エッセイ

里見実『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』太郎次郎社エディタス、2010

 この本を私は、長野に向かうバスのなかで読んでいた。高速道路から見える緑の風景。ブラジル生まれの教育学者パウロ・フレイレが活躍したのも、こんな景色の中であろうか。残念ながらブラジルに行ったことがないので詳しくは分からないが。

 本書はフレイレ(1921-1997)の著書『被抑圧者の教育学』の解説書である。フレイレの教育思想は一体何をテーマにしたものであったかを、著者の里見は検討していく。

 フレイレは教員の一方的な教えこみによる教育を「預金型教育」といって批判をする。預金型教育は人を受動的にしていくからだ。タイトルにあるように、「被抑圧者」にさせられるのが「預金型教育」である。

 そうではなく、教員ー生徒、あるいは生徒どうしの対話による「問題化型教育」が必要であるとフレイレは主張した。彼の「識字教育」は「問題化型教育」の実践である。実際にブラジルの農村をまわり、フレイレは「問題化型教育」を行う。それが当局に批判され、ついには亡命を余儀なくされてしまうのであるが。

 フレイレが危険を冒してまで実践したこのねらいは何か? それは抑圧を受けてきたものが、教育を通じ、自分自身の主体者となることである。

「『読み手』として世界に向きあうこと、それをフレイレは『意識化』とも呼んでいます。(…)フレイレにとっては、識字は『意識化』と同義でした」(154頁)。

 つまり、フレイレの識字教育は世界を読み取る主体に人々を変えていく行為であった。これは受動的な存在から、主体的に世界に関わる存在へと転換することを意味する。「被抑圧者」が、教育によって「人間化」するのだ。「人間化、フレイレの教育学の、これが根幹です」(49頁)と里見はまとめる。フレイレにとっては人間化のために教育が重要なのだ。

 興味深いのは、フレイレが書いた次の記述である。「被抑圧者のみが、自分を自由にすることによって、抑圧者をも自由にすることができるのだ。階級としての抑圧者は、他者はもちろん、自分をすら、自由にすることができない」(85頁)。被抑圧者が「人間化」され、自由になるとき、はじめて抑圧者自身も自由になる。人が人を抑圧するということも「非人間化」されているのである。

 フレイレの本を読むと、あらためて教育の意義や「輝き」を感じられる気がする。

イヴァン・イリッチ著、金子嗣郎訳『脱病院化社会 医療の限界』晶文社クラシックス、1998年

 フーコーの関係で言うと、「生涯教育」は一生涯のディシプリンである。恐ろしいことであり、人間はいつまでたっても自由に/わがままに生きることができなくなってしまう。

 イリイチはこう語る。もともと、教育の場では限られた場所(学校)で限られた時間に、限られた教科の手ほどきをうけるために教師の前にさらされていたが、「新しい知識の商人はいまや世界が自分の教室だと考える」(197頁)。たえず「学び続ける」ことが強制されるのだ。一見、自律的に見えるが「ムリヤリ」やらされる自主学習であることを見落としてはならないはずだ。イリイチは続ける。「教科の教師は自ら教科をあえて学ぼうとする非学生のみを資格なきものとすることもできたが(藤本注 これも、非常に皮肉で面白い。自発的に学ぶ学生はもはや学生ではないのだ)、一生、くりかえされる「教育」「自覚化」「感性訓練」「政治化」の新しい管理者は、自分が同行しない行動様式をすべて一般大衆の眼の中で貶めようとするのである」(197~198頁)。「一生、くりかえされる「教育」「自覚化」「感性訓練(フーコーの「規律・訓練」だ)」「政治化」」というのは、まさに生涯学習や生涯学習の批判になるものだ。本来、学びは勝手にやるものである。やらなくても別に構わないものだ。それが本田由紀のいうポスト産業社会型スキルでは常に学び続ける姿勢やモチベーションや「さわやかさ」が求められる。人々が無理矢理学ばされ、それを「生涯学習」という美談でまとめてしまっている。恐ろしきことではないか。

イヴァン・イリッチ著、金子嗣郎訳『脱病院化社会 医療の限界』晶文社クラシックス、1998年

かつてない危機。

 アニメ映画では必ず主人公たちが「かつてない危機」に陥る。それがTVで紹介されるのを見て、視聴者は劇場に向かう(そして観客になる)。人々は「かつてない危機」に弱いのだ。体制が崩れるというカタストロフィーこそが、「一体どうなるのだろう」という不安と同時にカタルシスをもたらすのである。

「かつてない危機」が日常にはない(リストラされるまではリーマンショックはショックではない)。ゆえにアニメという一見平和に見える手段を通して、人々は「かつてない危機」を求めにいくのである。決してアニメは「アニメ的日常」の延長を映画のなかで行うことはしない(そんなことをするのは「水増ししたテレビ」である)。

環境教育は本当に必要か?

 環境教育について、昨日大学院の授業の中で議論になった。方法論についてが問題となるなか、私は「そもそも環境教育は不要ではないか」という発言をし、非常に「浮いた」存在となった。皆が思うほど、環境教育の自明性は確立していないのではないかと感じたために私は質問をしたのであった。

 いま地球環境は悪化している。「だから」環境教育をしないといけない。どの論者の意見にも、この論理が含まれている。私はそれに対し、「なんで?」と感じる。地球環境の悪化はよくわかる。ではなぜ環境教育の実践が必然となるのだろう。
 学校「教育」にはお金と時間がかかる。「やったほうがいいこと」と「やらなければならないこと」を区別し、優先順位の高い「やらなければならないこと」に費用と時間をかけていくことが必要となる。環境教育を、多くの人は「やらなければならないこと」だと認識しているため、私の昨日の発言は「浮いた」ものとなるのだろう。私の認識では環境教育なんて所詮は「可能なら、やったほうがいいこと」である。お金と時間が余っていたらやろうかな、のレベルである。
 例えば、私も習った高校の「現代社会」教科書にはインフォームドコンセントという言葉があった。これを言葉だけで知っているだけでなく、実際に行うという体験学習をしたほうが生徒には深く理解することができる。でも、それをやらない。何故か? 必要性が低いと感じられているためである。それでも、人によっては「やるべきだ」という論者もいる。

 「ノーベル賞取得者を増やす教育を」という提言も、一昔前に出された。これは実践もされないままに忘れ去られようとしている。何故か? これも必要性が低いと感じられたためである。
 私は納得できないが、環境教育はどこかの時点で人びとに「必要性が高い重要な教育だ」との合意が形成されてしまったのだろう。ただ憂えるべきは実際に教育を受ける側が、たとえ嫌がったとしても「環境教育」を受けなければならないということなのである。
 環境教育において、これを学校で行う限り、「反環境」的意識を持つ人びとは排斥をされるか悪い評価を与えられてしまう。個人の心情を教育機関が「評価」し、価値付けを行ってしまう。環境教育のように、目指すべき方向や結論がハッキリしたものを学校で行うことは茶番のような気がしてならない。
 

山口昌男『いじめの記号論』(岩波現代文庫、2007年)

柳田国男は、子供は彼ら自身の独立国、共和国を築いていたといういい方をしています。ガキ大将もいたけれども、子供は仲間で遊ぶ。お互いに学校に行くようになっても、だいたいその圏内にある全員が面倒を見合う。子供組というきっちりした関係でなくても、子供たちにはいわば自主的な遊び仲間があったといっています。そのなかである程度いじめられるかもしれないけれども、それは鍛えるという意味があって、陰湿ないじめではなかった。(92頁)

 かつての子どもコミュニティを≪子どもの共和国≫と呼んでいたセンスを、私は興味深く思う。この共和国は大人が作ったものではなく、子どもたちが自然発生的に作り上げたものだ。
 子どもの共和国はおそらく、構成員を少しずつ変えながら変遷してきた。橋本治の『勉強ができなくても恥ずかしくない』(1)には、そんな子どもの共和国が描かれている。その中では中学生になると、そのコミュニティから去るというプロセスが描かれていた。気付けば参加していて、やがていなくなる。子どもの共和国の構成員は流動的なのだ。地方では子どもの共和国をさかのぼると自分の父母や祖父母、そのまた前の先祖、地域に人が住み始めたころまでさかのぼれるものもあるかもしれない。

たとえばすぐ塾へ行かなくちゃいけない。塾は、仲間をつくるためではなくて、仲間をつくらないために行くところでもあるわけです。子供の遊び仲間の代替物にはなりません。遊びの塾までができるような世の中では私のいうことは通用しないのかもしれません(93頁)

 山口の言うことは、以前私が書いた『子どもにとって「夕暮れ」とは何か?』と関連があるように思われる。仲間を作るという働きを奪うために、あえて塾に行かせる。「地域の子と遊んじゃ駄目よ」といいつつ。地域の多様な子ども集団(これも郊外化で大分幻想になってきたが)でなく、「塾」という同質の集団内にいさせようとする。子どもが異質な他者と出会う場を奪っているのだ。私が「夕暮れを子どもから奪ってはいないか」というのは、夕暮れが子どもが他者(地域の子どもや大人、異界など)と出会う時間帯であったからである。

 …まあ思うのは、「ガキ大将」も神話だったのではないかという点である。日本全国どこでもガキ大将はいたのか? そんなことはないだろう。いるように皆が信じているから、いたように感じられるのではないか。同様に、「ガキ大将を中心にした子ども社会があった」と聞くことがあるが、これも一種の神話あるいは都市伝説だったのではないだろうか。

 あと「子供組」はあくまで子どもの自発性から生まれた概念であるが、現在の「子ども会」は大人が中心に作ったものだ。ともすると、大人が押しつける子どもコミュニティになってしまう。小学生の時、少年野球チームの名前に「中町スポーツ少年団」というものがあった。スポーツをする集団を大人が無理に作ってはいなかっただろうか、と思うのである。
 この件が重要なのは、よく「教育活性化」と称して大人が子どものために何らかのコミュニティを作りだすことがある。あるいは自分がやりたいからと言って、「フリースクール」を作る者もいる。子どもの内発性に基づかず、外発的な集団。確かに成功して子どもが喜ぶこともあるが、子どもの自主性に応じていないため子どもの興味がなくなることもままある。そんなとき、大人は「こんなに俺が頑張っているのに、何故この子は楽しまないのだ」とフラストレーションがたまる。小学生の少年野球時代、えらく理不尽にコーチから怒られていたことを思いだす。〈コーチたちは楽しみのために野球をやっているのかもしれないけれど、僕は小学校の皆が野球チームに入っているから仕方なくやっているだけなのだ。どうしてそんなに怒られないといけないのだ〉と感じつつ、プレーをしていた。
 大人が自らの興味に基づいて「子どものため」と称して何かをするのは間違いではないか。子どもの内発性を信じようではないか。子どもに自由を与え、そこから出てくるものを採用することこそ、これからの時代にふさわしいのではないだろうか。 

なぜ妖怪物語の舞台が高校に移ったのか?

 『かのこん』というアニメを見た。主人公・小山田耕太(おやまだ・こうた)はいつも源ちずると犾森望(えぞもり・のぞむ)という「恋人」たちに振り回されるという単なるラブコメ(ただしR指定が付く)。ちずるも望も実は「妖怪」で、物語の裏テーマに妖怪との共生が描かれている。

 観ていて一つ気づいたことがある。それは《妖怪の出る高校》が舞台である点だ。

 90年代後半に連載されていた『地獄先生ぬーべー』と『かのこん』は非常に似ている。妖怪の出てる学校が舞台で、登場人物達はその妖怪に振り回され、主人公の活躍で妖怪が退治される、というストーリー運びに共通性が見られる。違うのは『ぬーべー』が小学校が舞台なのに対し『かのこん』は高校が舞台であるという点だ。
 昔から妖怪と出会う物語の主人公は、学齢期以前か小学校の年代の子どもであった。座敷童が見えるのは小学生低学年ごろまでであった。『となりのトトロ』では二人姉妹がトトロという妖怪(と言って悪ければ異界の存在)と出会う物語であり、『ゲゲゲの鬼太郎』は鬼太郎と小学生たちの交流を描いた物語であった。
 一昔前は妖怪が見える(言葉をかえるなら「異界と出会える」)のは小学生までの子どもであった。けれど『かのこん』において妖怪と出会うのは高校生。段々と妖怪と出会う物語に出てくるキャラクターの年齢が上がってきているのだ(アニメ化されると言うことは「高校生が妖怪と会うなんてありえない」と言う声よりもこの舞台設定を受けいれる読者が多いということを意味する)。
 昔、妖怪を含め「異界」と出会うのは文字通りの「子ども」のみであった。彼らはよく世の中を理解できないため、説明不可能なものを「妖怪」と感じたこともあっただろうが、「子ども」でしか見えない/出会えない世界があった。それが「異界」であり、「妖怪」であった。異界は成長するにつれて、段々見えなくなっていく。そのため、以前ならば中学校以上を舞台にした「異界」「妖怪」ドラマは成立しなかった(というか、読者というオーディエンスの側が受容したがらず、物語が作られることがなかった)。いま『かのこん』という高校を舞台にした妖怪ドラマが存在しているということは、その分、妖怪の存在を受容する年齢が上がってきたことを意味しているのだろう。
 いまのところ、「大学」に異界が広がるアニメやドラマは存在しないように思える。しかしそれも程度問題である。知らない間に大学を舞台にした異界との出会いを描く物語が登場することだろう。そうなったとき、日本人の「幼稚化」はさらに進むであろう。
 あるいは異界と現実が混じり合っていた中世に逆戻りするのかもしれない。ポストモダンとを中世回帰のように認識する人もいるが、それこそ日本の未来の世界ではないだろうか。
 スピリチュアルな言動を見聞することが最近多いが、「異界」との出会いを人々が求めている証拠と言えなくもない。
追記
 民俗学では「妖怪が見える」ことを非科学的だ、と批判することはない。「なぜ妖怪談義が語られるか」に問題意識を持つ。同様に「何故子どもは妖怪物語の主人公になるか」と言えば、それは子どもという存在がカオスに包まれた存在だからである。
再帰
 冒頭の「妖怪との共生」について。
 本作では耕太少年はちずるという先輩に振り回されつつも彼女を受容し、彼女を愛そうとする。それが「妖怪」との恋愛であることを百も承知で、耕太は日々生活を送っていく。ちずるの「母」たちが耕太少年へのテスト(結婚することを見越した上で、ちずると耕太を結婚させるべきか否かのテスト)を行っても、耕太とちずるの仲は深まっていく一方であり、周囲からも承認を得られていく。
 多文化共生社会となった昨今、我々は異質な「他者」と共生を余儀なくされる。ちずるが「妖怪」であることは、「他者」概念の比喩なのではないか。つまり、他者との共生を「妖怪との共生」に置き換えることで、このドラマは急に現代的テーマを持ってくるのである。
 映画『ビッグ・ファット・ウェディング』には保守的ユダヤ社会と陽気なギリシャ社会との「共生」の困難さとそのダイナミズムが描かれる。『ビッグ・ファット・ウェディング』では新郎側が在米ギリシャ人コミュニティに加わることで共生(ここでは結婚)を実現していた。結婚することが決まっても、共生をスムーズに行うためあえて時間をかけて新郎側と新婦側が交流をしている。『かのこん』でも「新郎」である耕太少年が妖怪社会を受容することで源ちずるとの共生を実現させようとしているのである。その受容と妖怪コミュニティからの「承認」には時間がかかるため、本作(アニメ版)では「一線を超える」ことなく恋愛関係を続けている。
 結論。「共生」にはコミュニティへの受容が必要である。そして受容され「承認」されるには時間が必要である。下手をすれば結婚を決めるまで以上に時間がかかることもあるが、それを素っ飛ばして結婚しても、結局はうまくいかない。
 従前は親やコミュニティが結婚相手を決めていた。その際、新郎側と新婦側のコミュニティの間に受容と承認のプロセスが存在していた。結婚が「愛し合う二人の問題」になった現在、新郎・新婦両コミュニティの承認なく結婚関係を行うことが多くなった。『かのこん』や『ビッグ・ファット・ウェディング』は、異文化を持つ相手と結婚をする際には両コミュニティとの間で受容と承認のプロセスを持つべきであるということを描いた作品なのである。

内発的意志と外発的意志

 子どもに自由を認めるとは、失敗する自由も含めての発想である。

 たとえ失敗してその人のためにならなかったとしても、「外発的に与えられたものに人は納得しない」ということを肝に銘じなければならない。内発的な意志による決断でないと、「あのとき、自分の本当に行きたかった道を選べば良かった」と後悔することになる。
 進路選択。四大に行ける「学力」を備えた高校生が「職人になりたいから大学に行かずに就職する」ということを言い出しても、「いや大学は行っといたほうがいいよ」と教員は邪魔をする。親からも「社会」からもそういわれ、結果「やっぱそういうものかな」と大学受験をしてしまう。
 やがて大卒でサラリーマンになった彼は、満員電車に揺られ、外の景色を見つめている。或るとき線路沿いに見える個人経営の店を見つける。そこで働く職人たち。「俺も、あの道を選んでいても良かったんじゃないかな」とふと思う。その時、10数年の時を経てあの進路指導室での一コマが頭によぎるのである。
 無論、自分で道を選んだ結果、失敗することもある。けれど自分で選んだことであるならそれなりに納得できるはずだ。外発的な動機で道を選択した場合、ルサンチマンだけが高まっていく。
 
追記1
 これに近い状況は、大学院に行くか行かないかの選択時にもある。
「君くらいの学生なら、院で研究をしたほうがいいんじゃないか」
 仮にそういわれても、いい内定先を得ているなら学生は迷わずに企業に向かう。
 大学院に行くかどうかの選択時と同じ状況が、高校の進路指導の際に起きれば面白いのだが。
追記2
 この話にはさらに反論が可能である。
 twitterに流れていたが、2ちゃんねる管理人のひろゆき氏が「若者の起業は失敗しやすい」という旨で文章を書いていた。それへの反応として「いや、これはひろゆき氏のフリであって、《こんな文章を読んで起業を諦めるのなら、起業してもまずうまくいかない》というメッセージを伝えているだけなのだ」、というものがあった。本文中の進路指導室の話はまさにそれである。「この道はやめとけよ」と言われても、《にもかかわらず》自分で道を選ぶという姿勢が重要なのだ、と言うことも可能である。

大学生がアルバイトをするのは何のためか?

 最近、新聞で「いま大学生に貧困が増えている。仕送りも3割減っている」「だから、アルバイトをする学生が増えている」、との報道を目にする。前段は「まあ、そうだな」と私は思うが、後段の記述には「本当か?」と思ってしまう。

 確かに大学生に貧困が増えているのは事実だろう。けれど学生がアルバイトをするのは決して貧困だけが理由ではない。社会勉強のためであったり、人間関係構築のためであったりするのだ。
 それを知るために、私は主にTwitter利用者を対象にアルバイトに関する意識調査を行った(設問は文末参照)。回答数は30(2010年3月28日23:30現在)。インターネット上で行った点と、母数が少ない関係で優位差が得られているかには問題があるが、大まかな傾向をつかむことはできるだろう。
 回答者は大学生が21名、院生が3名、社会人が5名であった。合計29名のうち、アルバイトをしたことがあると答えたのは29名全員であった。
 アルバイトを行った動機の各項目を見てみよう。なおこの項目は複数回答可能であった。
「生活費や学費を稼ぐため」18
「趣味にお金を使うため」20
「アルバイトで自己実現をするため。社会勉強のため」8
「ただ何となく。暇だから」6
「その他」6
 回答者に貧困層が少ないのかどうかは不明であるが、「生活費/学費」よりも「趣味にお金を使うため」の回答数の方が多い点が興味深い。「自己実現/社会勉強」8という点も面白いが、「何となく/暇だから」の回答が6もある点も印象的だ。
 次に「その他」の中身を見ていく。
①周りがしてたので
②他大学の知り合いが増える
③親から自立するため。
④人間関係構築のため。
⑤所属している学生団体の活動に使うため。最も多額だったのは、台湾へのスタディツアー。
⑥友達、恋人作りのため。
⑦まわりが「アルバイトしてる?」と聞いてくるので、「自分もアルバイトしないとな…」と強迫観念にかられたため。 
※「その他」を選ばずに本項目を記述した人もいるので、記述は7つになる。
 幅広い人間関係をつくるため(①②④⑥)という回答と、特定の目的実現のために費用を稼ぐため(③⑤)という回答が目立つ。⑦の「強迫観念」というのは、設問3の「何となく/暇だから」に通じるものがある。
 本調査から言えることとして、新聞報道にあるような「大学生がアルバイトをするのは貧困が増えているから」とは言い切れない、ということである。その点がより鮮明になったということが上げられるであろう。
 
 反省点としては設問2に「社会人の方は大学生/院生時代のことを思い起こして回答ください」と書き忘れた点と設問3に「複数回答可能」と書くことを失念していた点が上げられる。また母数自体も少なく、設問3の各項目もベストと言える項目のカテゴリ分けではなかった。
●参考 アンケート項目一覧
 アンケートはアンケートフォームクリエイターhttps://enquete.web-pr.net/index.htmlにて作成。

質問1 あなたは学生ですか?
回答 大学生です。
(21)
大学院生です。
(3)
社会人です。
(5)
高校生です。
(0)
質問2 あなたはアルバイトをしたことがありますか。
回答 はい
(29)
いいえ
(0)
質問3 「はい」と答えた方に質問します。アルバイトを行った動機はなんですか?
回答 生活費や学費を稼ぐため。
(18)
趣味にお金を使うため。
(20)
アルバイトで自己実現をするため。社会勉強のため。
(8)
ただ何となく。暇だから。
(6)
その他。
(6)
質問4 「その他」と答えた人にお聞きします。あなたがアルバイトを行った動機は何ですか?

 

漫画『ONE PIECE』は何故これほどまで支持されるのか。

 橋本努『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書)。そこには「1960年代後半の自由論」として漫画『あしたのジョー』が取り上げられていた。「矛盾を引き受けて『燃え尽きる』ことに『自由』を見い出し」、「真っ白な灰になる」(101頁)ことの美学が、その当時の「自由論」であるとまとめられている。

 社会学では流行している文化から、その社会の特徴を見いだす手法をとることがある。1960年代後半が『あしたのジョー』という漫画に象徴された歴史であったならば、いまを象徴するものは何か? 
 私は『ONE PIECE』であると思う。
 『あしたのジョー』は一匹狼・矢吹ジョーの物語である。それに対し『ONE PIECE』のルフィは、シャンクスや海賊への「あこがれ」を持ち、仲間を集めながら冒険をする。友情がテーマとなり、友人のために熱く戦う物語が展開される。
 一人自分と向き合うジョーに対し、『ONE PIECE』の中では友達を大事にする・協力をするということの重要性が描かれている。この協力や友情をテーマとする漫画が多くの人々に支持されるのは、時代が要求する価値観を描いているためではないだろうか。
 
 「リストラ」が騒がれはじめた90年代後半に連載がはじまった『ONE PIECE』。勝間和代的「インディな生き方」がもてはやされる現在でも人気がある。私のサークルやボランティア先では、来週の『ONE PIECE』がどうなるかを心待ちにする人々が一定数存在している。まさに『あしたのジョー』と同じ展開の仕方だ。ジョーの戦いに、多くの日本人が狂喜乱舞をしていた。ジョーの姿に、自分の姿を見た。いま、『ONE PIECE』のルフィ達に共鳴をする人々が多いということは、ジョーと同じくルフィ達に自分の姿を見ているのだろう。
 核家族やセパレート化・孤独など、いまの社会は人々がバラバラになっている。『ONE PIECE』がもてはやされるのは、そんな孤立化する人々が再びルフィ達のような熱いつながりや助け合いを希求している証拠なのではないだろうか。

子どもにとって「夕暮れ」とは何か?

 『学校の現象学のために』には「行き暮れる実在」としての子どもが描かれる。

 映画『家族ゲーム』において一家の弟はノートに「夕暮れ」という文字ばかりを何時間も描き続ける。
 「たま」というアーティスト(たち)は『夕暮れ時のさびしさに』を歌う。少年時代の思いも込めて。
 この三つは「夕暮れ」ということをテーマに共通点を持っている。そしてこの共通点は3つの作品にかぎらず、少年一般に言えるのではないか。つまり、少年は(そして少女は)「夕暮れ」を志向するものではないだろうか。昼と夜の間という不安定な時間。不安定ゆえに心惹かれるものがある。もっと遊びたいのに、「もう5時だ、家に帰らないと」という思いにかられる。「夕暮れ」には少年にしか感じられない特異な思いが存在するのだろう。
 『夕暮れ時のさびしさに』のように、夕暮れは不安で、寂しい時間。子どもから「夕暮れ時のさびしさ」を奪うのが塾や制度的習い事や少年野球(あるいはサッカークラブ)である。子どもだった私は夕暮れ時には自分をさらいにくるモンスターがいるように思えていた。
 子どもにとって不安な時間帯である「夕暮れ」どきを、大人が奪っているのではないだろうか。「たま」が『夕暮れ時のさびしさに』を歌うのも、『家族ゲーム』の少年が「夕暮れ」でノートをいっぱいにするのも、奪われた「夕暮れ」への郷愁があるからではないか。
 『家族ゲーム』の松田優作演じる家庭教師は少年の「夕暮れ」のノートを見て、少年を殴る。「夕暮れ」を志向する少年は否定され、現実に立ち返るのだ。これが一般的ならば、奪われた「夕暮れ」を誰が少年に与えてくれるのだろうか。