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本田直之, 2009, 『本田式サバイバル・キャリア術』幻冬舎.

今日は勤務校で、高校3年生による高校1〜2年生への進路報告会を行った。

進路を決めた3年生から、後輩に「自分が進路のために取り組んできたこと」「アドバイス」を語ってもらう、という場である。

就職を決めた生徒の口から「会社への貢献ができるようがんばりたい」との発言があったことを、素直に「すごいな」と感じている。

それは、私が高校3年生の頃には考えていなかった視点だったからだ。
私が高校生の頃、「大学」に行くことが当然視されており、高卒就労という道はほとんど考えていなかった。
そのため、「会社への貢献」という発想は出ておらず、社会に出る意識もなかった。

だから、「社会」と向き合う姿勢を既に持っている点で「すごい」と感じたのである。

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さて。

本書は変化しゆく現在においての「キャリア」の捉え方を提示した本である。

現在は給料がだんだん増えていくという時代(「連続性の時代」)では、ない。
給料が減っていったり急に増えたりと言った風に、「非連続の時代」である。

リーマン・ショックの背景には、「連続性の時代」から、未来の予想がまったくつかない「非連続性の時代」への変換という、大きな時代のうねりが存在したのです。(21)

 

この「非連続の時代」において、「サバイバルする」という発想が今まで以上に必要になる。
サバイバル、つまり生ききり、生き抜くには、「マルチ・キャリア」の発想が生きてくる。

「シングルからマルチへ」という思考は、キャリアを考えるうえでも非常に有効です。
私は、サバイバル時代には、シングル・キャリアという思考をいったんリセットしたうえで、マルチ・キャリアをリビルドすることが、すべてのビジネスパーソンの課題だと考|えています。
シングル・キャリアとは、主に会社の内部で通用するスキルをベースにした「コーポレート・キャリア」だけに依存した働き方。マルチ・キャリアとは、それと並行して、会社を離れても通用する個人のスキルをベースにした「パーソナル・キャリア」を築いていく働き方です。(49-50)

☆余談だが、私がかつて学部生時代に書いた「ひとつより、ふたつ」の発想でもある。

パーソナル・ブランドづくりのための情報発信の際に大切なのは、出し惜しみしないことです。たとえば自分が読んで面白かった本、思いついた新しいビジネス、街で見かけたアイデアなど、有料にしてもいいくらいクオリティが高いものを公開していくことが、最|終的には大きなリターンをもたらします。(113-114)

 

かつては、「働き方もライフスタイルも、人並みなコースに乗れればそれで十分。自由よりも安定がほしい」という選択肢が存在しました。しかし今はそれがない。好むと好まざるとにかかわらず、誰もが自由への決断を迫られ、リスクや不安を引き受けなければならないのが、これからの時代の厳しさです。
問われているのは本当の意味での自己責任です。誰もがそこから逃れられないならば、そのなかでハッピーで生きていくために、サバイバビリティを鍛えるしかありません。そのときに強力な武器になるのが、時代はどこへ向かっているのかという「この先のうねり」を見抜く力です。(198)

高校3年生の生徒は、この「非連続の時代」に、社会に出ていく。
その中で、自己のキャリアを築いていく。

卒業してからも、応援をしていきたい。

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鼻血と向き合う。

最近、なぜか急に鼻血がでる。

しかも、大量に。

これまでの人生では鼻血が出て困ったことはほとんどなかった。そのため、いま、困っている。

 

一番困るのは「さあ出勤だ」という時に出る鼻血。

止まるまで、活動が一切できない。

(無理に行うと、「血を流しながら出勤」という笑えない状況になる)

何か問題が起きた時の対処の仕方は、基本的には次の通り。

(1)問題を見つめなおし、「何が問題か」を再度定義する

(2)問題の原因を見つめる

(3)問題に対処する策をいろいろ出し、使えるものを行う

このうち一番大事なのは意外にも(1)である。

ドラッカーの『マネジメント』においても、大事なのは問題を定義すること、とおある。

「何が問題か」を見ずに問題に対応しようとしていることはかなり多い。

例えば、いろんな人がやっているダイエット。

「ちょっと太ったかも」でダイエットを行う場合、「本当に、「ちょっと太っている」のか」「適正体重から見て、どれくらいずれているといえるのか」「何キロぐらい太っているといえるのか」を定義しなければ、不幸が始まる。

「なんとなく太っている気がする」状態が長く続き、その間ずっと「自分は駄目だ」というネガティブ感情が続いていく。

(「地球温暖化」も、ある意味これに入る。本当にCO2が温暖化の原因か、実はハッキリとはわかっていない。その状況でCO2削減を目標とすることは

この鼻血についても、(1)〜(3)を行ってみたい。

(1)問題を見つめなおし、「何が問題か」を再度定義する

・鼻血が急に出てきて、流れている間作業が出来ないのが問題。

・・・鼻血が出ること自体ではなく、「急に」出ること・「長く」出ることにより作業できないことが問題だと分かる。

(「鼻血が出ないようにする」ということが問題解決ではなく、鼻血が出てもすぐ止まることが問題解決である)

(2)問題の原因を見つめる

・空気が乾燥している

・免疫力が低下しており、鼻からの出血がなかなか止まらない

・・・この原因は、厳密にはわからないので保留とする。

(3)問題に対処する策をいろいろ出し、使えるものを行う

・ポケットティッシュを常備する

・鼻血の対応策をネットで調べる

・・・大体この位だろうか。

(1)〜(3)は月並みな発想に見えるが、思わぬ発見があることがある。

さて。

(1)〜(3)の問題解決策だが、一つ抜けがある。

(4)この問題から何か学びや発見はないか

個人的には、この(4)を考える習慣を付けたい、と考えている。

(4)の視点は、ネガティブな問題をポジティブに変えるはたらきがある。

私の鼻血の場合、私は何を学び、何を発見できるのだろうか。

一つには、血に対する慣れがあげられる。

子どもの頃と違い、大人になればあまり出血することは少ない。

特に男性の場合はそうである。

普段からの鼻血により、血を見て動揺することがかなり減った。

二つ目には、「ちょっと野菜を食べよう」などと、自分の健康に対し目を向けるようになったことがある。

いずれにしても、問題をただ「問題だ!どうしよう!」と騒ぐのにはあまり価値がない。

問題を見つめ、問題の原因を探り、対応策を考える。

その上でさらに問題からの学びを考える。

そういった姿勢、もっと学んでいきたいものだ。

アクション映画のテーマ

アクション映画のテーマはいつも組織と個人。私が映画をみるのはその一つの解法を知るためだ。

藤本研一

映画館と人生

ネガティブなときは映画館に行こう。つまらない日常など、アクションとロマンスで打ち砕くのだ。悩みもイライラも、一幕のうちに捨て去ってしまえ。

新ブログのお知らせ。

本ブログを拝見下さり、大変にありがとうございます。 実はしばらく前より、新ブログの方に中心的に投稿を行なっております。 Ishida Hajime’s blogは、大学2年の時からはじめております。 大変思い入れの深いサイトです。 かれこれ4年間、更新し続けました。 おかげ様で記事数も1100をはるかに超えております。 ひとえにご覧くださっている皆さまのおかげです。 ですが、今年4月から社会人となったこともあり、 いよいよ「本番」として気持ちを切り替えようと思っております。 そのため、(しばらくは)本ブログではなく、 次のサイトに投稿をしていきます。 日本ノマド・エジュケーション協会 https://nomad-edu.net 今後も、継続して私のブログを読んでくだされば、 作者としてこれほどうれしいことはございません。 これからが「本番」。 変わらぬご支援をよろしくお願いいたします。

アラン『アラン教育随筆』橋田和道訳, 論創社, 1999。

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アラン『アラン教育随筆』橋田和道訳, 論創社, 1999。

アランは私の最も好きな哲学者である。

なにより、直接的なのがいい。
「疲れた時に、その理由を考えたりするのではなく、
まず伸びをしよう」
「不幸につながる考えはすべて間違った考えである」
「まず自分が幸せになろう」
読んでいて元気になる哲学書はあまりない。
『アラン教育随筆』はアランの教育に関する
エッセイ(=プロポ)をまとめたもの。
なかなか勉強になる箴言が多い。
「何かを知っているという場合、大変な不都合がある。もうそれを学べないからだ。何かの定理が証明されている場合、大変な不都合がある。もう自信を持ってそれを推理できなくなるからだ」(20)
「教養人の力の一つは、完全に忘れるということだ。身ぎれいにし、沐浴し、汚れを落とす。あらゆる教養人には、つむじ曲がりのところがある。つむじ曲がりのところと気骨とがある。くどくど考えようとはしない。彼は歩く。そしてまだ繁っていない葉のあいだを月が一緒に走るのを見る。ここに彼の天文学書がある」(29)
→教養人は事物からものを考える。
何か書物だけでものごとを判断する人ではない。
「良心(カンシャンス)は決してためらわない」(45)
「どうやらここに、つぶさなければならない偏見がある。それは、教育があれば当然地位が約束されるべきだ、というものだ。一体、学問とは、どういうふうに理解されているのだろうか(…)学問は、それ自体によっても、万人にとってもいいものであり、また万人の手に届くところにあり、常識が培われたものに過ぎない、という考えがもてるまでにならなければならないだろう」(48)
→昨日書いた、生涯学習に関しての論考に関係のある点である。
「道徳的生活にはいるとは、まさに規則から解放され、自分自身で判断し、結局は自分にしか従わないことだ。ですから教育は、道徳がなくても、教育のない道徳より道徳的なのであります」(53)
「音楽も、聞くだけにとどまっていて全く歌わないなら、喜びはほとんど得られない。だからある知恵者は、音楽とは耳でなく喉で味わう、と言った」(124)
「まず幸せになれ、とはかの賢人が言うとおりである。なぜなら幸せは、平和の果実として得られるものではないからだ。幸せこそ平和そのものなのだ」(129)
「ばかとは、人の意を迎えるために自分の考えを変える者だ。ばかとは、意見を流行のコートのように着ける者だ。ばかとは、いやいやながら好きになろうとする者だ」(261)
「負けるな、そこからはい上がれ、自分自身を助けよ、人には自分自身を助ける力があると信じろ。その証明は試練しかあり得ない。最初の努力と最初の成功によって自信が生まれるだろう。意欲を積み重ねれば、意欲の持ち方を知るだろう」(272)
「幸福はいつも逃げ去る、と言われる。これはもらいものの幸福についてなら正しい。なぜなら、もらいものの幸福なんてないからだ。だが自分で得る幸福は本物だ。それは学ぶことだ。そして人は常に学ぶ。知るほどに、ますます学ぶことができる」(125)
私が気になるのは、アランが経験学習や実物教授を批判している点である。
そのロジックが、あんまり理解できない。
「自分で経験する」ことの大事さをアラン自身も重視しているからだ。
おそらく経験で終わってしまう「はいまわる経験主義」批判をしているのだろう。
「経験は、絶えず正義を否定するからだ。一体だれが金持ちになるのか。一体だれが征服するのか。一体だれが近代式の学校を建てるのか。それは、不平等に賭け、このこと自体によって勝った者と決っている」(267)
この点は、経験主義の学校が金持ちのためのものになってしまう点に近い。
109ページのところで、経験学習ははじめの一歩としてのみ、役立つと述べている。
それはあくまで入り口であり、地球や科学法則については経験では学べない、ということを述べている。
経験のみでなく、想像についても批判的だ。
「なぜなら、実際、経験は万人に降り注ぎ皆が等しく濡らされるが、皆が等しく学ぶわけではないからだ。人間らしい心の仕事は、そういう物を考え直すことにあるのであって、光り輝くものとか燃え上がるものとかだけを見つめることではない。これは犬猫には決してやれないことである。犬猫は想像のみで生きる」(110)
アランの経験主義批判について、どなたかお教え下さいませ。

働くことと学ぶこと

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働くことと学ぶこと

実際に働くようになってから、

中谷彰宏さんだとか
本田健さんだとかの書いた
勉強本の「すごさ」がわかるようになりました。
彼ら自己啓発本の著者たちは
「社会人こそ勉強しなければならない」
といいます。
学生時代、「ああ、そうだな」と軽く読んでいました。
ですが、社会人になってからこのメッセージの重要性と困難さに
改めて気づきました。
昨年度、私は通信制大学について研究していました。
通信制大学で学ぶ人たちは
「仕事と勉強の両立」を口にします。
この「困難さ」を乗り越えるため、
学生会組織などを作り、相互に励まし合うわけです。
この4月から、通信制大学に学ぶ人達の「気持ち」が若干分かるようになりました。
仕事で疲れた後、「勉強」できるのは
すごいことなのだと気づきます。

大学院生時代、教員をしながら博士課程・修士課程で学んでいる人を
何人も見ました。

そういった方々の「すごさ」を改めて実感しています。

社会人になって1ヶ月。
ゴールデンウィークは自分のこの1ヶ月の経験を再帰的に振り返る
よい機会となりました。
ただ、通信制で学び人が言いがちな「仕事と勉強の両立」という言葉。
これを述べる必然性は必ずしもないように思います。
なぜなら、通信制大学での学びや社会に出てからの学びは、
すべて「自分」の意志で決めているものだからです。
別に誰も「両立してくれ」といっているわけではありません
(来年度も雇ってもらうため、教員免許の教科を増やす教員などは除きます)。
自分でやった「決断」によって「両立」を余儀なくされるというのは、
学びが「義務」「苦痛」という思い込み(ドクサ)を捨て切れていない点からきているように思われます。
別に誰も「仕事と勉強の両立」なんか、求めていません。
そのほうがいい仕事ができるようになり、
いい生き方ができるようになり、
人生を楽しく生きれるようになるための「選択」であるはずだからです。

月寒の温泉

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月寒の温泉

月寒中央駅まで行き、
月寒温泉・緑の湯にいます。

https://homepage3.nifty.com/yu-meguri/tennpo/midori_.htm

札幌駅から地下鉄東豊線ですぐいける場所にある温泉。
札幌ってすごいなあ、と思います。
(ただ、駅からは歩いて25分ほどかかりました)
札幌はいまが桜の季節。
ゴールデンウィークに桜を見ながら露天風呂に入れる。
最高ですね。
おまけに雨が降る中入る露天も
趣きがあります(今日は雨です)。
今日、緑の湯には私のように
「ゴールデンウィークをどう過ごしていいかわからない」人や
親子連れが多くきております。
昔から私は温泉が好きでした。
自分の所有物を一度形式的に捨ててからでないと
温泉に入れない、という点に心が惹かれているのでしょうか。
温泉には身一つでしか入れない。
そんなシンプル・ライフへのあこがれが私にはあります。

『24時間先生 大丈夫。俺がそこから出してやる』荒井裕司, 2004, メディアファクトリー。

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『24時間先生 大丈夫。俺がそこから出してやる』荒井裕司, 2004, メディアファクトリー。

東京国際学園高等部 校長の物語。

荒井は”夕方6時までは校長、6時からは先生”として、
引きこもりの子どもの家をクルマで訪問する。
そして彼らとコミュニケーションを取る中で、
社会とかかわるためのきっかけを提供する。
自分の経営する学校やフリースクールに入れることが目的ではない。
純粋に引きこもりの子どもと関わるのが「楽しい」から、
関東中をクルマで走り回る生活を20年も続けている、という。
こういった純粋贈与を行なっている「教育者」を見ると、
「自分はまだまだだなあ」という戒めを受け取る事が出来る。
「受け皿となる学校は作ったが、それで仕事は終わりではなかった。
 ひきこもり、不登校の子どもたちは、目の前にいるわけではないのだ。夜、繁華街のクラブやカラオケボックス、ゲームセンターで会えるわけでもない。当然、学校や教室にいることもない。
 救うべき子どもたちの姿は見えず、救いを求める声は聞こえないのだ。/
 ならば、どうするか? こちらから行く」(121-122)
 ノマド・エジュケーションの本領発揮である。