オルタナティブスクール

『フリースクールからの政策提言』を読む②

『提言』に挙げられた「すぐにでも実現すべき9つの提言」について列記する。

①フリースクール等の教育環境整備と運営安定化を図るための公的支援の実施
②教育行政・関係機関とフリースクール等との連携体制の促進
③フリースクール的な学校設立の促進
④学校復帰を前提とする政策の見直し
⑤教育行政や学校等の現場の対応改善
⑥在宅不登校に対する公的支援の実施
⑦子どもが相談しやすい環境づくり
⑧当事者の立場に立った医療への転換
⑨国や自治体等で取り組むべき課題

『フリースクールからの政策提言』を読む①

1、はじめに

 フリースクールは近代教育制度に対して懐疑的まなざしを持つ。「画一的・均一・規律的」な近代教育制度に対し、フリースクールは「多様性・自由」を重視する。目指すものが違うため、フリースクールについて調べるうちに、近代教育の〈気持ち悪さ〉が見えてくる。自分が自明視していた近代教育の短所が現れるのだ。
 近代教育制度とフリースクール。両者は違う価値観で動いている。従来、近代教育に慣れ親しんだ人びとがフリースクールについて何かを語ることはあっても、フリースクール関係者が近代教育制度に対して何かを語ることはあまりなかった。あったとしても、それが政策提言としてまとめられることは皆無であった。
 本年1月11日から12日にかけて、第1回 日本フリースクール大会が国立オリンピックセンターで開催された。略称をJDEC(ジェイデック)という。この中で『フリースクールからの政策提言』(以下『提言』)が採択された。偶然ではあるが、私もこの場に参加していた(といっても、採択された12日ではなく、一般公開していた11日のみであった)。
 私はこの『提言』がいかなる理由で採択され、そしてどのような内容を持ち、どのように活用されていくのかについて調べてみようと考え、この研究を行うことにした。

2、提言の目的と背景

A 提言の目的

 まずこの提言は何の為に書かれたものであるのか。「はじめに」を見てみる。

言うまでもなく、子どもの存在は多様である。その多様な子どもたちを受け入れる教育の場が必要であることは論を待たない。子どもは多様であるということを踏まえ、世界的にも、多様な教育の場を社会が認め支えていく流れがある。それでは、私たちの社会ではどのように多様な子どもたちを受入れる場を持っていくべきであるのかを真剣に問わなければならない。また、そのような場を親・市民の努力に頼るだけでなく、社会が支える仕組みを整える必要がある。

 この部分には⑴子どもは多様であるということ、⑵⑴ゆえに多様な教育の場を社会が認めるべきこと、⑶親・市民の努力だけでなく、社会が⑵の多様な教育を支える仕組みを作るべきこと、という3点が書かれている。

B『提言』の出された背景

 『提言』より引用する。

フリースクール等の活動が日本でさらに広がり、 深まるよう、2009 年 1 月、 JDEC( 日本フリースクール大会 ) をはじめて開催することになった。これにあわせて、私たちのフリースクール等での活動から見た教育や子どもの状況を改善すべく、すぐに実現にむけて 取り組むべきことをまとめ採択したものが、この提言である。

 フリースクール等の活動の拡大のために書かれたものである。朝日新聞朝刊2009年1月19日付けには「多様な学びの場を学校と並んで教育制度に位置づけ、公的に支援することを求める政策提言」と書かれている。

我慢しないこと。内田樹とフリースクール。

内田樹は「ぼく自身はぜんぜん『我慢』というものをしない人間です」(角川文庫『疲れすぎて眠れぬ夜のために』p31)という。そのため高校を中退して家を飛び出し、受験失敗後には再び家で大検の勉強をし、そのまま大学の寮に移り住んだ。

内田同様、フリースクール関係者も「我慢をしないこと」を重視する。

どのような不登校の始まりでも、
「ゆっくり休む」「学校は行こうとしない」
これがあなたを一番楽にします。

これは東京シューレのwebにある言葉である。ちなみにアドレスは、https://www.shure.or.jp/futoko/iroiro/page4.htm

現代人は「我慢をすること」「忍耐すること」を重視する。
内田はそれに対し批判的だ。先の本から引用する。

今の自分の状態が分からなくなって、身体が悲鳴をあげていても、それに耳を傾けずに、わずかばかりの欲望の実現のためには耐えきれないほどの負荷を自分の身体にかけることのできる人間は、「私」が極端に縮んでいるという意味では「むかつく若者」のお仲間です。(p18)

続けて内田は、最近の家庭での教育の仕方が「ある条件をクリアーできたら(きちんと排便ができたら、言葉が話せたら、勉強ができたら、**大学に受かったら・・・)、お前を子どもとして承認する、その条件を満たせないようなものは私の子どもとしては承認しない」(p18)ものになっていないか、と問題提起をする。結果的に、無条件に自己を肯定するということが置きづらくなる。

引用を続ける。

繰り返し言うように、人間が使える心身の資源は「有限」です。限度を超えて使用すると、必ずシステム全体に影響が出て、一番弱いところから切れてきます。
「不愉快な人間関係に耐える」というのは、人間が受ける精神的ダメージの中でももっとも破壊的なものの一つです。できるだけすみやかにそのような関係からは逃れることが必須です。(p24)

よく考えると、いじめられるのが分かっていながら〈がんばって〉登校してしまう小中学生もそうだ。不登校を〈悪いことだ〉と思ってしまい、「不愉快な人間関係に耐え」てしまう。結果、心身の限界が来て引きこもったり、鬱になってしまう。

内田の文章からの2つの引用をした。ここで述べられていることは、不登校の子どものメンタリティーとも符合するのではないか。

追記。
…それにしても、日々思うことや考えたこと・発見したこと・学んでいたことをテーマに分けてブログに書いていく。そうするだけで自然と卒論が完成していくような気がしてきた(そうだといいな、という願望とともに)。

さらに追記(09年7月26日未明)。
 内田樹にハマったころのこの文章。いま私は宮台に夢中である。宮台の著書『14歳からの社会学』にも、本稿にある「承認」論が描かれている。
 内田の文章から「ある条件をクリアーできたら(きちんと排便ができたら、言葉が話せたら、勉強ができたら、**大学に受かったら・・・)、お前を子どもとして承認する、その条件を満たせないようなものは私の子どもとしては承認しない」という部分を本稿で引用していた。内田のいう無条件の承認が行われていた時代は過去のものとなった。それを受ける形で、宮台は〈どうすれば承認されるようになるか〉を示している。
 宮台は『14歳からの〜』中で「試行錯誤」を行うことが必要、と語る。
《他者たちを前にした「試行錯誤」で少しずつ得た「承認」が、「尊厳」つまり「自分はOK」の感覚をあたえてくれる》(32頁)
 これは面倒くさいことだ。けれどこれをせずに歳をとってしまうと、「死んだときに誰も悲しんでくれる人がいない」という悲劇を味わうこととなる。「承認」され「尊厳」を得る努力を怠ると、不幸になってしまうのだ。
 それゆえ宮台は〈幸せになりたいなら、勉強だけしていればいいわけじゃない〉と本書で伝えているのだ。もはや勉強だけ出来れば幸せになれる時代は終わったのだ。
 『14歳からの〜』を読み、私の物の見方が180度変わった。パラダイム転換とでも呼ぶべきか。大学でろくに勉強をしない人間を無意識下でバカにしていた自分の方が、実はバカであったことに気づいたのだ。勉強をしていると、いまの社会では褒められ、評価される。けれど、その評価は未来に渡ってのものではない。現体制で褒められる言動が、これからの社会でも同じ評価を受けるわけではないのだ。いまの社会では勉強だけすることに評価が与えられる。けれど宮台のいう新たな社会では、勉強よりも他者から「承認」される能力・技術が必要となる。「大学でろくに勉強をしない人間」は、実は来るべき社会の「勝者」となる可能性を秘めているかもしれないのだ。「パラダイム転換」と私が言ったのはこの点だ。
 勉強だけやるのはもうやめよう。寺山修司ではないが、『書を捨てよ町へ出よう』だ。

フリースクール全国ネットワークの提言。

本年1月12日。フリースクール全国ネットワークが提言を出した。

朝日新聞の記事にはこうある。

各地のフリースクールやフリースペースなど67団体からなるNPO法人「フリースクール全国ネットワーク」は、多様な学びの場を学校と並んで教育制度に位置づけ、公的に支援することを求める政策提言を採択した。

詳しくは下を参照。
https://www.asahi.com/edu/news/TKY200901180174.html
ここも参考になる。https://blogs.yahoo.co.jp/mytown_8/24887111.html

重要なのは、フリースクールの側が「公的に支援を受けること」を要望した、という点だろう。フリースクールの独自性を守るため体制から離れる、というよりも〈支援を受けるが、魂はとられない〉方法をとろうとしている。

なお提言はこちらのフリースクール全国ネットワークwebサイトからpdf版をダウンロードできる。

ところで、来週発表のゼミで何をしたらいいか考えあぐねている。

そのため、この『フリースクールからの政策提言』を検討して見たいと思う。
提言の考察と要約を発表し、「フリースクールの立場から、現存の教育制度への提言を出す意味」を調べるのだ。

歴史的な提言である(と思う)ので、意味のないことはないだろう。

O先生からのコメント。フリースクールのあるべき姿。

国民国家なんか永遠に続くわけありません。でも、だからといって、今すぐ廃絶するわけにもゆかない。いずれ終るけれど、今はまだある。社会制度というのは全部そういうものです。だから、どう手直しして、次の制度ができるまで使い延ばすか、どこまで腐ったら「次」と取り替えるか、というふうに議論は進むべきなのです。(内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』p209)

先日、大学のゼミでO先生にコメントをいただいた。ちなみにその際、私の行った発表はこちら

「フリースクールは制度化された教育からフリーということだ。教育にはいろいろな形態があっていい。日本の学校は水道の数からして全て決まっている」
「日本にはフリースクールといっても、大きく2つの流れがある。東京シューレのようにアメリカ的なフリースクールと、シュタイナーやニイルなどの思想家が考えだしたフリースクールである。多様な選択肢を提示するところに、フリースクールの意義はある」
「いずれ公教育は無くなる。もともと日本の公教育は100年ほどの歴史しかない。国が造ったものは、いずれ壊れる。国家も然りで、200年ももたないのだ。日本はまだだが、アメリカは建国200年以上が過ぎ、だいぶ壊れかかってきている」
「制度を超えるものがないといけない。だから僕はフリースクールは一つの挑戦だと考えている。国や地方公共団体に頼らず、自分たちが賢くなるという動きがフリースクールの発想の中にある」
「選択肢があることが社会の豊かさの証しである。フリースクールもこれを目指していくといい」
「フリースクールが公的支援を使うことよりも、そういったものを一切なしにして、寄付やボランティアでフリースクールが成立することが大切だ。いまフリースクールに関わって社会に出た人がどんどん増えている。そういった人たちが広まったとき、フリースクールへのサポートが大きくなるのではないか」

 やはりO先生は偉大だと実感した。
 最近読んだ内田樹の文章にもあった〈社会制度は永続しない〉という発想。オルタナティブスクールの研究を志すものとしては自覚していかねばならぬ。

今後の卒論の流れの案。

フリースクールの運営に関する、社会学的考察。

1、3年時の研究を振り返って。

 私は3年生の間、フリースクールを専門に研究をしてきた。フリースクール関連のみの流れを示すと、下のようになる。

①発表および見学
●(2年時の研究)東京シューレ理事長・奥地圭子氏へのインタビュー
●(2年時の発表)フリースクールに関する、教育社会学的考察
→フリースクールの定義と東京シューレの実践例の紹介。
●(発表)八王子市立高尾山学園の事例検討
→フリースクール的手法を取り入れた公立学校の事例紹介。
●(見学)東京シューレ葛飾中学校への見学。
→東京シューレが作った学校。
●(発表)フリースクールきのくに子どもの村学園の事例検討
→ニイル思想にもとづく、学校法人をもつフリースクール。
●(見学)フリースクール夢街道子ども園の見学
→未発表。2008年夏に見学に行く。
●(発表)イリッチのラーニング・ウェッブの研究
→イリッチのいう「学習のためのネットワーク」は現代のブログによって実現可能ではないか、という考察。

②書評
●『教育なんていらない』
→教育こそは権力である。教育関係にある限り、人は他者からの支配から逃れることはできない。この点を著者独特のスタンスから追求する本。
●灰谷健次郎の小説・エッセイ(『灰谷健次郎の幼稚園日記』『いのちまんだら』など)
→子どもへのまなざしや現在の教育への批判、あるべき教育像の考察。
●広田照幸『教育には何ができないか』
→人びとは過去に幻想をもっている。「昔はしつけが行き届いていた」など。けれどこれはあくまで幻想でしかない。現代にないものが過去にはあった、と人びとは思い込んでいる。

2、4年時の研究について

 3年時、いくつかのフリースクールへの見学と、そのフリースクールの見学報告としての発表を行った。実際にフリースクール関係者の話を伺うことで、研究の視点も広まってきた。
 けれど教育学の書籍(特に近代教育批判のもの)は読んできたが、オルタナティブスクールやフリースクールに関する書物はまだまだ読めていない。
 4年時では見学に数多く行くのは当然として、オルタナティブスクールに関する書物を中心的に研鑽していきたい。また4年時からNPO法人フリースクール全国ネットワークの運営をボランティアとして手伝わせて(主に雑用だが)いただくことになったので、そこからも学んでいきたい。

3、卒論の方向性

 現在の日本のフリースクールの取り組みに着目した上で、これからのフリースクール運営のあるべき姿を考察する。
 不登校の子どもなど既存の学校教育があわない子どもは多くいる。けれどその人たちが皆フリースクールに通っている訳ではない。その理由には A,情報の不足(フリースクールを知らない、あるいはどこにあるのか分からない)、B,資金の不足(フリースクールに通いたくとも家に費用がない)、C,設備の不足(フリースクールが近くにない)、D,理解の不足(主に心理面。「フリースクールに通うのは恥ずかしい」など)の4点があると考える(注 A~Dの項目は、ヒト・モノ・カネ・情報という四要素に対応している)。
 子どもの教育権を守るためにも、このA~Dの解決を図っていくべきだ。フリースクールの見学で得た知見や書物による学習、NPOやボランティアについての研鑽を踏まえた上で、卒論ではこの方向性を探っていく。
 全体の構成は次のものを想定している。

⑴フリースクールの定義説明
⑵ ⑴の補足説明のために、フリースクールの実例を紹介する(東京シューレを元にする)。
⑵必要とする子どもがフリースクールに通えるようにするための四要素の提示(上のA~D)。
⑶四要素の解決のための方策の提示。
⑷結論

 なお、現時点ではBを解決するための方法として下のものを考えている。

「B,資金の不足」を解決するために。

①フリースクールの学校化。
 いまの学校行政のシステムでは、私立学校には私学助成が行われる。これを活かすことにより、学校の授業料を減らすことができる。東京シューレ葛飾中学校はこれを活用したため、フリースクールの東京シューレよりも毎月の授業料を1万円近く削減することができた。
 奥地圭子は「東京シューレの葛飾中学校を作って、フリースクールだったら絶対にこなかった親や子どもと関われるようになった」と言っていた。「学校」の名であるので、心理的負担なくフリースクールに関わることが可能になる(Dの解決にもつながる)。

②公立学校にフリースクールの手法を取り入れる。
 公立学校にフリースクールの手法を取り入れることで、フリースクールにかかる費用を削減することができる。公立の学校であるためだ。
 八王子市立高尾山学園という公立学校がある。小四から中学生までが通う学校だ。この学校は八王子の公立校で不登校になった子どもを中心的に受け入れている学校だ。

③フリースクールに現在以上の公的支援を行う。
 地方公共団体や政府からの支援を行う。これについて次の2つの視点から考えていく。

a,税金が学校に使われているという視点から。
 これは【学校に通っている子どもには、年間95万円分、税金が入っている】という点から考えることができる。現在、フリースクールに通う子どもは、この95万円を無駄に使っていると言える。奥地圭子は「フリースクールにも利用可能ならば、学校バウチャー制度を導入すべき」といっていた。
 全てとはいわないまでも、フリースクールに通う子どもに税金が使われなければ、何のために税金を納めているのかが分からなくなる。

b,NPOへの支援としての視点から。
 近年、政府や地方公共団体からNPOの事業に支援が入ることが多くなった。NPO法人が制度で決められてから10年が過ぎ、NPOの重要性が意識されるようになってきたのである。フリースクールをNPOとして運営する所も今は多い(東京シューレや夢街道子ども園など)。NPOの活動へ支援が多くなっている今、フリースクールにも支援が増えていくべきであろう。
 けれど、ただ支援を受ければいい訳でない。委託事業という支援形態がある。資金の支援があるが、「この資金はこの事業に使わなければならない」という資金である。フリースクールがこの資金を受けた場合、本来のフリースクールの運営以外の所に資金を使わなければならなくなってしまう。おまけにこの委託事業は一年単位。継続性が難しい。
 政府や地方公共団体からの支援は必要だが、自覚的に支援を活用しなければ、活動がかえって疎外されてしまう危険性がある。

④寄付/会費を増やす。
 ①~③はいずれも公的支援を受けるための方法である。けれどフリースクール本来の働きを行うためには民間/個人からの寄付を多く集められる運営が好ましい。公的支援を受けると、どうしてもフリースクール本来の活動ができなくなる恐れがあるからだ。自由な活動が制約される恐れがある。
 財政面の安定化のために会費を集める/寄付を多く集められる工夫を行っていくことも重要である。

⑤利用者負担を可変勾配化する。
 保育所の中には入所時に親の源泉徴収を提示する必要のある場所がある。額により、保育料金が変化する仕組みだ。これが可変勾配である。無認可保育園でも、親の納税額にもとづいて可変してくれる。フリースクールでもこれを実践すべきではないか。安易に料金を低く一定化することは必ずしもよいことではない。よい教育に金がかかるのは事実である。これを認めた上でなるべく多くの人が利用できるように考えていくべきであろう。

以上。