池上俊一, 2007, 『イタリア・ルネサンス再考−−花の都とアルベルティ』講談社.

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池上俊一, 2007, 『イタリア・ルネサンス再考−−花の都とアルベルティ』講談社.

 筆者は近代の個人主義意識の起こりを万能人アルベルティ(レオナルド・ダ・ヴィンチが劣等感を感じたほどの人物)を参照しつつ論を進めている。

「イタリアで、かように急速に印刷術が普及したのは、ものを書く学者・作家が多く、字の読める層が広範にあり、しかも学校や個人的勉学での使用のほか、仕事(法律家・医者・聖職者)、趣味、敬神などで大量に書物の需要があり、産業として成立する素地があったから|であろう」(76-77)
ルネサンスにおいて「女性が公的空間から排除されたのは、女性の〈名誉〉を守るためでもあった。彼女らの〈名誉〉の中心要素とは、貞淑・純潔えあり、それを失うことは深刻な社会的結果をもたらす。なぜなら〈名誉〉は、個人のそれにせよ家族のそれにせよ、自力だけでどうなるものではなく、他者から見られた社会的価値の相対であったから」(151)
「彼(☆アルベルティ)は、子供は、乳児期には父親の手ではなく、優しく静かな母親に育てられるべきであるとするが、その後の教育は、父親の務めだとしている」(177)
「ルネサンス分化の精華を生み出した芸術家や思想家の伝記、とりわけアルベルティやギベルティの自伝に表れているのは、とてつもない、己の天賦の才と美徳への賛嘆と自恃であり、これは、「個人主義」の宣言として、ブルクハルトのように読むことがたしかに可能である」(229)
「アルベルティにとっての〈美徳〉は、人間の地上での健全な活動を保障するが、その活動の領域が〈時間〉である。『家族論』のジャンノッツォ(☆アルベルティ『家族論』の登場人物)は〈時間〉について、身体・|魂とならんで、人間が自分の占有物だといえるものだ、としているのは興味深い。ところが他人に与えることのできぬ、という意味ではたしかに自分のものだが、その「使い方」は、その人の意志いかんにかかっている。だから〈時間〉とは、行動の可能性、文化・教養の運用そのものであり、したがってそれは、〈美徳〉の活動領域なのだ。
 〈勤勉〉は、もっぱら市民関係のなかで行われ、家族や国家の繁栄をもたらし、富の花を咲かせる。人間の価値は〈勤勉〉のなかにのみ存する。人間は人間のために役立つよう生まれたのであり、いつも社会で活動しつづけるために生を享けたのであり、怠惰以上の罪はなく、高邁で崇高な目標に向かって努力することで、自らのうちに完全な〈美徳〉を実現できる。〈勤勉〉が実現する〈美徳〉。
 だが、〈無為〉にもじつは二種類あり、悪しき怠惰のほかに、ユマニストのための〈無為〉=〈閑暇〉がある。〈勤勉〉のうち最高のものは、文学研究であり、それは、まさに〈閑暇〉においてしかありえない。自由時間は、〈無為〉でありつつ〈勤勉〉なのだ。こうした〈時間〉の質についての差異化は、ユマニスト特有の考え方だろう」(266-267)
「アルベルティの拠り所は、政治ではなく、家族だけだった。そして自ら家族に与えた新理念のおかげで、権威主義へと落ち込む危険を免れていた。彼の最終的なメッセージは何か。それは家族と都市を同到させること、そして世界中に〈自然〉を模範とする人工の美を押し広めることによって人類を救出することだった。「家族イデオロギー」と「都市イデオロギー」に深くコミットすると見せかけながら、〈普遍〉と〈多様性〉の理念を梃子に、芸術の|〈装飾〉と言葉の〈修辞〉であらゆるイデオロギーを骨抜きにする、これが彼の人生と思考を貫く方法であった」(291-292)
「他のユマニストと異なり、大学で教鞭をとらず、パトロン(権力者)にすがって生きることもなく、最後まで私人として公に尽くす道を探ったアルベルティ、経験主義者であると同時に理想主義者でもあり、深刻な問題を論ずるときも快活で機知に富み、しかも威厳を失うことがないアルベルティ、彼の生き方は、わたしの理想でもあると、告白しておこう」(303)
●解説 山崎正和
「じつは自己顕示は個人主義の産物ではなく、逆に個人主義こそ自己顕示のなかから生まれてきたという経緯だろう。最初に確立した個人があって、それが自己をみせびらかしたのではなく、むしろ見せびらかしの競争のなかで、個人は見せびらかすべき自己を発見して行ったのにちがいない」(319)
→ウェブレンの『有産階級の理論』を思い出す。

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