名言

マルクス・アウレリウス名言集②

隣人がなにをいい、なにをおこない、なにを考えているかを覗き見ず、自分自身のなすことのみに注目し、それが正しく、敬虔であるように慮る者は、なんと多くの余暇を得ることであろう。[他人の腹黒さに眼を注ぐのは善き人にふさわしいことではない。]目標にむかってまっしぐらに走り、わき見するな。

(岩波文庫『自省録』55-56頁)

マルクス・アウレリウス名言集①

思い起せ、君はどれほど前からこれらのことを延期しているか、またいくたび神々から機会を与えて頂いておきながらこれを利用しなかったか。しかし今こそ自覚しなくてはならない、君がいかなる宇宙の一部分であるか、その宇宙のいかなる支配者の放射物であるかということを。そして君には一定の時の制限が加えられており、その時を用いて心に光明をとり入れないなら、時は過ぎ去り、君も過ぎ去り、機会は二度と再び君のものとならないであろうことを。

(岩波文庫『自省録』26頁)

 

ヒルティ名言集③

苦しみのときにあっても、少なくとも心の奥底では、つねにできるだけ自信をもち、またいかなる場合にもつねに、大いに勇敢であり給え。そうすれば、経験に照らしても、いつも神の助け給う日がやってくる。しかし、万一、神の助けがまったく現われず、われわれを圧迫し不安にする悪条件がとり除かれなかったとしても(とりわけ苦しい時にはしばしば、ほとんど怪しいばかりの説得力をもってそう思わせられやすいが)、それでもなおわれわれは「気晴らし」の享楽や厭世観や、怒りや無気力におちいるよりも、自分自身の勇気と善良さをもって戦うほうが立派に凌いでゆくことができるであろう。なぜなら、われわれは結局、絶えまなくーーそしておそらく永遠にーー唯自分自身でもって生きなければならないし、他人ではなく、まさしくわれわれ自身がどのような人間であるかというその在り方が、つまるところ、何よりもわれわれの幸福を決定するからである。

ヒルティ『幸福論』第三部156頁。

 

教育名言集①

教育の大きな目的は知識ではなく行動だ。

ハーバート・スペンサー

ヒルティ名言集①

「最上の教育を受けた者でも、それに続いて自己教育をしなければ、ちゃんとした人間にはならない。反対に、最もよくない教育を受けても、そのあと自己教育によって、改善されるものである。どんな教育にもせよ、そのあと自己教育をつづける意欲を疲らせたり鈍らせたりするようなものは、すべて悪い教育である」(ヒルティ『幸福論』第二部 岩波文庫 299頁)

イリイチ名言集①

学校教育の基礎にあるもう一つの重要な幻想は、学習のほとんどが教えられたことの結果だとすることである。たしかに、教えること(teaching)はある環境のもとで、ある種類の学習には役立つかもしれない。しかしたいていの人々は、知識の大部分を学校の外で身につけるのである。人々が学校の中で知識を得るというのは、少数の裕福な国々において、人々の一生のうち学校の中に閉じ込められている期間がますます長くなったという限りでそう言えるにすぎない。

ほとんどの学習は偶然に起こるのであり、意図的学習でさえ、その多くは計画的に教授されたことの結果ではない。普通の子供は彼らの国語を偶然に学ぶのである。(『脱学校の社会』pp.32-33)

イェーリング著、村上淳一訳『権利のための闘争』(岩波文庫、1982)

 かつてシェイクスピアの『ヴェニスの商人』を読んだ時、はっきりいって≪血を出さずに肉だけを1ポンドきっかり切り取れ≫と裁判官に言われたシャイロックが、気の毒で仕方なかった。そのため、イェーリングがシャイロックの弁護にあたる論理を展開している本作は、非常に興味深かった。

このユダヤ人(石田注 シャイロックのこと)は権利を騙し取られた、と言ったのは私の言いすぎだったろうか? むろんこれは、人道のためになされたことである。しかし、人道のためであれば不法は不法でなくなるものであろうか? かりに神聖な目的が手段を正当化するとしても、なぜそのことを判決の中で行わず、判決を下したあとで行ったのであろうか?(18頁)

 「権利を騙し取られ」ることに対し、イェーリングは注意を促している。

何の苦労もなしに手に入った法などというものは、鸛(こうのとり)が持ってきた赤ん坊のようなものだ。鸛が持ってきたものは、いつ狐や鷲が取っていってしまうか知れない。それに対して、赤子を生んだ母親はこれを奪うことを許さない。同様に、血を流すほどの苦労によって法と制度をかち取らねばならなかった国民は、これを奪うことを許さないのである。(41~42頁)

 日本国憲法は別名「権利のカタログ」。あらゆる権利が突然認められた。そのため日本人にとって権利は「何の苦労もなしに手に入った」ものである(昔からこんなことをいう人って結構いますね)。ゆえに自己の権利は簡単に奪われてしまう。
 そのため、イェーリングは「権利のための闘争」を行え!と叫ぶのであるが、それは別にクレーマーになれ、ということを意味しない。

自己の人格を害するしかたで権利を無視された者はありとあらゆる手段で戦うのが、あらゆる者の自分自身に対する義務なのである。そうした無視を黙認する者は、自分の生活が部分的な無権利状態に置かれることを認める結果[権利能力の部分的放棄]となるが、そんなことにみずから手を貸す自殺的行為は誰にも許されていないのだ。(52頁)

 「自己の人格を害する」時に、「権利のための闘争」を行うべきなのだ。
 現在、私はフリースクール全国ネットワークのボランティアをしている。そのネットワークの中でオルタナティブ教育法という法律案の作成が続いているが、これもフリースクールに通う子どもたちが「自己の人格を害」されているからこそ、作成するものなのだ。不登校というだけで付きまとう「ダメな人」という視点、行政側から何のサポートもなく教育を自費で受けるという点えとせとらetc。こういう「権利のための闘争」は積極果敢に行っていかねばならないはずだ。

 本作のラストはゲーテの次の文章の引用で締められる。

智慧の最後の結論は斯くの如し。
自由と生を享受して然るべきは、
日々それを勝ち(石田注 原作だと旧字体)得ねばならぬ者のみ。(140頁)

 〈自由になろう〉とする者のみが、自由になることができるのである。同様に、権利を勝ちとるために戦う者のみが権利を勝ち取れるのだ。
 権利とは誰かに与えられるものではない。自分の力で、勝ち取るものなのである。かつて、高校現代文の教科書に『「である」ことと「する」こと』(岩波新書では『日本の思想』に掲載されています)という丸山真夫の文章が出ていた。その結論は、≪権利を行使「する」ことなく、権利者「である」ことに安住すると、自分の権利がなくなってしまう。ゆえに権利のためには常に権利を行使し続けないといけない≫というものであった。おそらく丸山も『権利のための闘争』を参考にしてこの文章を書いたのであろう。

『大人のいない国』(内田樹と鷲田清一の共著)

 好きな作家の本をある程度読んだ後、ブームが去り、その作家の本を全く読まない時期がある。そんなとき、その作家の本を久々に読んだとき、不思議な感情が芽生えることがある。

 その作家の言葉が、脳内からあふれ出してくる。その作家の思考の枠組みが、頭の中によみがえってくる。
 同一著者の本を読みためておくと、未来にその著者の本を再び読んだとき、一気に著者の思考を思い出すのである。
 若いときに好きな作家を見つけ、読みこんでおくことのメリットであろうか。
 久々に内田樹の本を読みながら、このことに気づいた。
 
 以下は、『大人のいない国』(内田樹と鷲田清一の共著)の抜粋である。
●「実学」中心に教育を再編するということは、要するに学校内外の価値観を平準化するということである。(111頁、内田)
→宮台真司のいう「学校化」の、別の表現の仕方である。宮台は〈学校的価値が社会全般に吹き出すこと〉という定義で「学校化」を語った。これは要するに「学校内外の価値観」が「平準化」するということである。
●言論の自由が問題になるときには、まずその発信者に受信者の知性や倫理性に対する敬意が十分に含まれているかどうかが問われなければならない。というのは、受信者に対する敬意がなければ言論の自由にはもう存在する意味がないからである。(83頁、内田)
●教育の目的は信じられているように、子どもを邪悪なものから守るために成熟させることにあるのではない。子どもが世界にとって邪悪なものとならないように成熟を強いることに存するのである。少なくとも、私たちの遠い祖先はそう考えた。(107頁、内田)
→灰谷健次郎的「子どもに学ぶ」姿勢の両義性である。

宮台真司・奥平康弘『憲法対論』(平凡社新書、2002年)抜粋

宮台:

(アマルティア・センの言葉を借りて)ケーパビリティとは、本人がもしかすると別の選択肢を選べたかもしれないのに、自分はあえてその選択肢を選んだと思えることを意味します。当事者たちが、今の行動以外の行動を選べるのに、あえてそうした生活や行動を選んでいると思えるような、「選択肢の束」を社会が与えていることが豊かさだということです。(・・・)何も考えずに物質的に豊かな生活が送れるのに、何が悲しゅうて子々孫々や地球の裏側の人のことを考えて生活しなきゃいけないのか。そういうときに、「それが義務だからだ」というのではなく、「それが豊かさだからだ」と言うことが、現実に動員上有効だし、現に起こっている若い人たちの動機づけをうまく説明するのです。(pp70~72)
*(  )内は石田。

フリースクールと、それにまつわる種々の名言。

 最近、フリースクール関連でボランティアをしている。今日はJDECというイベント内で行われた、パネルディスカッションの打ち込み作業に没頭した。

 打っていて、「有り難い仕事だな」と思う。フリースクール関係者のコメントは、非常に面白いものが多いからだ。

 名言を残しておきたい。

「フリースクールには、〈何もしない自由〉がある」

「教育を使うのは子どもたち自身」(「教育を使う」とは、すごい着眼点だ)

「フリースクールは自分の母校。だからいつまでもそこに存在し続けてほしい」(内田樹も《自分の母校が無くなることを、卒業生は望まない。自分の頃と同じ教育がずっと続いていくことをOB/OGは望むのだ》と語っている)

「子どもの自己肯定感は、教えられるものじゃない。子どもたち自身が学ぶものだ」(以前書いた『マトリックス』の評論を思い出す。モーフィアスの台詞「マトリックスの正体は教えられるものじゃない。自分で見るものだ」)

「自分らしさとは、自分で決めること」

「フリースクールの活動はほとんどソーシャルワーク」

 永六輔が『週刊金曜日』で連載している「無名人語録」。私もフリースクールや脱学校関係でこんな語録集をつくりたいものだと思う。