名言

作家や小説家と音楽家の違い

昨日、ミュージシャンを目指す後輩と話した。
自分がブログを書いていることを話すと、次の話をしてくれた。

‘作家や小説家と違い、音楽家は「過去の自分」と向き合わないといけないんですよ。作家は過去の作品を再び書くことはないですね。でもミュージシャンは昔の自分の書いた歌を歌うことになるんです’

真理だと思った。たしかに、彼の言う通り私は過去に書いた作品を再び書くことはない。けれど歌手のコンサートでは何十年も前のデビュー曲が歌われることがある。歌手は過去の自分の作品を再び思いを込めて歌わねばならない。たとえ、それが「今はこんなこと考えないよな」と思ったとしても。

非常に面白い。

手塚治虫『ガラスの地球を救え』

思えば、『鉄腕アトム』を描きはじめた昭和26、7年ころは、ものすごい批判が教育者や父母から集中し、「日本に高速列車や高速道路なんて造れるはずがない」とか、「ロボットなんてできっこない」とか、「荒唐無稽だ」などと大いに怒られ、「手塚はデララメを描く、子どもたちの敵だ」とまで言われたほどでした。(14頁)

なにが必要な情報か、ということですが、ぼくはとどのつまり、生命の尊厳を伝える情報が最も必要でかつ重要な情報だと思います。(113頁)

もし輪廻というものがあるなら、ぼくの来世はミジンコかもしれないし、それこそオサムシかも知れません。そう思うと、どんな生き物も同じ重さに思えてくるのです。それに、もう二度と人間には生まれてこれないかもしれない。虫には虫の、鳥には鳥の、そして人間には人間のもっともふさわしい生き方があるはずです。(186頁)

岡本太郎『自分のなかに毒を持て』

人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。僕は逆に、積み減らすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。
人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身とも無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。
今までの自分なんか,蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。
ふつう自分に忠実だなんていう人に限って、自分を大事にして、自分を破ろうとしない。社会的状況や世間体とも闘う。アンチである、と同時に自分に対しても闘わなければならない。これはむずかしい。きつい。社会では否定されるだろう。だが、そういうほんとうの生き方を生きることが人生の筋だ。(11頁)

 

人間は精神が拡がるときと、とじこもるときが必ずある。
強烈に閉じこもりがちな人ほど、逆にひろがるときがある。
ぼくだってしょっちゅう行きづまっている。
行きづまったほうがおもしろい。だから、それを突破してやろうと挑むんだ。もし行きづまらないでいたら、ちっともおもしろくない。(76頁)

 

自分はあんまり頭もよくないし、才能のない普通の人間だから何も出来ないんじゃないか、なんて考えてるのはごまかしだ。
そういって自分がやらない口実にしているだけだ。
才能なんてないほうがいい。才能なんて勝手にしやがれだ。才能のある者だけがこの世で偉いんじゃない。
才能のあるなしにかかわらず、自分として純粋に生きることが、人間の本当の生き方だ。頭がいいとか、体がいいとか、また才能があるなんてことは逆に生きていく上で、マイナスを背負うことだと思った方がいいくらいだ。(105頁)

人類は滅亡するかもしれない、と不安げに言う人が多くなった。いや、絶対に滅びない、と頑張る楽観説もある。
ぼくは両方の説に腹が立つ。
滅びたっていいいじゃないか。当たり前のこと。僕はそう思う。(中略)
ぼくがここで問題にしたいのは、人類全体が残るか滅びるかという漠とした遠い想定よりも、いま現時点で、人間の一人ひとりはいったい本当に生きているだろうかということだ。
本当に生きがいをもって、瞬間瞬間に自分をひらいていきているかどうか。(214〜216頁)

岡本太郎の言葉を聞くと、「よし、やってやろうじゃないか!」という気になる。熱くなれる。これはすごいことだ。
自分には力も才能もない。しかし、それがどうしたというのだ。今の自分なんて打ち破れ。闘うのだ。今から、自分の運命を切り返していくのだ。
失敗しても、下手でもいい。自分は自分の教育学を築くのだ。
新年早々に岡本太郎を読む利点は決意をできるという点にある。
この本は読むべきである。自分の人生を生きるためにも。黒澤映画『生きる』も、自己の運命と戦うことで主人公・渡辺は真に「生きる」ことが出来たではないか。

「好きじゃないと、もたない」時代の就労観

〜書評:齋藤孝・梅田望夫著『私塾のすすめ ここから創造が生まれる』〜

〈仕事と金儲けは違う。金儲けは何も教えてはくれないが、仕事は生き方を教えてくれる〉。私の私淑する灰谷健次郎の言葉だ。今回取り上げる『私塾のすすめ』には《これからの時代の仕事観》がまとめられていた。内容に感銘を受けすぎて、コメントのしようがない。「金言集」のような物にしてみよう。

梅田:昔に比べて、圧倒的にたくさんの仕事をせざるを得ない。そして会社というのは、結局は営利を求める存在ですから、勤務時間を超えて勝手にたくさん仕事をしている人が、やっぱりいい仕事をすることになって社内競争に勝つ。(中略)だから僕は、大組織にせよ、組織以外での仕事にせよ、自分とぴったりあったことでない限り、絶対に競争力が出ない時代になってきていると思います。朝起きてすぐに、自分を取り巻く仕事のコミュニティと何かやりとりすることを面白いと思える人でなければ、生き残れない。(144項)

梅田:僕が「好きなことを貫く」ということを、最近、確信犯的に言っている理由というのは、「好きなことを貫くと幸せになれる」というような牧歌的な話じゃなくて、そういう競争環境のなかで、自分の志向性というものに意識的にならないと、サバイバルできないのではないかという危機感があって、それを伝えたいと思うからです。(145項)

齋藤:これからは、梅田さんのおっしゃるように、ここまで社会がスピードアップしてしまうと、「好きじゃないともたない」。「好き」が伴わないと仕事ができないというのは、ある意味で厳しくなってきたというか、がまんすればそれですむという感覚を超えてきたといえますね。そういう厳しい状況になってきたときに、僕は「心の自己浄化装置」が必要になってくると思います。「タフ」というと、最初から動じないという感じですが、タフであるかどうかというより、自分で処理するシステムをもっているかどうか、ということです。(中略)要するに、「なんとか職人」という感じの自己規定をしてみると、腹が決まるというか、逃げ出せなくなって、そうなると、細部に楽しみを見いだすことができるというメリットがあります。(150項)

梅田:すべてはトレードオフですからね。何かを始めようとすれば、何かを諦めなくてはいけない。(180項)
梅田:最近本当に感じるのは、情報の無限性の前に自分は立っているのだなということです。圧倒的な情報を前にしている。そうすると、情報の取捨選択をしないといけない、あるいは、自分の「時間の使い方」に対して自覚的でなければならない。流されたら、本当に何もできないというのが、恐怖感としてあります。何を遮断するかを決めていかないと、何も成し遂げられない。ネットの世界というのは、ますます能動性とか積極性とか選択性とか、そういうものを求められていくなと思う。無限と有限のマッピングみたいなことを本当に上手にやらない限り、一日がすぐに終わってしまう。(183項)

齋藤孝ファンの私は、齋藤の名につられてこの本を買ってしまった。しかし、こうして書評を書いてみると、意外に梅田望夫に自分が影響を受けたことを知った。読んでいるときは梅田望夫を気にも留めなかったのに、書評にするときは梅田の言葉で紙が埋まってしまった。対談集を読むことは、知らない作家の本に出会うチャンスをもたらしてくれる物であることに初めて気づいた。
『ウェブ進化論』の著者たる梅田。彼はこれからのネット時代の方向性を語っていける数少ない人物の一人だ。襟を正して梅田の書を読みたい。

 

2Q==-2

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齋藤孝・梅田望夫著『私塾のすすめ ここから創造が生まれる』
(2008年、ちくま新書)

以下は関係ない文章です。
齋藤:「自己内対話」とは、自分でいつも自分と対話しているということではなくて、自分の中のなかの他社と対話するということです。自分のなかにどれだけ他者を住まわせられているかがポイントとなります。読書というのは、自分のなかに、自分の味方となる他者を住まわせることだと思います。大量に対話した相手というのは、自分のなかに住み込むんですよ。自分のなかに、味方となる他者をたくさんつくっておく。そうすると、現実の他者と話したときに、その人が、他者のうちの「ワン・オブ・ゼム」になるわけです。その人が絶対的ではなくなる。(141項)

梅田:僕は基本的に、ものごとというのは、だいたいのことはうまくいかないという世界観を持って生きていますね。だから、一個でも何かいいことがあったら大喜び。(132項)

齋藤:僕自身はだいたい五年スパンで考えます。たとえば、二十五歳から三十歳は修業期間と考えて、アルバイトをするよりも、自分に資本を蓄積する。僕の場合の資本は、勉強するということだったわけですけれども、生涯すり減ることのない資本を身につける。これはゲーテのアドバイス(「重要なことは、けっして使い尽くすことのない資本をつくることだ」、『ゲーテとの対話』エッカーマン著、岩波文庫)だったわけですが、このアドバイスを信じていました。自分が勉強したことは、生涯、何かしらのかたちで生きてくるだろう、注ぎ込んだエネルギーが将来金銭的に回収されることはないかもしれないけれど、自分はその時期「思想家」として生きる、みたいに。(122項)

齋藤:梅田さんの言われた「志向性の共同体」に、二十一世紀の希望を感じます。参加していることそれ自体が幸福感をもたらすもの。学ぶということには、そういう祝祭的幸福感があります。学んでいることそれ自体が幸福だと言い切れます。共に学ぶというのがさらに楽しい。できれば、先に行く先行者、師がいて。それが「私塾」の良さです。(195項)
トルストイの〈努力こそ幸福そのもの〉につながる言葉である。

教育に関するすべての希望を捨てよ

 人びとは、教育に何か有能感をもっている。それは自分のいるなんともならない状況を、「未来になれば解決している、ゆえに未来を作る子どもの教育が大切だ」と安易に考えるからだ。バカをいっちゃいけない。僕らの世代も、上の世代から何かを期待された世代である。それはおそらくは「戦後日本の社会を構築する」ということだったであろう。高度経済成長で、すこしは解決した。しかし、水俣病をはじめ未解決、あるいは新たに出てきた問題もある。ネット社会に、人は適応できていないのに、ネット空間では犯罪が多発している。
 また思想界の発展により、近代や進歩といった物自体、価値があったのか、という問い直しがされている。こんな社会状況の中、教育だけが希望を持って語られる。政治も、経済も、環境も、平和も、何もかもぐしゃぐしゃ。希望を持って語られていない。なのに、教育には期待感をもって話がなされている。「今の教育は駄目だ」というのも、その人の頭の中の「理想の教育」と照らし合わせて、のものに過ぎないのだ。所詮、みんな教育に期待を持っている。
 教育に期待が持たれ始め、どれくらいがたったのだろう。未だに人類が教育に期待し続けるのは、成長が無いといえるのではないか。もう待ってても無理だ。あらゆる学問や言論のうち、教育だけは常に未来形で語られる。おかしなことだ。

灰谷は「すべての怒りは水の如くに」において、教育権の独立についての話をしている。社会のどんな部分からも、干渉されない、ということである。

教育は、社会に影響されてはならない。また、学校はなるべく教える量を減らし、学校の存在自体を小さくしていくべきだ。

託児所たるのであれば、ただ「自由」の時間を置けばいい。いやでも読書させる授業もいい。

ダンテの『神曲』ではないが、地獄の門の言葉を思い出す。
《一切の望みは捨てよ 汝ら われをくぐる者》(神曲地獄編 第三歌)

教育に関する「一切の望みは捨てよ」。そして、そこからものごとを考えていくことだ。そのなかに、教育に何かできることがあると、まあ幸せですね。教育では、何もかわらない。まずはそれを自覚していくことからはじめるべきではないか。
そして、「教育に何かできることがあれば」それをやっていくことである。

教育に関する言説は、一見するとペシミスティックだが、実際は違う。「今の教育はよくない」というのは、「このようにすれば教育はよくなる」というその人の持論の言い直しに過ぎない。そういうのを、ユートピアという。ユートピアはどこにも無い。考えるだけ無駄だ。「教育しよう」ということだけで、子どもにプレッシャーをかけているところもある。
 なら、子どもの負担をなくせばどうだろう?
学校教育では読み書き数と情報、コミュニケーションスキル習得のみでいいじゃない。余った時間はサッカーなり読書なりさせようよ。子どもも楽しいはずだ。

俺がペシミスティックだって? そう、私はペシミスト。底抜けの。

ある思想家のことば

未来を開き、未来を育むといっても、その主体は「人間」にあるといってよい。「人間」をつくりあげる事業こそ、すなわち教育にほかなりません。「人間」の内なる無限の可能性を開き鍛え、そのエネルギーを価値の創造へと導くものです。いわば教育は、社会を開き、時代を決する「根源の力」であります。

小牧治著『カント』(清水書院)より

そもそもわたしが、カントの考え方に感激したのは、つぎのことだった。すなわち、この世の幸福を追うのではなく、その幸福を受けるに値すること、つまり、道徳的義務の命令(純粋な理性の要求)にしたがうこと、それを、人間の尊さの源泉としたことだった。(p18)
→幸福になること自体でなく、幸福になるだけの行動をすることが重要なのだ。

人は、人事をつくして、しかもつくしえない自己をなげくとき、かえってそこで、「人事をつくして天命をまつ」の境にふれるのである。天助としての神を望むことがゆるされるのである。あらんかぎりの努力をするとき、自らの物理的能力のうちにないものが、より高い存在である神の協力によって補われるのを、望みうるのである。それこそは、純粋理性の信仰とも称しえよう。ここから宗教への道も通じるのである。(p185)
→神頼み的宗教は、無意味である。努力したことを最大限に発揮するために、宗教があるのではないか。よく仏法は道理といわれるゆえんであるのでないか。

ある思想家の言葉

「自分は【幸福青年】である。苦労それ自体が幸福なのだ」。こう思える境涯になっていただきたい。そのほうが賢明である。

周恩来の言葉

人は気力さえあれば、どこにいても学問を求めることができる。

デューイの言葉

人間は戦わねばならない。困難こそ、進歩するためのチャンスとなるのだ。