寺山修司, 2009, 『寺山修司著作集 第3巻 戯曲』クインテッセンス出版株式会社。より「邪宗門」

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寺山修司「邪宗門」に見られる構築主義的発想。

山太郎 だとすれば、その黒衣を操っていたのは一体誰なんだ?
新高 それは、ことばよ。
佐々木 じゃあ、そのことばを操っていたのは一体誰なんだ?
新高 それは、作者よ。
そして、作者を操っていたのは、夕暮れの憂鬱だの、遠い国の戦争だの、一服のたばこの煙よ。そして、その夕暮れの憂鬱だの、遠い国の戦争だの、一服のたばこの煙だのを操っていたのは、時の流れ。
時の流れを操っていたのは、糸まき、歴史。いいえ、操っていたものの一番後にあるものを見る事なんか誰にも出来ない。|
たとえ、一言でも台詞を言った時から、逃れる事の出来ない芝居地獄。
終わる事なんかない。どんな芝居えも終る事なんかない。ただ、出し物が変わるだけ。さあ、みんな役割を変えましょう。
衣装を脱いで出て来て頂戴。
(寺山修司, 2009, 『寺山修司著作集 第3巻 戯曲』クインテッセンス出版株式会社, pp.220-221「邪宗門」)

 寺山修司の戯曲「邪宗門」のラストは、意外に構築主義的。我々は言葉に縛られている。その意味では日常も「逃れる事の出来ない芝居地獄」。ゴフマンのいう表局域の社会的役割関係から逃れられない。でも、「役割を変え」ることはできる。それが主体の抵抗可能性だ。

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