『脱学校の社会』を読む①〈序〉

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友人のO君と昼飯を食う。相変わらず彼と話すといろいろ触発を受ける。『脱学校の社会』勉強会を毎週火曜2限の時間にやることを決定する。

さっそく来週からやることとなった。善は急げ、だ。とりあえずレジュメをつくろう。
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『脱学校の社会』序を見てみる。

●「ライマーと私は、就学義務が大多数の人々の学習する権利をかえって制約していることを認識するに至った」(1頁)
→全員が学校に行くことに対し、イリッチは懐疑的である(追記を参照)。
「学習する権利」について、憲法には次のようにある。

【日本国憲法】
第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

●「学校に就学させることによってすべての人に等しい教育を受けさせるということは、できない相談なのである。学校の代わりになる制度をもって試みても、それが現在の学校の様式に基づく限りは、やはりできないであろう」(2頁)
→注解では「学校の代わりになる制度」について「フリー・スクール、オープン・スクールその他の新しい学校作りの試みがなされるようになってきた。しかしその多くは組織形態こそ従来の学校と異なっていても、あくまで学校の論理で考えられている」(6頁)と書かれている。どうやらイリッチはフリースクールに対しても懐疑的なようである。
 「現在の学校の様式に基づく限り」という留保がついている。とすればフリースクールやオープンスクールともまったく違う、ラーニングウェッブ(本文では「学習のためのネットワーク」と訳される)による学び以外でイリッチの理想を実現することはできない、ということか。
→「社会の中での学び」である。イリッチは学校を廃止し、その後にラーニングウェッブを作ることを提唱している。なお、ここでいう「学校」とは〈フルタイムの出席を義務づける学校〉ということである。佐藤学を含め、いろんな学者が誤解している点なのでここで確認しておきたい。
 なお、本定義の仕方はイリッチとライマーとで同じであるようだ(親友のOからの受け売り)。

●「つまり個々人にとって人生の各瞬間を、学習し、知識・技能・経験をわかち合い、世話し合う瞬間に変える可能性を高めるような教育の「ネットワーク」をこそ求めるべきなのである。本書は、教育に関してそのようにものの考え方を逆転させてみるような研究をしている人々―および教育以外においても、確立されたサービス産業の諸制度にとって代わるもの(オルターナティヴズ)を捜し求めている人々―が必要とする概念を提供したいと思う」(2頁)
→「個々人にとって人生の各瞬間を、学習し、知識・技能・経験をわかち合い、世話し合う瞬間に変える可能性を高めるような教育」とは、現在のネット空間をイメージさせる。以前ゼミで書いた(おそらく本投稿の次に張られる予定)〈ブログはラーニングウェッブたりうるか〉を参照。
→この部分のポイントは「概念」という言葉である。〈イリッチは夢物語しか語らない〉という批判をする人が多いが「概念」についてを提供するために本書が書かれたのだからこの批判は当たらない。
●「私は、もしも社会の脱学校化が可能だという仮説を受け入れたならそのときに生じるいくつかの複雑な問題について論じようと思う。たとえば、学校を廃止してしまった後の環境の中で学習に役立つ制度を発展させなければならないが、その制度を見わける際の助けになる基準を捜し求めることとか、「余暇時代」—これはサービス産業によって支配されている経済機構のもとにある時代に対比される―の到来を促進すると思われる一人一人にとっての目標を明確にすることなどである」(pp3~4)
→はじめ私は【「余暇時代」の学びとは生涯学習を指すようだ】と書いていた。けれど原文を見るとこの「余暇時代」はAge of Leisure(schole)と書かれている。schole(スコレ)に着目したい。これは「暇」を意味する言葉であり、だからこそ翻訳者は「余暇」と訳したのだ。学校schoolの語源となった言葉である。
 ギリシャの昔、学問は暇な自由人の「暇つぶし」の対象であった。暇で仕方ないからこそ学問に明け暮れたのだ。
 現在の学校は語源の逆である。「暇つぶし」でなく「いくことに意味がある」場所となっている(価値の制度化だ)。だからこそ、イリッチは学校を排してラーニングウェッブに基づく学び(それは社会の中での教育を意味する)を主張したのだ。本来の学校(スコレとしての)の復権を目指しているのである。
 だから日本語訳の「余暇時代」を見て〈あ、これは生涯学習のことだ〉と早合点してはならないのである(それにしても親友が原典をもってきてくれていて本当によかった)。

全体を見てのコメント
●この「序」では、本書『脱学校の社会』の方向性についてをまとめている。
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帰り道で国際教養学部生の留学生がやたら薄着なのに目を奪われる。
ひょっとすると、海外は日本以上に薄着がスタンダードなのだろうか?

追記
前にOも言っていたが、教育学者は『脱学校の社会』を意図的にか知らぬが誤解している。佐藤学でさえも『脱学校の社会』が〈学校の廃止〉を訴えた本である、と解説しているほどだ。けれど実際には〈全員が学校に行かなければならない〉ことを批判しているのだ。
「解説」の欄を見よう。

イリッチが「脱学校」という場合、すべての学校を廃止したり、あるいは学習のための制度のない社会をめざしているのではなく、むしろ学習や教育を回復するために制度の根本的な再編成を求めているのである。そこでは学校以外に選択の余地がなかったり、全員が就学を義務づけられることがなくなるのである。しかしそれは単に学校をめぐる形式のみの変化にとどまるものではない。もっと深く社会のエートスの変革にかかわることなのである。(221頁)

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