オルタナティブスクール

欲しないと水は飲めない。

 イリッチは『脱学校の社会』(山本哲士によれば『学校のない社会』)のなかで、子ども自身/人間個人の「学び」が、「学校」によって失われるということを批判していた。学校により、人々は「学んだことは教えられたことの結果だ」という大いなる勘違いを行ってしまう。「学校化」されてしまうのだ。
 宋文洲『社員のモチベーションは上げるな!』という本がある。その中に、次の話が出てくる。

やる気のない人を放っておこう。
 やる気のない部下を許そう。
 これが本書の“本質”です。
 喉が渇いたら、馬は自ら水を探します。そのときは、馬が真剣に、水の匂いを嗅ぎ分け、道を探すのです。
 水がいらない馬を、川に引っ張っていくことは、ムダなことであり、自己満足にすぎません。
 乾きこそ、モチベーションの源泉です。
 他人に与えられるのではなく、自分で感じ取るものです。
 生きていれば、必ず渇くときがあります。
 他人にモチベーションを上げてもらおうと考えた瞬間に、モチベーションの炎が、あなたの心から消え去ります。(6~7頁)


 学校の教育は、いわば水を欲しない馬(子ども)にむりやり水を飲ませよう(学ばせようとすること)とするものである。需要がない所に、無理やり供給をもたらそうとしている。ムダである。これが学校化社会の特徴でもある。
 引用文ではモチベーションを謳っているが、学校においては「学ぶモチベーション」と考えることができるだろう。学校は、無理して子どもに「学ぼうよ」「勉強しようよ」と呼びかける。あるいは恫喝的に「勉強しろ!」「宿題忘れるな!」を叫ぶ。
  これだけで済めばいいのだが、子どもたちは次第に「学校化」される。自分の「学ぶ意欲/モチベーション」を他者に上げてもらおうと考えるようになる。小中 高と、他人から「学べ!」と強制され、結果的に自分から学ぼうとしなくなる。「誰かに言われるから」という自主性のない学びのみとなる。
 現在の大学もそうなっている。高校の延長でやってきているため「自分の研究をしなさい」と言われても「何をすればいいんですか?」「やる気が起きません」とシラッと返す。完全に「学校化」された姿だ。自主性をもった「学び」が起きない。

 私は、学問と言うものは「禁止されても、ついついやってしまう」麻薬みたいなものだと思う。「本を読むな!」と仮に言われても、こっそり陰で呼んでしまうだろう。学問に志すと言うことは、ある意味麻薬を始めることに似ている。学ばずにはいられなくなる。
 本来の学びは、これくらい中毒性の強いものなのだ。真に自発的に「学ぶ」意欲が湧いたとき、人間は果てしなく学んでいくものなのだろう。それを無理やり学ばせようとするから、「学べ!」と強制されない限り自分から学ばない「学校化」された個人が誕生してしまう。

『シャドウ・ワーク』第3章ヴァナキュラーな価値

 ヴァナキュラーとはイリッチの言葉で「その地の暮らしに根ざした固有の」(80頁)という意味。

 今、山本哲士『教育の政治 子どもの国家』を読んでいる。そのなかに「場所」という概念があげられている。
「場所」は「社会」の対概念である。近代公教育は「社会」の教育を意図していた。それは画一的な教育内容である。「場所」に応じて教育が変わることは「公教育にあってはならないことだ」とされた。
 ちょうど今、全国一斉学力テストの結果が開示され「秋田県がまたしても1位」という報道が出ているところである。それをうけ、各所で「教育格差が生じている」との批判が出ている。「住む場所によって、教育サービスの質が違っていてはならない」と批判がなされる。日本が「社会」の教育を意図していることはここから明らかであろう。
 山本は「社会」でなく、「場所」に注目する。「場所」性の回復を意図しているのである。山本の「場所」という発想は、イリッチで言う「ヴァナキュラー」と同じであろう。「その地の暮らしに根ざした固有の」やり方に着目していくのは、「場所」性の回復と同義である。
 冒頭、イリッチが80から81頁で語る比喩はなかなか難解である。
 イリッチはまず、人間の環境は「食物、禁止された食物」「非食物」(80頁)の3種類から構成されていることを説明する。
 ヒンドゥ教徒(仮にAさんとする)にとって豚肉を食べることはタブーである。つまり「禁止された食物」。このAさんはおそらく、ベゴニアという花を食べようとは思わない。彼にとってベゴニアは「非食物」なのだ。けれど、Aさんが中央メキシコ出身のインディオのBさんといっしょになると話は変わってくる。Bさんにとってベゴニアは「食物」。Aさんの「非食物」概念からベゴニアが外されるという現象が起こるのだ。このことをイリッチは「彼(注 Aさん)ではなく、彼のまわりの世界が一変する」(80頁)と言っている。
 このヒンドゥ教徒とベゴニアの比喩の後、イリッチは「論争上の問題も同じように区分することができる」(同)と語る。論争上の問題の区分は、「合法的なもの」、「上品な社会では提起すべきでない」もの、「まったく意味をなさない問題」の3つである。3つ目の区分にあてはまるものは、「そのような問題を提起すれば、悪魔のようなやつだと思われるか、あるいはひどくむなしいことだと考えられてしまう危険がある」とイリッチは語る。「ヴァナキュラーな領域と〈影の経済〉とを区別することはそうした種類の問題である。私はこの試論によって、この区別を議論の可能な領域へと引きよせてみたい」。どうやら「ヴァナキュラーな領域」と「影の経済」は「まったく意味をなさない問題」と解釈されているように思える。
 続いてイリッチは経済について話をする。現代の経済は〈影の経済〉を正式な「経済」のなかに取り込もうとする。なお〈影の経済〉とは、イリッチの文章を見る限り、「労働および生産物のヤミ市場」(81頁)のことらしい。その結果、「経済学者は以前にもまして、私的部門に侵入し、ヤミ市場を版図に加え、政策立
案者による植民地化の対象とした」(81頁)のだ。このことをイリッチは「経済学者たちは豚肉を食べはじめた」と言う。ヒンドゥ教徒の例にあった「禁止された食物」が「食物」に入ってきたことを言う。本来、経済学で扱うべきでないと考えられていた(「禁止された食物」だった、ということ)〈影の経済〉が、「経済」(「)食物」)と扱われるようになってきた。
 「この試論において意図していることは、経済学上の豚肉とヴァナキュラーなベゴニアとを区別することである。経済学上の豚肉、ヤミ市場の商品、合法的な物資をただひとつのメニューで提供することの妥当性については、私の関心は間接的でしかない」(81頁)。イリッチにとってベゴニアは「非食物」にも「食物」にもなるものである。「合法的な」問題と「まったく意味をなさない問題」の両方の領域にまたがっている。このように人によって「合法的な問題」にも「まったく意味をなさない問題」にもなるものを、イリッチは「ヴァナキュラーな価値」と読んでいるのであろう。
 
初のカスティリア語辞書を発行したネブリハの行動の意味。
「ネブリハは、人々が読めるようになる文法を教えようとしたのではなかった。むしろイサベラ女王に懇願して、読書の無政府的な拡散を、彼の文法を使用することで食い止めるよう権力と権威を与えてほしいといったのである」(108頁)
 ネブリハの行動によって、「それ以後、人々は、各人が制度的に負わされている教育の次元で、この標準化された言語を使うことを余儀なくされる」(109頁)。こうして「ヴァナキュラーな言語から公的に教えられる母語[母国語]への転換」(同)が起きることとなる。
 (続く・・・)

NPO法人東京シューレ編『フリースクールとはなにか』教育資料出版会、2000年

『フリースクールとはなにか』より、印象的な部分を抜書きする。

●東京シューレでの教育プログラムを決めるのに、講師を探し、時間と場所やスタッフの関係を調整し、ミーティングで決めるなど、多くのステップを設けている理由について。

このような決め方をするのは、学びとは何をどのくらい、どのように学びたいかを、自分で決めるものであって他人が押しつけるものとは考えていない、という学習感があるからだ。また、やりたい、学びたいというものに取り組むのは、学習がすすみやすいが、やりたくないもの、なぜやるかわからないものをやらされるのは意味がなく、マイナスを生むということもある。うんざりしたり、学習ぎらいになるくらいならやめた方がよい。興味、関心を大切にすることを軸にしていくことをシューレでは原則にしている。(153~155頁)

●東京シューレでは、子ども達が自由に学び、自由に過ごし、自由に遊んでいる。子ども達が積極的に活動している。けれどそれは無理にさせていることではない。
探究心が育つとか、行動的な子になるから自由は大切だというような、教育的見地で、自由にさせているということではない。目の前にある時間を、必ず目的をもって行動しなければならないのはおかしいし、息苦しい。安心してなんとなく過ごせる場、たわいなく暇つぶしのできる場でありたい。(・・・)
何でもやれる自由、何もしない自由。シューレのなかで、時間の流れは人さまざまだ。(172頁)
●フリースクールに通っている子どもの手記から。

(フリースクールなどで)人と会話をしているだけで学びがあります。人と話していくなかで自分自身も見つめられるようになり、いまの私があるのもすべては会話から生まれたもので、人にとって聞く、話すということはとても大切で、たとえそれがテレビや音楽のことでも決して無駄な時間ではないことがよくわかりました。これからもたくさんの人と話し、自分を広げていきたいと考えています。(211~212頁)

*(  )内は石田。
●「やりたいこと」について。

やりたいことを見つけるには時間がかかる。しかし、自分の好きなことをやっていこうと思ったときが出発点である。何歳になっても、学校に行くことも、働くことも、ボランティアも始められる。ただ、不登校である自分を肯定していないと、いつまども苦しいプレッシャーにとらわれてしまう。それには、やはり親やまわりの理解であり、ゆっくりと過ごす時間がとても必要なのだと感じる。(233頁)

子どもの冒険の自由と、教育組織としての安全確保義務の軋轢。

 もうすぐ、私がボランティアをしているもう一つの組織の活動が始まる。中学・高校の寮のボランティアである。夏休みが終わり、新学期が始まるからだ。寮生の安全確保や見回りなどが仕事の内容。後は寮生と語り合って有意義な時間を過ごしている。

 いつも着任のたびに思うのは子ども(寮生)の「冒険」の自由と、教育組織としての安全確保義務との軋轢である。寮生は時々、かなりのムチャをする。行事前の徹夜、いまは減ったが寮の夜間抜け出しなどである。私はボランティアの立場からこういった行為を止めに入る。万が一、事故・怪我があった場合、学校組織としての責任が発生するからだ。けれど、それがときに寮生の「冒険」「挑戦」の自由を阻害しているように思うときもある。
 フリースクールの場合は少し異なるようだ。『フリースクールとはなにか』(NPO法人東京シューレ編、教育資料出版会、2000年)という本がある。フリースクール・東京シューレに通う子ども達の日常を綴った本である。サブタイトルの「子どもが創る・子どもと創る」にあるように、子どもの自発性に任せた活動を行っているのが東京シューレだ。子ども達が「やりたい」という自発性に基づいて、行動を行う。本書に載った内容を見ると、「危険じゃないのか?」と思うものもあった。それでも、「子ども中心の教育」を行うため、大きく抱擁する形で教育活動が日々行われている。
 無論、事故・怪我が起きたときのため、保険をかけたり、スタッフが付き添ったりしているのだろう。けれど、万が一事故が起きたとき、マスコミ沙汰になり「あのフリースクールは何をやっているのだ」という非難にさらされてしまう。
 私のボランティアをしている寮は、安全確保を何度も呼びかけ、事故を未然に防ごうとしている。
 教育において難しいのは、ここに書いた内容であろう。かつて親友のOがゼミにおいて「性教育でも、間違いから学ぶことが重要だ」と発言したところ、顰蹙を買ったと聞いた。「失敗から学ぶ」のは当然重要な考えなのだが、例えば実際に「妊娠中絶」を経験して学ぶというのはいかがなものか、とは思ってしまう。けれど、考え方としえては「失敗から学ぶ」という方向性は成立することであろう。いま参議院議員の「ヤンキー先生」は、公約として「子どもたちが安心して失敗できる社会に」と言っていたことを思い出す。
 教育組織としては子どもが失敗(事故や怪我)しないようにするが求められるが、失敗することから子どもは多くを学ぶ。子どもの冒険の自由とは、この「子どもは失敗からも多くを学ぶ」ということを理論化したものだ。また子どもが自発的に行動を行っていく、ということにもつながる発想である。大人が「安全確保」を行い、失敗をする危険性から子どもの行動を阻害した場合、子どもの成長するチャンスがつぶされてしまうのではないか、と思う。
 私の行っている寮は中学生と高校生の寮だ。ある程度、大人である。安全確保をするのは当然だが、もう少し寮生の自由の幅を広げてあげてもいいのじゃないか、と思うことがある。
 
 けれど、さきほどの「妊娠中絶」の話ではないが、「大失敗」的な失敗をしないよう、大人は子どもに接していくべきでもある。子どもの冒険の自由と教育組織の安全確保義務は、単純なゼロサムゲームではないのだ。片方を求めれば、もう片方が立たなくなるものではない。折り合いをつけながら、バランスを取ることこそが必要なのだ。どの程度まで「冒険」を認めるか否か、という点である。
 この問題はもう少し考えていきたい。
追記
 『千と千尋の神隠し』という映画がある。両親を助けるため、千尋は温泉宿で働くなかで、神様やカオナシのおこす問題を解決していく、というストーリーである。千尋の「冒険」が、物語を成立させている。
 重要なのはこの千尋の「冒険」は、両親には一切見えていないということだ。教員や、地域の大人にも見えていない(別の世界の話だから、当たり前といえば当たり前)。子どもの自主的な冒険はそもそも大人には見えないものではないだろうか。同じく宮崎アニメの『となりのトトロ』も、メイとサツキ姉妹の「冒険」はトトロやネコバス同様、大人には見えていない。
 おそらく寮の中でもフリースクールの中でも、大人(教員やボランティアの学生)には見えない「冒険」が繰り広げられていることだろう。表面化に出た「冒険」のみを、大人が認識する。
 本稿の中で「子どもの冒険の自由と、教育組織としての安全確保義務の軋轢」を問題にしたが、そもそも子どもは冒険をどんなに「安全確保のため、禁止!」されたとしても、大人の見えないところで冒険してしまう存在なのではないかと思っている。ちょうど、高校生のときの自分のように。

教育政策ネットワーク サイトに感じた違和感。

教育政策ネットワーク、というサイトがある。「教育が変われば、日本が変わる」ということを謳ったページである。その中で、日本の教育改革について一般人の意見をもとめるという項目があった。私もさっさくやってみる。実施後、「この教育改革って、しょせんは学校に行っている子どものみが対象じゃないか」と違和感が残った。そのため、次のコメントをメールした。


私はフリースクールでボランティアを週一の頻度で行っている者です。

貴団体の教育の政策提言なのですが、すべて「学校」での教育のみに片寄っているように感じられてなりません。 日本の教育をよくするならば、学校を変えるだけでよくなることはないはずです。学校が合わないと訴える不登校の子どものための教育政策が必要だと思います。その教育政策は〈再び学校に行けるよう、学校を魅力的にする〉だけでは意味がありません。学校という存在それ自体が合わないと考える子どもは、現に存在しているからです。学校とは違う教育機関をも対象に入れた教育政策の提言が必要であると考えます。 いま、フリースクールに通う子ども達には、通学定期券以外、ほとんど行政からの支援をうけることができません。やろうと思えば、政策提言にあった奨学金制度の拡充をフリースクールに通う子どもも対象に入れることが可能だと思います。そのような「フリースクール等の学校外教育機関に通う子ども達」の利益も考えた教育政策こそが、いまの時代に必要であると考える次第です。 昨日、フリースクールに通う子ども達が中心になって「不登校の子どもの権利宣言」が発表・採択されました(「2009不登校を考える全国合宿」)。その中に、「不登校をしている私たちの生き方の権利」というものがあります。「おとなは、不登校をしている私たちの生き方を認めてほしい。私たちと向き合うことから不登校を理解してほしい。それなしに、私たちの幸せはうまれない」と書かれています。不登校の子ども達へのまなざしを忘れない教育政策が必要であると考える次第であります。

追記
山下和也『オートポイエーシスの教育』には次のようにある。「教育による社会変革は絶対に成功しません(…)そもそも、ある社会において教育による育成が期待されるのは、その社会の社会人人格の担い手なのです。元来、教育に求められるのは現状の再生産なのですね。教育自身に、それを定義しなおす力はありません」(212頁)。この文章から考えるなら、「教育が変われば、日本が変わる」というスローガン自体が、いかに怪しい存在であるかがわかる。



「2009不登校を考える 第20回全国大会」と「不登校の子どもの権利宣言」

 昨日、「2009不登校を考える 第20回全国大会」が終了した(8月22日~23日)。この大会は保護者の部門と子どもの部門に分かれて開催された。

 フリネット(フリースクール全国ネットワーク)ボランティアの私は、子どもの部門のほうでスタッフとして関わらせていただいた。子どもの部門は「子ども交流合宿ぱおぱお」という名称で行われた。
 大会のエンディング。「不登校の子どもの権利宣言」という文章が発表・採択された。これは不登校の子ども達が作った、画期的な宣言文である。大会の実行委員長のひとり・K君が中心になり、話し合いに話し合いを重ね、作った宣言だ。前文を引用する。
前文
 私たち子どもはひとりひとりが個性を持った人間です。
しかし、不登校をしている私たちの多くが、学校に行くことが当たり前という社会の価値観の中で、私たちの悩みや思いを、十分に理解できない人たちから心無い言葉を言われ、傷つけられることを経験しています。
不登校の私たちの権利を伝えるため、すべてのおとなたちに向けて私たちは声をあげます。
 おとなたち、特に保護者や教師は、子どもの声に耳を傾け、私たちの考えや個々の価値観と、子どもの最善の利益を尊重してください。そして共に生きやすい社会をつくっていきませんか。
 多くの不登校の子どもや、苦しみながら学校に行き続けている子どもが、一人でも自身に合った生き方や学び方を選べる世の中になるように、今日この大会で次のことを宣言します。
 このあと、13条にわたって様々な権利が主張される。
1、教育の権利
2、学ぶ権利
3、学び・育ちのあり方を選ぶ権利
4、安心して休む権利
5、ありのままに生きる権利
6、差別を受けない権利
7、公的な費用による保障を受ける権利
8、暴力から守られ安心して育つ権利
9、プライバシーの権利
10、対等な人格として認められる権利
11、不登校をしている私たちの生き方の権利
12、他者の権利の尊重
13、子どもの権利を知る権利
 実行委員長の奥地圭子さんは「この提言を聞いていて思わず涙が出てきた、と参加者が何人も語ってくれた」とおっしゃっていた。
なお、参加者の方が「不登校の子どもの権利宣言」へのコメントを書いているブログがありましたので、ご紹介いたします

個への対処と、全体の変革の矛盾。

 不登校という「個」への対応を、フリースクールは行っている。

 けれど、これは時に宮台真司のいう、スクールカウンセラーの矛盾にもつながる。個への対応をすることは、時に全体の変革の妨げとなり、現状は変わらないという矛盾である。
 どういうことかというと、スクールカウンセラーは「鬱っぽいんですけど・・・」という生徒への対応を行う。そのために、うつ気味の状態回復のプログラムを個人に提案したり、じっくり話をきいたりする。それ自体は個の対応として重要なことだ。けれど、スクールカウンセラーは鬱の原因を作った学校や家庭それ自体への対処を行うことは(ほとんど)ない。
 最近はましになったが、教員とスクールカウンセラーの連携が取れていないところもあった。そういう場所では「教師は教える仕事、スクールカウンセラーは治す仕事」と単純に仕事の割り振りが行われ、スクールカウンセラーの声が教員に届かない状況があった。スクールカウンセラーが個にいくら対処しても、学校や家庭自体が変わらないならばいつまでたっても状況は好転しない。
 この矛盾に対し、2つの考え方がある。1つは「個」に接し、対処して「治った」子どもが多くなると、社会システム自体が変化するという考え方だ。つまりスクールカウンセラーによって「治った」子どもが増えてきたら、自然と精神的に悩む子どもが少なくなる、という考え方である。これには批判ができる。病院の存在である。病院で治療しても、その病気やけがの発生が減るということはない。
 もう1つの考え方は、「個」への対処では限界がある分、システム自体を変えるという発想だ。フリースクールの例で言えば、個別のフリースクールの対応のレベルから次の2つの活動に広げていくことが挙げられるだろう。①全国組織であるフリースクール全国ネットワークを結成し、政策提言(既存の学校システムへの変革)や予算請求などを行いやすくし、より広域での活動を行うということ。②東京シューレやきのくに子どもの村学園のように、学校システムそれ自体へ参加し、「現在の学校制度内でもフリースクール的教育実践は可能なのだ」示すこと。この2つである。不登校の子どもという「個」への対応にとどまっていると、目前の子どもしか関わることができない。けれど、システム自体の変革に目を向けていくと、より広範な子どもと関わることができる。
 いま不登校は12万6000人いるといわれている。学校システムや教育システムの変革が必要となってきているようである。個別のフリースクールでの「個」への対応が重要なのは言うまでもないが、より広範な対応を行うため学校/教育システムの変革を①や②の方法で取り組んでいくことがこれからさらに必要になってくると考えられる。
 
 

『脱学校化の可能性』「解説」より。

『脱学校化の可能性』「解説」より。

「近代文明と人間に対するラディカルな問いかけ」をする人々が1960年代後半から1970年代初頭に現れてくる。
  ↓
「この時期にはまた『脱学校化』を唱える人々と共に,様々な学校批判と改革を主張する一群の人々があらわれた」(197頁)

「このようなラディカルズと呼ばれる人々をデイヴィッド・ハーグリーブズは脱学校論者(Deschooler)と新ロマン主義者(New Romantics)とに分類している」(197頁)
脱学校論者:「教育制度と社会を根本的に批判し、ラディカルな代案の構想を提案している人々」「彼らの主な仕事は、社会の構造の中における教育の構造についてであり、学校の廃止を主張し、教育は特定の教育制度の仕事であることをやめ、かわりに社会の様々な部門に拡散される」
「イヴァン・イリッチ、エヴァレット・ライマー、パウロ・フレイレ、等」
「長期的で幅広い展望」「学校ばかりではなく社会の変革」(分析の焦点)

新ロマン主義者:「現在の教育の実践には非常に批判的ではあるが、学校にかわるラディカルな代案よりも改革を主張する。彼らの主な関心は、カリキュラム内容の再構成や教育の性格の再規定であり、その分析は、ほとんどミクロな社会学的レベルあるいは社会心理学的レベルである」「脱学校論者の学校診断を受け容れているが、教師や学校そのものを攻撃しているのではなく、教育制度内改革を目ざしている」
「ハーバート・コール、ニール・ポーストマン、初期のジョン・ホールト、カール・ロジャース、オンタリオ教育研究所の人々や、さかのぼれば、サマーヒルのニール、フリーデンバーグ、コゾル等」(198頁)
「短期的(展望)」「焦点は教室の中」(分析の焦点)

*ポール・グッドマンは、脱学校論者、新ロマン主義者「双方のグループの父と言われている」(199頁)

ジョン・ホルトを探れ!

 卒論を書き始める。このブログに書いた内容を継ぎはぎするだけで、もう2万字になった。あと1万2000字。8月中に終りそうな気がしてきた。

 まとめるにあたって、イリッチ以外の脱学校論者を知る必要が出てきた。
 というわけで、今日はジョン・ホルトについてを書いておきたい。

 タネ本は金子茂・三笠乙彦編『教育名著の愉しみ』(時事通信社、1991)の「子ども その権利と責任」(佐藤郡衛、222頁〜)より。

1970年代にはイリイッチやライマーらの強い影響を受け脱学校論に深い共感を示すようになり、脱学校論という視点から次々に論文を発表していく。(223頁)

ホルトは他の脱学校論者と異なり、学校の存続を認めており、子どもが学校へ行くにせよ、行かないにせよ、その選択を子ども自身がすることを提唱している。彼の主張の根底には、子ども中心の思想が流れている。(222頁)

 お、出ました「子ども中心」との言葉。良さげな学者ではないか。

ホルトの子ども観はきわめて明確である。子どもを一人の人間として大人と変わらないように認めてやること、大人よりもあらゆる面で劣っているという見方を改めることである。(223頁)

子どもは大人からすべて与えられたり、押し付けられたりして、自ら決定できる範囲がきわめて少ない。このため、子どもが自分の行動に対して、自ら選択できる範囲を広げてやることが必要である。つまり、大人のいっさいの「管理」を拒否し、自由の回復をはかることをめざしているのである。(225頁)

子どもに対する「教育」から子ども自身による「学習」へと、言葉を変えれば「管理」から「自由」の教育へという発想の転換をはかろうとするものである。(224頁)

 神戸フリースクールの設立者が面白いことを言っていた。
「ボクは普通の学校の子って、ブロイワーやと思うんやね。そやけどフリースクールの子は地鶏や」。
 ブロイワーは与えられたエサだけを食べる。他に興味も何もない。というか、よそ見をしないことが求められる。
 地鶏は自分の力でエサを探す。与えられるエサだけでなく、土を掘って虫やミミズも食す。どちらがたくましく育つか、言うまでもない。

フリースクールにおける、ミーティングの意義。

 クロンララスクールは東京シューレが交流を行っている、アメリカのフリースクールである。『フリースクールとはなにか』によると、「クロンララスクールは、設立が古いということだけでなく、さまざまな機会をとらえて子どもが中心の教育の大切さを説いてきており、フリースクールとしてもホームエジュケーション運動の拠点としてもアメリカのリーダー的存在の一つである」(42頁)と紹介されている。
 クロンララの活動の鍵となるのは、ミーティングである。再び、『フリースクールとはなにか』より引用する。

クロンララの活動はミーティングで話し合って決められている。子どもとスタッフが対等のクロンララでは、ミーティングでもそれは同じである。子どもの提案もスタッフの提案と同じように扱われるし、決を採るときは、子どももスタッフも同じ一票をもっている。そればかりではない。スタッフの採用も、子どもたちがほかのスタッフと話し合って決めるのだ。スタッフの希望者は、子どもと前からいるスタッフのインタビューを受け、何日かクロンララで過ごしたあとで、子どもとスタッフのミーティングで話し合って決められる。(『フリースクールとはなにか』、43~44頁)

 『超・学校』で紹介されたサドベリーバレースクールにも、同じような記述があった。子どもとスタッフは同じ1票を持つということ、スタッフの人事に子どもも加わって話し合うことなど、共通点が多い。
 東京シューレでは活動を話し合う、というレベルでミーティングが重視されている。けれどスタッフの人事まで話し合うということはない。
 直接民主制を成立させるかのように、フリースクールではミーティングが重視されているようだ。