陸上とは精神論なり。

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中学時代、私には運命的な教員に出会った。永田先生である。

所属した陸上部(私は部長)の顧問であったのみならず、1年生から3年生までずっと担任であったという奇跡。それだけでなく、永田先生の厳しくも優しい姿勢に私は多くを教わった。今年教育実習を母校の中学で行う。まだ残ってくださっていることを祈る。

その永田先生は「走る」ということについて印象深いことを述べておられた。

「走るのは、一人になるためだ」

陸上部の伝統・練習日誌への毎日のコメント、クラスと部活での直接の会話など、私の中で「永田語録」は多数あるのだが、この一言がやたらと印象的であった。

走っているとき、人は自己と向き合わざるを得ない。試合の時は自らを追い込むため、「まだ闘うか」、それとも「もうあきらめるか」を自分自身で決定せねばならない。走るとき、走ることに体が集中するため、五感の機能が一時的に低くなる。回りと話す余裕も無ければ、よそ見をするゆとりも無い。

徹底的に自分を追い込むのだ。レースでは、〈どこまで自分を虐めることができたか〉で勝負は決まる。

陸上競技はギリシャの昔から存在していた。陸上ほどシンプルかつ歴史の長いスポーツは存在しない。

陸上とは精神論なり。シンプルゆえに人類にとっての永遠の課題を抱え続けている。その課題とは「自己とどう向き合うか」である。

自己と向き合う、とは「孤独になる」ことを意味するかもしれない。走るとき、「私」は絶対的に孤立する。他のスポーツに付き物の〈チームワーク〉なんて存在しないのだ。あるのは「自己」のみ。自らの身体の発する「もう、走るのやめようよ。限界だよ」との声に「否!」をどれだけ叫べるかである。

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