とする、ということだ。
この「惹きつけられる」状態、生徒に「何を学びたい?」と聞いても教えてくれるわけはない。
それはデパートの店員がお客に「何を売って欲しいですか?」と聞くことと同じである。
お客は思いつきのアイデアを述べはするが、それで売上が高まるわけではない。
顧客は自分の「欲しい物」を知らないためである。
日本人で理数が嫌いな人が多いのも、「あ、難しそう」と逃げてしまうからだろう。
案外やってみると、面白かったりする。
教員という仕事は、生徒が何をわくわくするか、見極めながら授業をすべき、
恐ろしく高度な「総合サービス業」なんだなあ、とつくづく思う。
もっと修行せねば。

映画『だんらんにっぽん』

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映画『だんらんにっぽん』

愛知にある、南医療生協について取り上げた映画。

組合員の出資と運営で成り立つ医療福祉制度である。
興味深いのはリアリティに関する話。
三菱重工でロケットを開発していた技術者の男性が、
ある日痴呆になる。
その人は毎日会社に行くと考えているため、デイサービスセンターに行くときも
以前の職場の前を通って行く。
そしてデイサービスの場でも「はやく会社に行かないと」とスタッフに話しかける。
スタッフは彼との関わり方を考える。
出張が多かった彼がお土産をよく買いに行っていたことに注目する。
そのため、観光地的なスーパーまで来るまで行き、彼に食材を選んでもらうようにしたのだ。
彼は自分のリアリティを周りが尊重してくれていることに感謝し、おとなしくなる。
見ていて気づいたのは、他者のリアリティをなるべく受け入れ、それを生かす努力をスタッフがしている点である。
企業人であった利用者が、仕事の誇りを持ち続けられるよう、周りが合わせているのだ。
この姿勢、重要だなあ、と思った。

金銭やものを媒介にしての教授でなければ、人は学習しないのではないか仮説。

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金銭やものを媒介にしての教授でなければ、人は学習しないのではないか仮説。

論語にはこうある。
「先生がいわれた、「乾肉(ほしにく)一束を持ってきたものから上は、[どんな人でも]わたしは教えなかったということはない」(金谷治訳注『論語』岩波文庫, 130頁)
ここを大幅に飛躍して解釈すると、
人に物を教える際、必ず何か「代価」を払わせるということが重要、とは言えないか。
学ぶモチベーションを簡単に上げる方法。
それが相手から幾ばくか金を取る、ということだ。
孔子の場合は目上の人へ教わる「礼」として、「乾肉一束」がルールであった。
このように何かを受け取るからこそ、学び手の側に「学ぼう」というモチベーションが起きたのではないか。
無料でやる芝居は客の反応が薄くなる、という。
たとえ500円でも払わせないと、客は主体的に芝居に関わろうとしない。
「金を払っているのだから、もとをとろう」と主体的になる。
だから無料で芝居をしてはならないのである。
教育もそうである。
授業は一方的な「贈与」であると解されている。
それゆえ、生徒は「受け身」になる。
教室でただ受け身で授業を聞くだけならば、本当につまらない。
「内職」だってしたくなるし、そもそも授業に出る意味がわからない。
(厳密にはちゃんと「授業料」が親なり、地方自治体からなり払われているのだが、生徒から直接払われていないため、リアリティがない)
しかし、仮に授業の際に500円を払うなり物納を義務付けるとどうなるか。
生徒は少なくとも「もと」を取ろうとする。
教員に多くを求めるようになる。
「授業」に値しない授業を堂々と批判できるようになる。
これは教員にとっても、授業実践に反省的関わりをすることを求めさせる(佐藤学のいう「反省的実践家」としての教師、である)。
教員の「自己研修」の必要性が高まる。
「お金をとれるほどの授業をしているのだろうか」と自己を振り返ることになるからだ。
(余談だが、私の勤務校でははっきりと「あなたの授業は商品になるか」を教員に求めている)
私は今までいろんな授業を受けてきて、「授業」に値しない無意味な授業も多く経験してきた。
そういった教員に反省を求めることも、「金銭」や「もの」を授業に際し受け取ることで可能となる。
内田樹は「不快貨幣」についてを述べる。
いまの「若者」がだらだら授業を聞き、だらだら過ごすのは、意識的に「自分は不快だ」という思いを相手に伝えるためだ、
と述べる。
これは「つまらない授業をなぜ私は受けないといけないのか」という思いに対する返礼である。
「つまらない授業」を一方的な「贈与」として受け取る分、何かを反対給付剃る必要がある(モース『贈与論』以来のテーゼだ)。
それが「不快貨幣」だ、と内田樹は説明するわけである。
この内田樹の説明を「乗り越える」には、授業に対し授業料をその場で払うか、物納をするということがあげられるだろう。
これにより、少なくともこの授業に対し自分は幾ばくか金を払っているのだ、という認識を与えることが出来る。
だからこそ、「役に立たない」授業・「つまらない」授業(両者は微妙に違うのだが、ここでは一括する)を生徒自身が見極めることができるはずである。
孔子だって、無料では相手に教えていない。
「労働」である以上、これは仕方ない。
しかし、「金が取れる」ような授業をしているかどうかは教員が常に自覚的であるべきであろう。

デュルタイ『教育学論集』日本デュルタイ協会訳, 以文社, 1987。

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デュルタイ『教育学論集』日本デュルタイ協会訳, 以文社, 1987。

17世紀の普遍妥当的教授学「われわれの知性が完成していく自然の歩みは教授を通してであり、そしてこの教授は経験から抽象的な真理へ、生き生きとした言語からその規則へ、子どもの最も身近な環境から遠方にある物の定位へ、と進行していくのである」(23)
「教育はそれ自体目的なのではなく、手段として心的生の発展に資するものだからである」(30)
「われわれの本質の、全然言い表されない不調和はすべて、この根源的な多様性に拠るのである」(34)
「教育は、成人した者が時代を担う者の心的生を形成する計画的な活動を意味する。他の目的に向けられた活動であっても、副次的に結果として教育にいたるときには、より広い視点から、教育という表現が用いられる」(39)
「教育の使命は、意図的体系的手段によって、個人が自主的に自らの決定したことを遂行できる状態にまで、個人を発達させることである。それゆえ、人間の運命に関する一切の経験に応じて、個人がもっている情緒や意志や観念の世界を発達させることが、すべての教育の究極的目標なのである」(62)
「個人が自己の全心情力をもってこれらの世界に完全に入り込み、つまり適切なる場において、自己の能力に応じて、自己の満足と全体の利益のために、この文化および文化の使命に関与すること、これが教育の最高の使命である」(63)
「個人は社会のなかにあってのみ性格の統一へと形成される|し、個人においてこうした陶冶が可能であるがゆえにこそ、人類もまたその性格の統一を得ることができるのである」(151-152)
「教育学は目標を立てることによってのみ有りうるのである。目標は倫理学がこれを説くが、しかし倫理学は普遍妥当的ではない」(174)
「すべての国民および時代に対して教育問題を規定することを決定することを決定しうるような普遍妥当的な教育学は、ひとつも存在しないのである」(183)
「教育史の基礎的な研究のいずれもが教えるところだが、真の改革は教室での普段の骨の折れる教育活動を介してのみ成就されるという命題は、人々の騒々しくさわぎたてるなかでは聞きとられない」(193)
●解説
「スペインの思想家オルテガ・イ・ガセットはデュルタイの主要な理念を明白に要約した。彼はいう、「デュルタイによれば、人間は何一つ本質というものをもたない。人間がもっているものは歴史だけである」と」(244)

「教育学は「教育という現象そのものを提示し、これをできるだけ明らかに心理学的に分析する」学問であり、とりわけ「教師と生徒の関係の叙述」を事とする学問である。そしてまさにこのことがデュルタイの教育学体系の中心課題であった」(254)

リチャード・ワイズマン, 2002, 『運のいい人、悪い人 運を鍛える四つの法則』矢羽野薫訳, 角川書店, 2004。

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リチャード・ワイズマン, 2002, 『運のいい人、悪い人 運を鍛える四つの法則』矢羽野薫訳, 角川書店, 2004。

「運がいい」と思っている人のほうが、相対的に「幸福」になり、「成功」しやすくなる、という本。

著者は「自分は運がいい」と思っている人・「運が悪い」と思っている人を比較軸にし、実験をする。
コイントスやナンバーくじの「当たり」具合をみる。
結果的に、「運がいい」と思っている人も「悪い」と思っている人も、
くじやコイントスに当たる確率に差はなかった。
「運がいい」人に特別な予知能力があるわけではないことを科学的に証明する(そのあたりがアメリカの学者だなあ、と思う)。
しかし、「運がいい」人と「悪い人」には大きな違いがある。
「運がいい」と言っている人は「悪い」という人よりも積極的に挑戦をするのである。
「運がいい」と言っている人の中には、何度も宝くじや抽選に当たる人がいる。
この人たちは、例えば「週に70通は応募する」人がいるなど、非常に挑戦的なのだ。
「運が悪い」といっている人は、そもそも応募もしないし、くじを買うこともしない。
「運が悪い」からと諦めるのだ。
だから結局なにも変わらない。
これは何もくじや抽選のみでなく、たとえばキーマンとの接触についても当てはまる。
「自分は運が悪い」と思っている人は、そもそもキーマンと会っても話しかけようとしない。
しかし、「運がいい」と思っている人はダメモトで話しかけるのだ。
そして運をものにしていく。
要はこういうこと。
「自分は運がいい」と思っている人のほうが、「悪い」と思っている人よりも人生が楽しくなる、ということだ。
「自分は運が悪い」と思っている人は、やる前から「どうせダメだろう」と考える。
だから必死になって努力しない。
うまく行かないのは必然なのだ。
一方、「自分は運がいい」と思っている人は、思わしくない障害があっても積極的に努力していく。
それは「運がいい」からこそ、「必ず乗り越えられる」と確信するからだ。
心理学、意外に面白いもんだ、と読後思う。

子ども虐待について

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子ども虐待について

子どもの虐待を防ぐため、政治の分野を中心に改革をしようとしている友人と飲む。

話は、いかに虐待を防ぐか、というテーマ。
旧共産圏の国のように、
親から教育権を取り上げ、
国が教育をする。
この場合、子どもがきちんと育たないなどの弊害が大きかった。
だからといって、国が許可を得た親のみに
子育てを可能にするというのも弊害が大きい。
この両者から言えるのは、子育ての権利を国が付与するという発想の仕方は難しい、ということである。
だからこそ、親自身が自分の子育てを反省的に考えていく以外にない、ということになる。
その方法を巡り、友人と語り合ったがなかなか面白かった。
私は虐待を行う家庭が貧困家庭が多いため、
貧困家庭を対象とした所得再分配を主張した。
友人はそれに対し「単なる経済の問題で解決できないのではないか」と語っていた。
なかなか、虐待をめぐる議論は難しい。
だからこそ、友人とは今後も色々語っていきたいなあ、と思う。
私は今年4月から通信制高校のサポート校で教員になる。
そのため、低学力層への支援というのを嫌でも考えさせて頂く立場になる。
教員の実践を通し、虐待といった教育問題を乗り越える方途を考えていたいと思った。

アイデンティティに関する一考察

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アイデンティティに関する一考察

知り合いとの話。

アイデンティティの確立についての話。

私の考え。

自己を確立しちゃった人はどんな人か。
それは、「ぼくはどうせ人間関係うまくないから」と引き籠もっている人である。

だから自己の確立を目標にすると、
結局は引きこもるしかない。

新たに人とも会わず、
何もせず、
自分の世界のみに浸ること。
アイデンティティの確立を目標とすると、
結局は自分の中に引きこもるしかないのである。

私は自己複数性としての
自己を作っていきたいと思う。

自分が確立する必要なんて、何もない。
「未見の我」を求め続ける姿、
なんにでも興味を持ってやっていく姿、
その過程を「自分」にしたい。

札幌に「留学」にいくのも、
それが目標だ。

もっと複雑な自己を作っていきたい。
たくさんのキャラを演じられるようになることが
幸福だと感じているからだ。

教育における日常/非日常

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教育における日常/非日常

教育が日常になると、すべてがつまらなくなる。

同じ教室、同じ友人、同じ教員。
マンネリズムに陥っていく。
そんな「終りなき日常」に、人びとは飽きてくる。
だからこそ私は「非日常」を基にした学び・教育を行なっていきたい。
セミナー、イベント、演劇etc.