『脱学校の社会』

イリッチのラーニング・ウェッブの研究 ~ブログ空間はラーニング・ウェッブたりうるか~

1、本稿の狙い
 
梅田望夫・齋藤孝著『私塾のすすめ』を読んでいた。この本のテーマは《ブログは、適塾・松下村塾のような私塾になる可能性がある》ということである。非常に興味深い本であったので、書評も書いた。別紙を参照していただきたい。
さて、『私塾のすすめ』を読み進むうち、一冊の書名が私の脳裏に浮かんできた。イヴァン・イリッチ(1926—2002)の著書『脱学校の社会』である。 
『脱学校の社会』は、脱学校論を説いた点で有名な著書である。「就学義務が大多数の人々の学習する権利をかえって制約している」(『脱学校の社会』1項)点から、学校を廃止し、新たな教育空間の樹立を提唱している。
この書の第六章に、「学習のためのネットワーク」という箇所がある。イリッチの〈ラーニング・ウェッブ〉というものを端的に説明したところだ。ここで説明している〈ラーニング・ウェッブ〉は、ブログを活用することで実現可能なのではないか。この仮説を検討することが本稿の狙いである。
本稿での私の主張は、あくまで既存の教育制度を維持し、平行する形でのラーニング・ウェッブの成立の可能性を探るものであり、学校制度廃止までを考察したものでないことを付言しておく。
なお、「学習のためのネットワーク」は、原文では「learning webs」と書かれている。本稿では「学習のためのネットワーク」でなく、ラーニング・ウェッブと表記する。それはlearning websを「学習のためのネットワーク」と表記すると、特定の意味が付与されてしまうことを恐れるためである。 

2、仮説の提示

仮説
《イリッチのいう「ラーニング・ウェッブ」は、ブログで実現可能である》

3、『脱学校の社会』の検討

(a)ラーニング・ウェッブの仕組み

 イリッチのラーニング・ウェッブとは、下のような仕組みで行う。

(1)教えたいことがある人が、コンピュータなどに「これを教えたい」と登録する。どうように、学びたいことのある人が「これを学びたい」と登録する。
(2)登録している人どおしを引き合わせる。
(3)教えた分だけ、「教育クーポン」をもらうことができる。また学ぶにあたっては一定量支給されている教育クーポンを使用する。
(4)学校教育にあたる段階においては、この教育クーポンを消費していくことで、教育課程の達成を目指す。
(『脱学校の社会』より)

 本文中において、イリッチは次のように指摘している。

仲間を選び出すネットワークの運営は、簡単であろう。このネットワークの使用者は、氏名と住所および自分が仲間を見つけたいと思っている活動について記述することである。コンピュータは、彼と同じ記述を打ち込んだあらゆる人々の氏名と住所を彼に知らせるであろう。そのように簡単に役立つものが公的に価値があるとされていた活動(藤本注 公立学校制度のこと)のために大規模に用いられていなかったことは、驚くべきことである。(170項)

 イリッチは、要するに学びたい人と教えたい人とを引き合わせ、その小集団で教育を行うことを提唱している。これがラーニング・ウェッブの発想の根底である。

(b)『私塾のすすめ』において、ラーニング・ウェッブと共通点の多い箇所

 梅田望夫(コンサルティング会社「ミューズ・アソシエイツ社長。パシフィカファンド共同代表。(株)はてな取締役。」https://www.mochioumeda.com/より)は『私塾のすすめ』において、次の指摘をしている。ここで語っている「志向性の共同体」は私塾を指し、〈ブログも私塾のようなものにできる可能性がある〉と示している。

梅田:志をもった良き大人、ある志向性を持った大人が、自分はこういう関心をもった人間なんだよ、ということをウェブ上に立ち上げて示していく。科学でも、数学でも、文学でも。そういう「志向性の共同体」がネット上にたくさんできたら、子どもでも、本当に自分の関心のあることをやっている大人たちの集まりに参加することができる。ネットでまずつながり、そしてリアル(藤本注 現実社会のこと)に発展していく。誰もがネット上で、志向性を同じくする若い人を集めて私塾を開くことができるイメージです。それはウェブ時代たる現代ならではのすばらしい可能性だと思うんです。(中略)多くの心ある人が、自分がもっとも大事だと思っている関心事項について、志向性の共同体たる私塾のようなものをネットの上でつくっていくと、さまざまな可能性がひらかれる。
 身近な世界の閉塞感のようなものがあって、時間の使い方もそこで縛られている場合に、良き私塾がもっともっとネットの上にできれば、そこで時間をすごすことができる。ところが、そういうビジョンをネットに関して提示している人が日本にはいない。「ネットというものは怪しげで危ないから子どもを遠ざけよう」という人が圧倒的に多い。今の日本のネットをみて、「怪しげで危ない」と思いたくなるということは僕も否定しないけれど、ネットの可能性を十年、二十年というレンジでみたときに、そうとだけ考えることはマイナスだと思います。
 現実社会でうまくいっている子は別として、そうでない子どもたちは、家に帰っても親との関係だけ、学校に行ってもせいぜい五十人という範囲のなかで、自分とぴったりあった世界をつくれない。今の日本の教育は、そこでうまくいかないとすべて駄目と言われてしまう感じですが、ネットにはそこをひっくり返せる可能性があると思っています。(44〜46項)

 この梅田の指摘は、ラーニング・ウェッブと親和性を持っている。梅田のいっていることは、イリッチが『脱学校の社会』で語っていることに共通点をもっているのだ。(c)以降において、それを詳しくみていく。

(c)ラーニング・ウェッブとブログの共通点について

 ここでは3点に分けて、イリッチの主張するラーニング・ウェッブと、梅田の言う〈ブログによる私塾〉との共通点をみていく。

(共通点1)自主的に学習が進む点

 イリッチが『脱学校の社会』において批判したことの一つに、〈学校制度がある限り、生徒が受動的になってしまうこと〉がある。イリッチは自主的な学びが成立する場としてラーニング・ウェッブを考察したのである。

本章で、私は学校についての考え方をひっくり返すことが可能であることを示すつもりである。つまり、次のことを示したいのである。第一には、学生に学ぶための時間や意志をもたせようとして彼らを懐柔したり強制したりする教師を雇う代わりに、学生たちの学習への自主性をあてにすることができることであり、(藤本注 この文の続きは次の引用である)(136項)

 自らの興味がある分野であれば、自主的に学んでいくことができる。ブログにおいても強制されない分、子どもたちは自主的に興味のあるブログを探し出し、学んでいくはずだ。
 
(共通点2)関心の共有が可能である点

 イリッチのラーニング・ウェッブ構想においては、(a)で示したように教えたい者と学びたい者とが小集団で集まることで学習を行っている。この発想を実現させるためには〈何に興味があるか〉という関心事項の共有が行われる必要がある。イリッチは情報センターのようなものを設置することで、実現させようとした。ブログにおいては検索を行うことで可能である。

 さきほどのイリッチの言葉の続きを引用する。

第二は、あらゆる教育の内容を教師を通して学生の頭の中に注入する代わりに、学習者をとりまく世界との新しい結びつきを彼らに与えることができるということである。(136項)

 このイリッチの言葉にあるように、ブログを活用することで「新しい結びつき」を作ることができる。この「新しい結びつき」はブログによって可能である。

(共通点3)比較的、利用が容易である点

 学習するにあたって、教育設備が容易に利用可能であるか否かという点が大きな問題となる。いくらいい教育を行える場所であっても、費用がかさんだり、移動が大変であったりしては、教育を行えないからである。次のイリッチの言葉が示す通りだ。

必要なのは、公衆が容易に利用でき、学習をしたり、教えたりする平等な機会を広げるように考案された新しいネットワークである。(143項)

 イリッチのラーニング・ウェッブ構想では、国立の情報センターのようなものを利用することで学習者と被学習者を引き合わせる。ブログにおいてはインターネットを利用できる環境さえあれば学びを行うことができる。検索し、関心のあるブログにアクセスし、そこにある情報を学んでいくのだ。コメントの記入や直接的にブログ関係者と対面することもあるだろうが、基本はパソコンで出会う形をとる。
 イリッチの構想ではあちこちに情報センターを設ける必要があるが、ブログを活用する場合、設備の準備は特に必要でなく、インターネット利用環境さえあれば事足りる。よって、比較的利用が容易である点は解決されている。

(d)ラーニング・ウェッブの悪用についての、イリッチの指摘

 コンピュータを使用し、人を引き合わせる。その弊害は出会い系サイトのような問題が起きる可能性がある。イリッチはそのことにも気づき、以下のように語っている。

もちろんわれわれは、そのような公的な仲間選びの方法が、電話や郵便がそうであったように、搾取的あるいは不道徳な目的のために乱用される可能性のあることを認めなければならない。それらのネットワークの場合と同様に、何らかの防御策が必要である。私は、他の箇所で、尋ねてくる者の氏名と住所のほかには、適切な、印刷された情報だけが利用されるのを認める仲間選びの制度を提案した。そのような制度は、濫用に対して実質的に完全に守られている。他に別の調整をすれば、さらに本、映画、テレビの番組、あるいは特殊なカタログから引用されたほかの項目などを追加することもできよう。そのような制度のもつ危険性に関心をもつあまり、はるかに大きな利益を見失うようであってはならない。(173項)

 着目すべきは、危険性を意識しつつも「危険性に関心をもつあまり、遥かに大きな利益を見失うようであってはならない」との指摘である。先に引用した梅田の言にも、同様のものがある。「今の日本のネットをみて、『怪しげで危ない』と思いたくなるということは僕も否定しないけれど、ネットの可能性を十年、二十年というレンジでみたときに、そうとだけ考えることはマイナスだと思います」。
 そのため、私は単にラーニング・ウェッブの危険性を指摘するだけでなく、その可能性に目を向けていくことが重要であると考える。

4、結論

 イリッチは理想主義者である、ともよく聞く。しかしイリッチに実現可能性がないとされたのは一昔前の話だ。いまはネット空間が存在する。ブログによって個人が情報発信をしていくことができる時代だ。

私がこれから提案しようとしている教育制度は、今日まだ存在していない社会のものである。(137項)

 イリッチが主張した教育社会は、当時の教育制度を超えたところにあった。しかし、ウェブ空間が発達した今、イリッチのラーニング・ウェッブ構想はやり方次第ですでに実現可能であるといえる。
 『私塾のすすめ』は端的に言えば《ブログが私塾となる可能性を秘めている》ことを示した本である。ここでいう私塾とは〈教えたい者のもとに、学びたい者がやってくる〉場所である。ラーニング・ウェッブとはまさしく私塾のような存在だ。ラーニング・ウェッブという形でイリッチが提唱した教育は、ある程度までブログの活用により実現可能である。ラーニング・ウェッブよりむしろ、イリッチの思想を反映できている、ともいえる。
 ブログによる教育の可能性について、本稿では探ることができた。私自身がさらにブログを活用できるようになりたい、と考えている次第である。

5、参考文献
イヴァン・イリッチ著 東洋・小澤周三訳『脱学校の社会』(1977年、東京創元社)
齋藤孝・梅田望夫著『私塾のすすめ ここから創造が生まれる』(2008年、ちくま新書)

『脱学校の社会』を読む①〈序〉

友人のO君と昼飯を食う。相変わらず彼と話すといろいろ触発を受ける。『脱学校の社会』勉強会を毎週火曜2限の時間にやることを決定する。

さっそく来週からやることとなった。善は急げ、だ。とりあえずレジュメをつくろう。
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『脱学校の社会』序を見てみる。

●「ライマーと私は、就学義務が大多数の人々の学習する権利をかえって制約していることを認識するに至った」(1頁)
→全員が学校に行くことに対し、イリッチは懐疑的である(追記を参照)。
「学習する権利」について、憲法には次のようにある。

【日本国憲法】
第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

●「学校に就学させることによってすべての人に等しい教育を受けさせるということは、できない相談なのである。学校の代わりになる制度をもって試みても、それが現在の学校の様式に基づく限りは、やはりできないであろう」(2頁)
→注解では「学校の代わりになる制度」について「フリー・スクール、オープン・スクールその他の新しい学校作りの試みがなされるようになってきた。しかしその多くは組織形態こそ従来の学校と異なっていても、あくまで学校の論理で考えられている」(6頁)と書かれている。どうやらイリッチはフリースクールに対しても懐疑的なようである。
 「現在の学校の様式に基づく限り」という留保がついている。とすればフリースクールやオープンスクールともまったく違う、ラーニングウェッブ(本文では「学習のためのネットワーク」と訳される)による学び以外でイリッチの理想を実現することはできない、ということか。
→「社会の中での学び」である。イリッチは学校を廃止し、その後にラーニングウェッブを作ることを提唱している。なお、ここでいう「学校」とは〈フルタイムの出席を義務づける学校〉ということである。佐藤学を含め、いろんな学者が誤解している点なのでここで確認しておきたい。
 なお、本定義の仕方はイリッチとライマーとで同じであるようだ(親友のOからの受け売り)。

●「つまり個々人にとって人生の各瞬間を、学習し、知識・技能・経験をわかち合い、世話し合う瞬間に変える可能性を高めるような教育の「ネットワーク」をこそ求めるべきなのである。本書は、教育に関してそのようにものの考え方を逆転させてみるような研究をしている人々―および教育以外においても、確立されたサービス産業の諸制度にとって代わるもの(オルターナティヴズ)を捜し求めている人々―が必要とする概念を提供したいと思う」(2頁)
→「個々人にとって人生の各瞬間を、学習し、知識・技能・経験をわかち合い、世話し合う瞬間に変える可能性を高めるような教育」とは、現在のネット空間をイメージさせる。以前ゼミで書いた(おそらく本投稿の次に張られる予定)〈ブログはラーニングウェッブたりうるか〉を参照。
→この部分のポイントは「概念」という言葉である。〈イリッチは夢物語しか語らない〉という批判をする人が多いが「概念」についてを提供するために本書が書かれたのだからこの批判は当たらない。
●「私は、もしも社会の脱学校化が可能だという仮説を受け入れたならそのときに生じるいくつかの複雑な問題について論じようと思う。たとえば、学校を廃止してしまった後の環境の中で学習に役立つ制度を発展させなければならないが、その制度を見わける際の助けになる基準を捜し求めることとか、「余暇時代」—これはサービス産業によって支配されている経済機構のもとにある時代に対比される―の到来を促進すると思われる一人一人にとっての目標を明確にすることなどである」(pp3~4)
→はじめ私は【「余暇時代」の学びとは生涯学習を指すようだ】と書いていた。けれど原文を見るとこの「余暇時代」はAge of Leisure(schole)と書かれている。schole(スコレ)に着目したい。これは「暇」を意味する言葉であり、だからこそ翻訳者は「余暇」と訳したのだ。学校schoolの語源となった言葉である。
 ギリシャの昔、学問は暇な自由人の「暇つぶし」の対象であった。暇で仕方ないからこそ学問に明け暮れたのだ。
 現在の学校は語源の逆である。「暇つぶし」でなく「いくことに意味がある」場所となっている(価値の制度化だ)。だからこそ、イリッチは学校を排してラーニングウェッブに基づく学び(それは社会の中での教育を意味する)を主張したのだ。本来の学校(スコレとしての)の復権を目指しているのである。
 だから日本語訳の「余暇時代」を見て〈あ、これは生涯学習のことだ〉と早合点してはならないのである(それにしても親友が原典をもってきてくれていて本当によかった)。

全体を見てのコメント
●この「序」では、本書『脱学校の社会』の方向性についてをまとめている。
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帰り道で国際教養学部生の留学生がやたら薄着なのに目を奪われる。
ひょっとすると、海外は日本以上に薄着がスタンダードなのだろうか?

追記
前にOも言っていたが、教育学者は『脱学校の社会』を意図的にか知らぬが誤解している。佐藤学でさえも『脱学校の社会』が〈学校の廃止〉を訴えた本である、と解説しているほどだ。けれど実際には〈全員が学校に行かなければならない〉ことを批判しているのだ。
「解説」の欄を見よう。

イリッチが「脱学校」という場合、すべての学校を廃止したり、あるいは学習のための制度のない社会をめざしているのではなく、むしろ学習や教育を回復するために制度の根本的な再編成を求めているのである。そこでは学校以外に選択の余地がなかったり、全員が就学を義務づけられることがなくなるのである。しかしそれは単に学校をめぐる形式のみの変化にとどまるものではない。もっと深く社会のエートスの変革にかかわることなのである。(221頁)