内田樹『街場の教育論』

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 まず、師弟についての部分から。内田は師弟関係の重要性を繰り返し説明する特異な学者である。かなりカタカナ言葉を使い、衒学的なところはあるのだが…。

 

不思議な話ですけれど、レヴィナスが「レヴィナス哲学」の語り手になるためには師に出会う必要があった。けれども、レヴィナスがその師から教わったのは、哲学ではなくて、ユダヤ教の経典であるタルムードの、それも「アガダー」と呼ばれる一領域についての解釈の仕方だけだったのです。つまり、レヴィナスの知的可能性を開花させたのは、師から「教わったこと」ではなくて、「師を持ったこと」という事実そのものだったということです。
 「学び」を通じて「学ぶもの」を成熟させるのは、師に教わった知的「コンテンツ」ではありません。「私には師がいる」という事実そのものなのです。私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を超える。「学び」とはこのブレークスルーのことです。
 
 ブレークスルーというのは自分で設定した限界を超えるということです。「自分で設定した限界」を超えるのです。「限界」というのは、多くの人が信じているように、自分の外側にあって、自分の自由や潜在的才能の発現を阻んでいるもののことではありません。そうではなくて、「限界」を作っているのは私たち自身なのです。「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価が、私たち自身の「限界」をかたちづくります。「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価は謙遜しているように見えて、実は自分の「自己評価の客観性」をずいぶん高く設定しています。自分の自分を見る眼は、他人が自分を見る眼よりもずっと正確である、と。そう前提している人だけが「私にはそんなことはできません」と言い張ります。でも、いったい何を根拠に「私の自己評価の方があなたからの外部評価よりも厳正である」と言いえるのか。これもまた一種の「うぬぼれ」に他なりません。それが本人には「うぬぼれ」だと自覚されていないだけ、いっそう悪質なものになりかねません。
 ブレークスルーとは、「君ならできる」という師からの外部評価を「私にはできない」という自己評価より上に置くということです。それが自分自身で設定した限界を取り外すということです。「私の限界」を決めるのは他者であると腹をくくることです。(pp154~156)

→非常に感銘を受けた箇所である。こんな場所が、『街場の教育論』にはあふれている。
 他にも、こんなものがある。

 最初に、次のことだけをみなさんと合意しておきたいと思います。
(1)教育制度は惰性の強い制度であり、簡単には変えることができない。
(2)それゆえ、教育についての議論は過剰に断定的で、非寛容なものになりがちである(私たちがなす議論も含めて)。
(3)教育制度は一時停止して根本的に補修するということができない。その制度の瑕疵は、「現に瑕疵のある制度」を通じて補正するしかない。
(4)教育改革の主体は教師たちが担うしかない。人間は批判され、査定され、制約されることでそのパフォーマンスを向上するものではなく、支持され、勇気づけられ、自由を保障されることでオーバーアチーブを果たすものである。
 ざっとこれくらいのことを教育論の前提としてご了承いただければ、と思います。(pp21~22)

→不毛な教育論を回避するための前提作り。たしかに重要なことだ。なお、オーバーアチーブについて、は以下の説明を見ていただきたい。東洋経済オンラインマガジンより。

「オーバーアチーブ」とは耳慣れない言葉かもしれませんが、「overachieve」すなわち「期待以上の成果をあげる」という意味です。
 私たちは通常、さまざまな「期待」に囲まれながら働いています。上司の期待、取引先の期待、お客様の期待……。それが「ノルマ」という形をとることもあれば、「希望」止まりの場合もありますが、いずれにせよ仕事をしている限り、周囲の期待と無縁でいることはできません。
  だからもしあなたが、「期待以下」の仕事をしてしまえば、それは問題でしょう。「書類を3日で仕上げるように」と言われたのに、もし締め切りを過ぎてしま えば、それは「期待以下」の仕事です。言われたこと、期待されたこともろくにできない、三流の人材ということになってしまいます。

他に気に入った箇所を引用していく。

「学び」というのは自分には理解できない「高み」にいる人に呼び寄せられて、その人がしている「ゲーム」に巻き込まれるというかたちで進行します。(p59)

教師というのは、生徒をみつめてはいけない。生徒を操作しようとしてはいけない。そうではなくて、教師自身が「学ぶ」とはどういうことかを身を以て示す。それしかないと私は思います。
「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。教える立場にあるもの自信が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。これは「操作する主体」と「操作される対象」という二項関係とはずいぶん趣の違うもののように思います。(p142)

人間は自分が学びたいことしか学びません。自分が学べることしか学びません。自分が学びたいと思ったときにしか学びません。
 ですから、教師の仕事は「学び」を起動させること、それだけです。「外部の知」に対する欲望を起動させること、それだけです。そして、そのためには教師自身が、「外部の知」に対する激しい欲望に灼かれていることが必要である。(p158)

すべての人間的資質は葛藤を通じて成熟する。これは経験的にたしかなことです。あらゆる感情は葛藤を通じて深まる。(p252)

→このために、教員は葛藤を子どもに生じさせる役割をもっている、と内田はまとめている。

この本は、「学校の先生たちが元気になる」ことを目的に書かれた本である。読んでみると、他の教育論とは毛色が違って面白い。

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