書評

書評『超「超」整理法』(野口悠紀雄)

 中公新書の名作に『「超」整理法』がある。「押し出し式ファイリング」という整理法を世に提唱した本である。梅棹忠夫の『知的生産の技術』の次くらいに読んだ本だ。当時私は、中学生であった。「超」整理法とは、《紙媒体の情報は、大きな封筒にいれ、本棚の端から順に入れていく。使用するたびに、使った資料を再び端に入れる》という整理法である。項目ごとに袋を作る事をしない。一見、整理しているように見えない。けれど、使ってみれば利便性がよくわかる。
 野口は『「超」整理法』以外にも、多くの著書を持つ。そのなかでは常に、《無意味な事はしない。誤解を起こさない》という原則に従った理論を立ててきたようにみえる。『「超」整理法』では無駄な整理を批判し、『「超」発想法』ではKJ法のような機械的発想法の限界を指摘し、『「超」勉強法』では伝統的学習法を批評した。そしてそれぞれについて、新たな方法論を示した。
 『超「超」整理法』は、情報社会の現代に合う形で、野口が『「超」整理法』を書き直した本である。『「超」整理法』は今から15年前の発行。開いてみると「FAXの活用法」やウインドウズ以前のパソコンを用いた文書作成法について言及されている。
 『超「超」整理法』は、これから研究者を目指す人や知的生産を行っていきたい人にとって、福音の書となる。それは今までの「論文の書き方」や「研究の仕方」といった書籍に書かれていない技法が大量に書かれているからだ。《Gメールを使用し、データをメールするようにすれば、デジタル・オフィスは知らぬ間に完成する》、《「検索力」の重要性》、《これから必要とされるのは、問題設定・仮説構築力・モデルでものを考える力である》などなど。
 個人的に興味深かったのは、次の部分である。

問題を捉え、仮説を立てるには、「考え抜く」しかない。では、考え抜く能力を高める事は可能だろうか? 私は可能だと思う。
 確実に言えるのは、「知識が増えれば、この能力が高まる」ということだ。社会科学、人文科学の分野では、明らかにそうである。ビジネスにおいても、そうだろう。広く、日常的なことについてもそうである。
 検索で得られる個々の「情報」が断片的なフローであるとすると、それらが集積したストックが「知識」だ。その体系は「理論」と言ってもよい。たとえば、経済問題であれば、経済学の知識がこれに該当する。(pp244〜245)

 いくら「検索能力で差がつく」という時代になっても、基本的にはきちっと体系だった学問をしていく必要がある、というのだ。気軽にググれば「情報」は簡単に手に入る。しかし、それらの情報をどのように活用できるかは、体系だった知識があるかどうかによって変わってくる。
 真に「考える」ためには、体系だった勉学が必要なのだと気づいたのであった。
/野口悠紀雄『超「超」整理法』(2008年、講談社)

アランと肉体

「あれこれ悩むな。考えるな。その間に動け、歩け、走れ、体動かせ。」アランの本を読んで思ったことだ。

人間は思考を重視し過ぎている。もっと「考えない」重要性を見てもいいのでないか。人間も、所詮はサルである。考えるのは人間の特徴だが、それに絶対の価値のあるわけでない。

もっとパパラギでいってもいいのでないか?

疲れたとき、人間はもう無理だ、と思う。アランなら「そんなこという間に、寝ればいいじゃないか」というだろう。

「両立なんて無理だ」と考える前に、ただ淡々と「考えず」やるだけことだ。自分も「これはむりでないか」と考えるほど、無理のように思え、実際無理になったことがあった。高校時代である。