抜粋集

橋爪大三郎『政治の教室』

橋爪大三郎『政治の教室』(PHP新書、2001)
25頁
物事を決めるという行為には、「現実をつくり出す」というはたらきがある。決断しなければ、現実は生まれない。

27頁
政治とは、「ある範囲の人びと全員を拘束してしまうようなことがらを決めること」である。

84頁
すべての法は国民にとって恩恵であるはずなのです。

90頁
私が民主主義を支持するのは、それがもっとも強力な正当性を持つシステムだからです。すべての人びとが、「この決定は自分たちの決定である」と革新できるメカニズムになっている。自分の決めたことに文句を言う人はいないでしょう。だから正当性はゆるがない。

戦前の天皇大権から→アメリカ大権に戦後、代わった。
133頁
「日米安保条約は、日本にとって、憲法にも匹敵する位置を占めているといっていい。この条約がなければ、’アメリカ大権→憲法→人民’という図式は成り立たない。その図式が成り立たなければ日本国憲法は成り立たず、日本という国家も成り立たない。それが敗戦の意味であり、戦後日本の現実です。」

144頁
「思いやり予算」とは、日本が「わが国を防衛するためにいてください」ということで米軍を雇い、傭兵化するための予算だと言ってもいい。

154頁
民主主義の意思決定は、多数派が少数派を押し切るものだから、必ず自分の意見を拒絶される人が出てきます。それが正しい決め方である。けれども、日本の会議は、出席者の意思を踏みにじることを罪悪だと考えて、それを最小限にしようとする。出席者の意思をなるべく尊重しようとすればするほど、出席していない人びとの存在はますます無視され、忘れられていく。そうして、決定からリアリズムが欠けていくわけですが、なにしろ「大きな内側」が世界のすべてなので、そういう想像力は働かない。

173頁
「政治にはお金がかかる」という当たり前の前提を認めないことによって、日本の政治は非現実的なものになった。

197頁
まじめに努力しているのに結果が出ないなら、本気を出していない人物よりも輪をかけて無能だ、ということになる。日本人には冷酷に思えるかもしれませんが、それが近代の原則であり、あるべき政治の姿であり、民主主義のリアリズムなのです。

228頁
いちばん肝心なことは、自分がなぜこの候補を支持するのか、この候補のどの政策がいいと思っているのか、はっきり説明できること。これが説明できなければ、選挙運動に参加する意味がない。誰かに言われてとか、党員なので義務感からとかいう選挙運動なら、やらないほうがいい。ボランティアで選挙に関わる場合には、候補者が支持すべき人物であると、ちゃんと確信していなければならない。政党のボランティアは、ただ投票するだけの有権者よりも、高い政治的な見識と責任感が求められる。

ダイアローグの思想

マイケル・ホルクウィスト『ダイアローグの思想 ミハイル・バフチンの可能性』(法政大学出版会、1990年)

われわれは自分自身を見るためには、他者の視線を自分のものにしなくてはならない。きわめて大雑把にいえば、主観性をめぐるバフチン流「本当のような作り話」は、私がどのようにして他者から私の自己を手に入れるかをめぐる話である。私を、私自身が知覚できる客体に変えてくれるのは他者の範疇だけなのである。私は私の自己を、他者はこう見るかもしれないと思い描きながら見る。自己を作り出すには外部からそうしなくてはならない。換言すれば、私は私自身の作者となる。42頁

われわれ皆が自分自身のテクスト、人生と呼ばれるテクストを書いているのである。
45頁

「私」の始まりと終わりを全体的生として構想する可能性は、他者の時間/空間において実現される。「私」の死は他者にとってのみおこるからである。320頁
 →猛烈に印象に残った言葉である。「私の死は他者にとってのみおこる」。

言表はつねに、それに先行する別の言表に対する応答であり、それゆえ、程度の差こそあれ、先行する言表はつねに条件づけられ、次には逆にそれを限定する。バフチンにおいては「言説は状況を反映するのではなく、それが状況なのである」と著者はいう。322頁

佐藤学『教育改革をデザインする』(岩波書店、2000年)

佐藤学『教育改革をデザインする』(岩波書店、2000年)

不登校の問題については、いくつものよじれが質されなければならない。まず義務教育と言っても、子どもが学校に行く義務を負っているわけではない。親が子どもを学校に通学させる義務を追っているのであって、子どもは学習する権利をもっているだけである。したがって、アメリカなどでは、不登校が生じた場合には、まず親の責任が問われ、それでも解決されない場合には、子どもの学習権を保証するために、家庭を訪問して公教育を保障する教師が派遣されることになる。
 しかし、わが国では、不登校の子どもは病的な子どもとして扱われ、カウンセリングが施されている。さらに中教審の答申は、不登校の子どものために中学校の修了を認める認定試験を実施することを提言している。さらに文部省は大検によって義務教育を受けなくても大学に入学できる措置を導入した。本末転倒である。行政に必要なことは、学校に行けない子どもに対する学習権の保証であって、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。(中略)しかし、公教育の原理において行うべき対処は、学校に行けない子どもたちの学習権の保証である。不登校という行為は病的な現象ではないし、カウンセラーが対処すべき事柄でもない。(33頁)

→フリースクールの子は学校で学ぶことにそれほどの価値をおかない。「学ばなくてもいい」という指摘もある。佐藤は「学ばせる」ことを重視している。

チャーター・スクールは、成功した場合において、むしろ弊害は大きい。日本人にはほとんど認識されていないことだが、学校選択の自由は、アメリカ社会においては人種差別・階層差別と密接に結びついている。公民権法(1963年)の制定後、表立って学校における人種隔離の要求を提出することは法律違反となった。公民権法制定以後、黒人やヒスパニックや低所得者層の子どもと同じ学校で学ばせることを嫌う親たちが掲げたのが「学校選択の自由」の主張であった。この事情はアメリカ人には暗黙の常識なのだが、日本人によるチャーター・スクールの紹介においては、まったく無視されている。実際、チャーター・スクールの多数は、人種差別・階層差別を基盤として成立している。(中略)近年、日本においても学校選択の自由について活発に議論され、チャーター・スクールへの期待が高まっている根底には、アメリカと同質の「あの子たちとは一緒の学校にやりたくない」という差別の欲望を見ることができる。日本の社会も文化の階級差と階層差を拡大している。文化の階級差と階層差を基盤とする教育意識における私事化の進行が、学校選択の自由への関心をよび、チャーター・スクールへの期待を呼んでいる事実を認識することができる。(pp44~45)

すべての子どもたちに自らの可能性に挑戦する自由を保障することである。教育改革の原理とすべき自由は、新自由主義者が主張するような選択の自由ではなく、学ぶ権利にもとづく挑戦の自由である。(167頁)

一般に教師は、成績のよい子どもが学業に失敗すると、本人の学び方や努力に原因を求めるが、成績のよくない子どもが学業に失敗すると家庭環境に原因を帰属しがちである。(170頁)

書評『どくとるマンボウ青春記』

書評『どくとるマンボウ青春記』

 旧制松本高校時代、北杜夫は寮にいた。布団ムシやストームなる伝統、「ゴンヅク」などドイツ語と信州弁をごっちゃにしたような用語の存在…。私も高校時代は寮生活だったので、寮内の奇習をいろいろと思い出せる。早朝ボウリング、食堂清掃時の奇妙な掛け声、何故か皆いる国分寺のゲームセンター…。旧制高校と新制高校という時代の違いはあれど、寮という物に何かしら共通点があるように思う。
 北杜夫の青春回想録がこの小さな文庫本である。前半と後半でトーンが全く違う本だ。懐かしく気恥ずかしい寮時代を描いた前半部は、「バンカラ」で「バーバリズム」あふれる寮生活が語られる。しかし寮を出て、一人暮らしを始めた後半部からは青春特有の憂鬱が表されている。《狂乱の寮生活にはそれなりの意義もありおもしろさもあったが、一年も経つといい加減、多人数の中の生活が嫌になる。殊に私はそのころ短歌のほかに詩作も始めていたので、一人きりの孤独の生活を望んだ(121頁)》。前半とは違い、孤独さ・陰鬱さが文章にあふれている。他者と騒ぐことよりも自己の内面に向き合うようになるのだ。静/動の対比が印象的であった。
 未だ20歳の私が「青春とは何ぞや」と語ることは出来ない。悟りきったことを言えるのは青春を終えてしまった中年たちである。けれど北杜夫の本を読んで分かるのは青春のもつ二面性である。
 昔読んだ児童向け文学に‘友人といるときは「一人になりたい」と思い、一人でいるときは「誰かと話したい」と思う’という矛盾した心理を描いている物があった。「そんな風に感じることはあるのだろうか」と当時は考えていたが、いまの私は「それは事実だ」と思うようになった。

 大学時代は人生の意味について考えることの出来る貴重な時期である。むやみに使うのはもったいないことだ。昨年は姜尚中の『悩む力』が流行った。北杜夫や姜尚中同様、青春の悩みから逃げずにとことんまで向き合うことが大切ではないか、と思った。

*一人暮らし時代の日記が215頁からしばらく引用されている。「瞬間、信号燈は青に変っていた。僕は立ちどまろうと思ったのに(235頁)」。私もよく日々思うことを書き留める。読んでいて、「俺もこういうこと、よく書いているぞ!」という発見があった。