抜粋集

奥地圭子『学校は必要か』NHK出版、1992

 東京シューレが出来て7年目に出た本。その時点での奥地の著書に『女先生のシンフォニー』(これは教員時代の1982)、『登校拒否は病気じゃない』・『東京シューレ物語』・『さよなら学校信仰』・『お母さんの教育相談』・『登校拒否なんでも相談室』があり、手記収録に『学校に行かないで生きる』・『学校に行かない子どもたち』がある。シューレ発足からわずかの間にかなりの関連書が出されていることがよく分かる。当時、東京シューレという存在は非常にもてはやされた。現在はあちこちに「フリースクール」が出来たため、東京シューレそれ自体への注目度は人々の間で下がったのではないか。
 「不登校」と言わずに「登校拒否」と言っている所に時代を感じる(奥地が後に書いた本は『不登校という生き方』である)。
 本書は「学校離れを起こしている子どもたちを『直そう』とするのではなく、子どもが背を向けていく学校を問い直すことの方が必要である」(222頁)との発想から《「どんな学校なら必要か』を考えてほしいという問題提起》を起こす、という目的のもとで書かれている(あくまで目的の一つであるが)。学校へ行くことで個性が失われたり、子どもが無気力になったり、(いじめなどで)傷ついたりしてしまう。それでも大人(親・教師・一般人)は「それでも学校へ行け」と子どもを責める。重要なのは学校のあり方を考えることであるにもかかわらず、子どもをムリに学校に適合させようとする。これはベッドに合わせて人を引っ張って伸ばしたり、足を切断したりするというプロクルステスのベッドと同じである。
 印象深い点を引用。

東京シューレをやるようになって、はっきりと見えてきたことだが、教師時代の研究授業や研修の方向は、四十人なら四十人の子ども全員を、一斉に、四十五分間いかにこっちを向かせるかの技術訓練だったのだと思う。(73頁)

子どもは何らかの強制力がないと勉強しないものだ、学ぶはずがない、だから子どものやる気を待っていてはダメで、大人が何かやらせないと、楽なほう(やらないほう)に流れるに決まっている、それでは生きていけるようにならない、と思っている大人は実に多い。「でもそれは違う」という私の考えはまちがっていなかった、と東京シューレ七年の実践で思えるのはうれしいことだ。(89頁)

 奥地が指摘する点、結構多くの人が話す内容である。子どもに自由を与えるのは危険だ、などなど。これ、子どもを不信の目で見る立場である。ニイルほど信用するのも危うい気がするが、それでも現在の日本では子ども(さらに言うなら若者)への根強い不信感が漂っているようである。だから子どもを縛るためにココセコムやら改札を通るたびの「お知らせメール」やらの技術開発が要求されるのだろう。まさに「学校身体の管理技術」が発達し、子どもがどんどん不自由になっているのだ。
 私たちはもっと子ども(や若者)を信頼してもいいのではないだろうか。そう思う。

野村幸正『「教えない」教育』二瓶社、2003年

 本書のサブタイトルは「徒弟教育から学びのあり方を考える」。心理学者の立場と、仏師に弟子入りしている立場両面から「徒弟教育」という「教えない」教育のもつ意義についてを語る。暗黙知・正統的周辺参加などのキーワードを元に説明をする本である。

いま、教育に人の働きが発揮されると、単に教える者から教わる者へと教授すべき内容の情報が移動するだけではない。その情報を取り巻く世界が共有され、それを学ぶ意味あるいは喜びといったものが、教える者と教わる者とが一体化したかかわりのなかで共有されていく。そして、それがそれぞれに分化し対象化されてゆくなかで、情報が情報として伝達されてゆくことになる。それはもはや情報の伝達云々以上のものであり、情報の創造と言ってもよいほどのものであろう。そして、この人の働きをもっとも強調した教育が、すでに言及した徒弟教育である。さらには正統的周辺参加である。(105〜106頁)

 ここにあげた「あえて、教えない教育」を実践するのはいささか難しい。けれどその中に日本の教育(公教育も私教育も入る)の改善点があるのではないか。ちょうど原ひろ子『子どもの文化社会学』にあった「教えられることに忙しい」子どもが日本に多く存在しているのだ。

教師としての職業を遂行してゆくこともまた難しい。ましてや教えることを仕事とする教師が「教えない」とまで言い切ることは、余程の力量と自信があってはじめてできることであろう。そして時には、この教えないことが教えることよりもはるかに重要な意義をもつこともある。過剰教育が問題となるのは、単に知識を与え過ぎる云々を超えて、せっかく子どもが直面した生の体験を自らの言葉で表現してゆく機会をも奪ってしまうからである。教えられるがゆえに、子どもたちは自らの言葉で考えぬくことを放棄してゆくこともあるに違いない。それを放棄した子どもがその後どういう道を辿るかは言うまでもない。(130〜131頁)

 著者の野村は「教えない」教育である徒弟教育に最大限の評価をする。けれど、広田照幸も言っているが、徒弟教育は「あわない」個体(子ども)を排斥するなかに成立した制度であることについてを忘れてはならない。仕事に不適応な子どもが自主的/他律的にいなくなっていくからこそ、効率的ではないが「技」の習得/仕事による自己形成という教育作用が徒弟制度にあったのだろう。
 それゆえ、現在の公教育のように《分からなくても、とりあえず教員が語り続けるのをじっと聞く》ことの意義も、不適応な子どもの排斥が無い分、一定程度評価しなければならないだろう。

I・イリイチ著、渡辺京二訳『コンヴィヴィアリティのための道具』日本エディタースクール出版部、1989

すぐれて現代的でしかも産業に支配されていない未来社会についての理論を定式化するには、自然な規模と限界を認識することが必要だ。この限界内でのみ機械は奴隷の代わりをすることができるのだし、この限界をこえれば機械は新たな種類の奴隷制をもたらすということを、私たちは結局は認めなければならない。教育が人々を人工的環境に適応させることができるのは、この限界内だけのことにすぎない。この限界をこえれば、社会の全般的な校舎化・病棟化・獄舎化が現れる。政治が、エネルギーや情報の社会への平等な投入に関わるというよりむしろ、最大限の産業産出物の分配に関わるのが当然とされるのも、この限界内のことにすぎない。いったんこういう限界が認識されると、人々と道具と新しい共同性との間の三者関係をはっきりさせることが可能になる。現代の科学技術が管理する人々にではなく、政治的に相互に結びついた個人に仕えるような社会、それを私は‘自立共生的’と呼びたい。(ⅹⅴ)

ボウルズ/ギンタス著『アメリカ資本主義と学校教育2』(岩波現代選書、1987)

 上・下2巻に渡るこの本で、著者は何を明らかにしたかったのか。

経済の変革と教育の変革とが対応した過程を通じて起こるという、この歴史的な解釈にもとづくとき、教育制度とイデオロギーの主要な転換は必ず、生産構造、労働力の階級的構成、抑圧されている集団の性格の変移によって惹き起こされてきた。(182頁)

 教育社会学において、〈教育〉の使命は単純明快。「選別」と「社会化」である。社会が要請する人材を選び出し(「選別」)、とりあえず社会の構成員になってくれるよう育成する(「社会化」)のが〈教育〉なのだ。ここでいう社会の要請とは、要は経済界の意向なのである。この主張はボウルズとギンタスがネオ・マルキストであるために起こっているのだろう。マルクスは経済の規模やシステムの変化が、社会構造の変化を招いたと説明する。経済が政治体制・社会構造を決めるのであって、その逆でない。ゆえに〈教育〉も経済の構造から抜け出すことはできないのだ。
 教育を語るなら、経済を知らなければならない。

何故、わが国の青少年に対して権威主義的な学校という重荷を負わせようとするのであろうか。何故、若い人々が、その日々の大部分を無力感、人間の尊厳を犯すような独裁的な規律、絶えざる退屈感、行動の矯正という雰囲気のなかですごさなければならないのであろうか。何故、民主主義的な社会で、各人が最初に公的な機関と接触するのがこのような徹底的に反民主主義的なものにならざるを得ないのであろうか。
 最近多くの人々がこのような疑問を投げかけてきた。ここからフリースクールという新しい運動が起きてきたのである。(177~178頁)

 この部分の後、しばらくフリースクールの話が続く。近代教育批判者の一団として、「ジョージ・デニスン、ジェームズ・ハーンドン、ハーバート・コール、ジョナサン・コゾールの私的日記から、ジョン・ホールトのプラグマティックな主張、チャールズ・シルバーマンの本格的な社会的分析」(178頁)と名前を挙げている。非学校論者として、私もこれらの人々の本を学んでいくこととしよう。
 ボウルズとギンテスはフリースクール運動に必要なこととして、≪運動のなかに、学校が社会から独立したものであるという考えをはっきり否定し、学校をその社会的、経済的な文脈の中で具体的に位置づける分析的立場の展開がなされなければならない≫(179頁)。これは、本書において経済が教育を大きく変化させてきたことを述べていることと関係が深い。つまり、「よい教育をしよう」としても学校だけで教育を成り立たせることの不可能性を知らなければならない、ということである。『日本を滅ぼす教育論義』において著者が主張したのも、教育と経済との密着不可分性を認識することの重要性であった。

 この本は、結論的に社会主義革命によってしか社会変革を根本的に行えないことを主張する本である。ネオ・マルキストの本であることを認識しておかないと、誤読をしてしまう。

 気になる部分を抜き書きして、本稿を終えよう。

教育制度は人々を教育して、経済生活で地位を得て仕事をすることができるようにするわけであるが、教育制度自体の社会的関係は、事務所や工場の社会的関係に合うようにつくられている。したがって、学校教育の抑圧的な側面は決して非合理的ないしは邪道なものではなく、むしろ、経済的現実を、体系的、普遍的に反映したものとなっている。解放された教育ということだけでは職業的なミスフィットと職場ノイローゼの蔓延をもたらすことになる。それだけでは、教育の自由化には役立たない。抑圧の原因が学校制度の外部に存在しているからである。かりに、学校がより人間的な形態をとるべきであるとするならば、職場もまたより人間的なものでなければならない。(179~180頁)

基本的には、教育制度は、経済の分野から起こってくる不平等や抑圧の度合いをつよめたり、弱めたりすることはない、むしろ、教育制度は労働力の教育と階層化の過程においてすでに存在しているパターンを再生産し、正当化する。このことはどのようにして起こるのであろうか。このプロセスの核心は、教育的な体験の内容あるいは情報伝達の過程にあるのではなく、その形態、教育的体験の社会的関係にある。これは、経済の分野における支配、従属、動機づけの社会的関係に密接に対応している。各個人は教育的体験を通じて、成人して労働者となったときに直面する、無力感の度合いを受け入れるよう誘導される。(205~206頁)

追記
●本書はフリースクール運動の欠点の指摘(180頁など)をしている。またイリイチの『脱学校の社会』に対するコメントも本書には掲載されているので、修士論文を書く際には読み返すこととしよう。

ボウルズ/ギンタス著『アメリカ資本主義と学校教育1』(岩波現代選書、1986)

 教育制度を変革することを意図するならば、経済制度も考慮しなければならない。この本はこのことを主張する。アメリカで学校教育が成立した歴史を振り返り、常に経済的影響を教育が受けてきたことを説明するのだ。

要するに、われわれがここで展開するアメリカの教育制度にかんする分析は、教育改革の運動が挫折したのは、経済分野における所有と権力の基本的な構造を問題とすることを拒否したからであるということを示唆している。(…)教育制度が平等主義的、かつ人間解放的となるのは、社会生活のなかでの全面的な民主的参加を可能にし、経済的成果の平等な配分を受けることができるように若い人々を教育することができるときだけである。(…)このように考えれば、教育改革の戦略は、経済制度の革命的変革の一部をなしていることになる。(23〜24頁)

 以下、気になる点の抜き書き。

教育と資本主義経済との間に存在する決定的な関係を、どのようにすればもっともよく理解できるであろうか。まず始めに、学校が労働者をつくりだすという事実から出発しなければ、十分な説明にはならないであろう。(16頁)

経済制度の構造に対して疑問をもたないかぎり、現行の学校教育制度はきわめて合理的なものであると言えよう。したがって、制度改革は、一般の人々に対して論理的または道義的な論点を訴えるだけでは不十分である―オープン・クラスルームを首唱する人々の大半より一般の人々の方が、社会の現実をよく理解していると言ってよいであろう。(15頁)

 フリースクールに関する考察も多い本である。

池谷壽夫(いけがや・ひさお)『〈教育〉からの離脱』青木書店、2000

 この本を、私は大学の図書館で借りた。久々に、「購入したい!」と思う本と図書館で対面することができた。
 例によって、アンソロジー的に紹介したい。
 なお、池谷のいう〈教育〉とは、≪近現代に特有な教育のあり方を、それ以前のいわば共同体に埋め込まれて営まれていた教育と区別する意味で、〈教育〉という言葉で表現≫(9頁)するために、岩崎弘昭の『講座学校1 学校とは何か』(柏書房、1995)にならって持ってきた概念である。それにより、「人間が生きていくうえで不可欠な活動様式のひとつである教育一般」(同)と「近代に特有な教育のあり方」(同)とを区別できる。その上、≪〈教育〉を否定しそのオールタナティブを求めたとしても、それは教育一般を否定することにはならない≫(同)という良さがある。そこに続く≪近代的な〈教育〉は、人類が生き延びていく上で、資本主義的生産様式のもとで作り上げてきた活動様式とシステムのひとつの選択であり、そのあり方こそが今問われているのである≫(同)という指摘も興味深いものだ。

近代日本においては、公教育の成立と同時に、まずは家庭とそこでの教育が学校教育を補完・強化するものとして位置づけられる。次いで、家庭は国家社会の基礎をなすものとして積極的に位置づけられる。ここでは、家庭の親のいっさいの行動と文化が「卑猥か清浄か」という〈教育〉的規範に基づいて点検され、〈教育〉的なもの(「健全な」「清浄な」もの)となるように促されるばかりでなく、性別役割分業にもとづいた「スウィートホーム」の中で、積極的に子どもに「服従」「愛情」「責任」「公徳」などの徳を涵養することによって、家庭は「小国民」を教育する場とならなければならない、とされるのである。まさに近代社会にあっては、家族とそこでの教育は国家の戦略のうちに組み込まれているのである。(33頁)

「愛情」の名のもとで生徒を保護し指導しようとする〈教育〉のあり方を、「〈教育〉的パターナリズム」と呼ぶことにしよう。このパターナリズムのもとでは、教師は生徒のことを思って一生懸命努力し生徒を一定の方向に導こうとするが、その〈教育〉的な世話に対して、生徒は反逆することもできない。教師のこうした世話を受ける代わりに、「受身の黙認」(R.セネット『権威への反逆』)を余儀なくされるからである。「先生が一生懸命僕のことを思ってやってくれるのだから、その期待に応えなくては」というふうに考えてしまうのである。(49頁)

近代社会は、タテ・ヨコ・ナナメといった多様な人間関係を破壊し、人間関係を「親―子」関係と「教師―生徒」関係というきわめて単純な人間関係、しかもタテの垂直的な関係に還元してきた。しかもそこでは、他者に依存せず「自立」することが目標とされている。(…)つまり、子どもは教師の言うとおりに行動するように強制されながら、たえず「自立」的であることが自分のライフスタイルや自己価値を規定するものとしえ求められる、という矛盾した生を生きることに案る。文部省の言う「自ら主体的に判断し行動するために必要な資質や能力の育成を重視する教育」、すなわち「新しい学力観」は、まさにこうした矛盾した心性を生徒に引き起こすことになる。(57~58頁)

(石田注 母親と娘の会話を池谷は紹介する。娘の「汚い」言葉を母親が「そんな言葉はいい子は言わないわよ」と言って注意する。それにより、娘の「いい子」の部分は≪今後はうそをつかないで母親を裏切らないようにしようとする。しかし、もうひとりの自分はこう考える。「お母さんがわたしが悪いと言うのはあたっている。お母さんが好意的に考えてくれても、わたしは悪いことをしちゃうし、お母さんがだまそうとさえしちゃう。わたしはそんなにいい子じゃないもの」と。こうして、この子はしだいに「悪い子」を実現してしまう≫(70頁)に続けての引用。
〈教育〉的関係のもとでは、親や教師が今ある子どもを価値評価したり断定したりして、ある特定の「よりよい」方向へと変えようと望めば望むほど、子どもは逆にその価値評価や断定を実現しようとしてしまう。結局のところ、〈教育〉はその当初の目的さえも遂げることができない。(70頁)

世俗での子どもの「成功」を求めれば求めるほど、大人たち自身と現実世界が汚れていく。だからかえって逆に、世俗にまみれない純粋さや「無垢さ」が、汚れた自己を清めてくれるものとして、あるいはそうした自己から解放させてくれるものとして、大人の側から子どもに求められもすることになる。
 このように見てくると、「無垢なる」子ども像は、大人の〈教育〉的願望とその目標であると同時に、大人の側の強制的な〈教育〉行為をいわば「免罪」し浄化してもくれる、そうしたものとして要請され求められた、と言うことができよう。(95頁)

→灰谷健次郎的「子ども尊重」思想には、この池谷の指摘が当たっているような気がしてならない。

親の愛情は〈教育〉目的達成の手段であり、子どもは〈教育〉操作のたんなる客体であり、大人も〈教育〉のためにすべてを犠牲にしなければならないという点では、〈教育〉の奴隷にほかならない。しかもこの中で子どもは、親に呪縛され、そこから逃れることもできなくなる。(123頁)

80年代にかつてない高度情報・消費社会が到来し、子どもの世界を襲ったことである。今や子どもたちは、一方では、資本(大人たち自身)によって仕掛けられたこのサブカルチャーの世界に入り込むことによって、大人世代から自らを隔離しつつ(隠れつつ)、消費・情報を通じて同世代としての自己確認をしている。しかし同時に他方では、学校や社会では市民的権利への通路は保障されていないとしても、いわば「消費・情報的な市民」としては、大人との境界を越えて大人世界へと参入してもいる。(181頁)

→ポストマンは「子どもはもういない」を書き、「子ども期の消滅」の理由をテレビの普及に求めた。池谷は「消費・情報的な市民」という概念で「子ども期の消滅」を描いているようである。

子どもが大人と共同する場所があれば、意図的な〈教育〉がなくても、何らかの学習がそこでは行われるということである。すなわち、意図的な〈教育〉がなくても学習は存在するし、学習は〈教育〉から相対的に自律したものとしてある、ということである。たとえば、ヘアー・インディアンの社会のように、子どもの自発的な学習があっても、大人の側に〈教育〉的な営みがない社会もある。ここでは子どもたちは大人がしているのを見よう見真似で学んでいるのである。(195頁)

 この本の後半部は「性教育」を人々がどのようにとらえてきたかの時代史が語られる。
 昨年の8月にフリースクール全国ネットワーク主催の「子ども交流合宿 ぱおぱお」が早稲田大学早稲田キャンパスを舞台に行われた。オープニングのセレモニーの際、あるフリースクールの代表として壇上であいさつした子のセリフが印象的だった。
 「ここでは、普通に下ネタが話せるから、いい」
 学校において、下ネタはタブーである。それが自然に・普通に話せる環境であるということは、池谷が終章でも書いているように、フリースクールが子どもにとっての「居場所」であるからだろう。

イリイチVSフレイレ『対話 教育を超えて』からのアフォリズム その3

イリイチVSフレイレ『対話 教育を超えて』のアフォリズム・シリーズも堂々の完結編。

ラストはウィリアム・B・ケネディーが語った「教育の巡礼者 フレイレとイリイチ」より。
イリイチは、抑圧された人間を消費者とみなしている。消費者は、自分から行動したり生きていこうとはせずに、受動的にやりとりするばかりで、地球の資源を使いつくしてしまうように仕込まれているのである。資本主義諸国も社会主義諸国も、そういったことを人類の目標として永続化させるという点で変わりがないため、かれは双方を批判する。絶えざる成長をその目的とする限り、「発展」はつねに害をもたらすのである。(128頁)
 イリイチは「サービス」というところで権力論を構築する。それがフーコーとの違いのようだ。
 「消費者」は、企業や国家の「サービス」をただ受け止めるだけ。「遊びに行きたいな」「はい、ぜひディズニーランドへお越し下さい」。自分から「何をして遊ぶか」を主体的に選択するのではなく、企業や国家の示す選択肢から選ぶにすぎない存在となってしまう。
 最後に、両者についての説明を引用する。

フレイレがその国情に通じているラテン・アメリカ諸国では、教育にたずさわる人間は、自分たちが行動できる「自由な場」を問題にしている。自由を制限する巨大な力に対抗する上での助けとなる、民衆の生活に根ざした戦略を追求するという点で、フレイレの活動はイリイチと結びつく。その線にそって、かれは、慎重に行動し反省していくことを勧め、現実の中で、ペシミズムや冷笑的な態度におちいったり、オプティミズムや単純な行動主義におちいったりしないようにと忠告している。(140頁)

イリイチVSフレイレ『対話 教育を超えて』からのアフォリズム その2

ここからは、「解説」以外の部分、つまり「本文」から抜粋を行っていく。

フレイレ わたしたちは、何よりもまず、どのような教育を人々が本当に必要としているのかを知る必要があると思います。わたしたちは往々にして、人々の真の要求には無頓着なまま、教育内容を云々しがちです。わたしたちが与えようとしているような体系的な教育は、必要とされないことが多いものです。(40頁)
(石田注 イリイチの発言から)
価値の学び方はふた通りあると思うんだ。ひとつは、本質的に親密な個人的な交わり、つまり、互いに顔をつきあわせているふたりの人間の責任にもとづいて行われるもの。もうひとつは、価値の他律的な生産であって、一般の人々は、その価値を必要とするように、管理する側から期待されているんだ。その中には、車の右側通行の仕方を教えてもらうことが必要だといったことから、何がしかの「代理人」をして、かれらに、民衆は意識を必要としている。(42頁)
(フレイレの発言から)
すなわち、教育が社会を形づくるわけではなく、社会が、権力を持つ者の利益にかなうように教育を形づくるのです。この過程が機械的ではないからこそ、そのように申し上げたのです。つまり、教育はある時点で社会によって形づくられながら、社会のために特別な条件を築きあげるのです。(44頁)
(イリイチに対してのフレイレの発言。両者の違いについて)
あなたは教育が人間の現象であることは認めていらっしゃる。別なことばで言えば、いろいろな理由から人間が教育を生み出したことは認めていらっしゃるようです。しかし、ある地点を超えると、教育は人間性を失ない、もはや人間のコントロールの及ばない悪魔の手先になってしまうと言うことです。ここが、わたしの考え方とは違うのです。わたしは、何よりもまず、教育が永久的な過程であると考えてきました。この点で意見が異なるのです。教育は、人間が未完成であり、歴史的な存在であり、永久に探求を続ける存在であるからこそ、永久的な過程なんです。さらに、人間はこの探求の中で、自らの現実を知り、また自分が知るということを知る能力を獲得しました。したがって、わたしは、教育の重要な一面は、いつの時代にも、知識を実行に移すための理論というところにあったし、現実もそうであると考えています。(95頁)
(ダウバーという人物が、イリイチとフレイレの議論を聞いて)
ふたつの概念の相違は、はっきりしました。イバン(石田注 イリイチのこと)は、「発展を制限する上での基準」という否定的なものを問題にし、パウロ(石田注 フレイレのこと)は、メチャクチャにならない教育の過程、つまり意識化という肯定的なものを問題にしています。(101頁)
(イリイチのことば)
ぼくは限界閾と限界設定とを、はっきり区別しているということだ。(112頁)
(ダウバーの発言)
非学校化は、集権化や制度化や専門化を排除しようということです。制度のもつ力に対して限界を設定すれば、社会における政治的・経済的な矛盾が自覚されてくるはずです。制度を変革する行動に立ちあがれば、必然的に政治闘争に足を踏み入れるようになります。そしてこれが、わたしの理解している限り、パウロがいく度となく繰り返している意識化の過程なのです。(119頁)
(イリイチの発言)
ぼくは、教育なんてものは、西洋の中身のないからっぽの機構、つまりもっとも異端的な教会でしかないと思っている。ぼくが子供について話すのを避けてきたのは、全世界の民衆が幼児化されるという危険がつきまとっているからなんだ。今この瞬間にも、あらゆる政府や国際組織、さらには教会でさえ、教育的な治療を広めようという政策でのぞんでいるわけだ。ぼくが、ここにやって来たのは、ただ、子供時代を社会的に拡張することに対して警告を発し、それに反対の態度を示そうと思ったからなんだ。(122頁)
この対談の中では、deschoolingを「脱学校」ではなく「非学校」と訳している。これ、山本哲士の影響であろう。

イリイチVSフレイレ『対話 教育を超えて』からのアフォリズム。

イリイチVSフレイレ『対話 教育を超えて』(野草社、1980、島田裕巳ほか訳)は非常に興味深い本だ。


「解説」を山本哲司が書いているのもいい。


山本の「解説」から、抜粋をしていく。


イリイチは、読み書きは意図的な学習であるとして、歩くことや話すことを学ぶ学習とは区別している。三つの大きな問題が明示されているのだ。ひとつは、教育は象徴的な暴力であるということ、もうひとつは、字の読み書きが人類にとって基本的に必要であるのかどうかということ、さらに、前二者をふまえて、もし、字の読み書きを教えるなら、それは子どもに対してはたすべきものなのかどうか、青年期でよいのではないか。この三つの問題に明確な解答を与えることーそれが、われわれの教育学的な任務である、といえよう。(188頁)


学校を正当化する考えは、それを使用する人たちが、学校制度が自らの必要や利益に奉仕しているのだと信じていなければ維持されない。たんに支配の側からのおしつけがあるのではなく,必要であると自らがおしつけていく制度的な特徴があるのだ。

「制度としての学校」を把むことによって「教育が学校化=制度化された」という教育の仕組みをとりげることができる。教育の仕組みは、教育制度を、相対的に自立したサブシステムと捉えたり、学校内での教育実践と捉える表層的な分析からは決して明らかにされない。教育という事実性を、文化の象徴的な生産様式という視座からとらえかえさねばならないのである。(163頁)


宗教制度から学校が世俗化されたことによって、学校の聖化が、〈教育〉を宗教として再構成されていると認知し、学校から「学ぶ」行為を世俗化させるべきだ、とイリイチはいう。教育を蘇生させるのでも復権させるのでもない。学ぶ様式の多次元的な世界を蘇生させることである、というのだ。(165頁)


他者への働きかけの質を主体において問うフレイレに較べ、イリイチは「主体」をいっさい問わない。正確にいえば「主体の志向性」を問題にしない。ただ、個の自律性の相互交流関係(様式)を、自律共働性の価値からとらえるだけである。痛みを感じ、苦悩し、受苦し、病や死に直面する自分、自らの足で歩き、自ら学ぶ、そうした「自律性」が確かなものであって、「政治力」であるのだと考える。他者からの働きかけによって運ばれ、教えられ、治療される様式が支配的なところに「政治」はない、人間的なものはない、というのだ。(179〜180頁)


(石田注 フレイレの話から)学校は社会を変えない、社会が学校を変えるのだ、と主張する。(181頁)


「教える」というこうとは、他者に働きかける様式、つまり概念的には他律的様式としておさえられる。それに対して「学ぶ」ということは、自律的な様式なのだ。現代の教育という商品、あるいは基本的必要を中心に構成されている〈学校〉あるいは〈学校化社会〉というのは、その自律的な「学ぶ」ということに「教える」という対立的なものが働きかけた結果なのだ、といえる。だから「教えないと学べない」とか「教えてやらなければならない」とかいう論理が生じるのだ。そういう形で「教える」という他律的なものが勝利したとき、教育という商品がそこに完成する。他律的なものが働きかけていくと、働きかけた結果、現実的にある価値が作られてしまう。ある種の〈資格〉を象徴とする競争原理に基づく序列化社会はまさしく〈教育の商品化〉の結果である。イリイチにとってはそのことが問題なのである。つまり、フレイレとイリイチにとっては、「教育」を位置づける「場」が異なっているのである。フレイレは歴史構造の現段階におけるトピックにとどまり、その限界状況下での歴史的性格と変革可能性を実践的に考察するのであるが、イリイチは、文明史的な視座から「教育=商品」を時代の本質的な構造として相対化してとらえる。(176〜177頁)


フレイレは‘教育はいかなる時代にも普遍的にあった。現在、それが抑圧の教育となっている歴史的・イデオロギー的性格を把握する’という。しかし、イリイチは‘教育そのものが近代の構造的な産物であって、その本性からして商品である’とみなす。(177頁)


高橋勝『学校のパラダイム転換』(川島書店、1997)

人が何かを〈学ぶ〉ということは、その対象を通して、生活世界に新たな意味を付与していく営みである。自己の生活世界をつねに新たに更新していく営み、それが〈学ぶ〉という行為にほかならない。その行為は、ものへのはたらきかけや他者とのかかわり合いなしには成立しない。〈はたらきかけ〉、〈かかわること〉によってしか、私たちは自己の世界を更新してはゆけないのだから。それは、必要や効用といった功利的原理を超えた、根源的な「生の世界」それ自体の自己蘇生の営みなのだ。(15−16頁)

 私たちの〈学び〉とは、それまでの狭い世界を脱出して、より広い世界を切り拓き、再構成していく行為にほかならない。それはきわめて創造的であり、主体的な営みなのである。(18頁)

〈学び〉とは、〈自己〉の解体と再生の営みなのだ。(18頁)

子どもたちが、多様で異質な文化や人々と出会い、交流する場として、学校を考えたい。同年齢ばかりでなく、異年齢の子どもたち、地域の住民、異国籍の人々、多様な文化的世界、そうした多数の他者と交わることによって、子どもは、一人で学ぶ以上のことが学べるのである。「学ぶたのしみ」を肌で実感できる人々が寄り集まり、〈学びのネットワーク〉を織り上げていく場所、それが、これからの学校なのだ。(28頁)