O先生のおはなし。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

O先生に今後の研究の方針についてのご意見を伺う。以下はその聞き書きだ。自分の考察もついでに書いてあるので、見にくければごめんなさい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●下の文献は読んだ方がいい。
『学校をなくせばどうなるか?』:イリッチの『脱学校の社会』に対して出された批判をまとめたもの。私はこの本のイリッチの書いた部分しか読んでいないので、全編を読もうと思う。
『教育と学校を考える』:O先生が編者をつとめて本。「けっこう売れた」とのこと。この中のオルタナティブスクールの箇所を読むことにする。
『アメリカ資本主義と学校教育』:ギンテスとボウルズが書いた本。岩波から翻訳が出ている。『学校をなくせばどうなるか?』の影響を受けている本。
『学校は死んでいる』:ライマーの書いた本。英語名はSchool is dead。イリッチと共同研究をしたことがある人物。けれど小学校の教員をやった経験があるため、理論はイリッチよりも分かりやすくなっている。
●イリッチは脱学校化をいおうとしたが、それは主たる目的ではない。本来は脱制度化と「資本主義と官僚制の批判」を言おうとした。
 イリッチは物心崇拝との言葉で現状の社会を批判した。それは全てが金で換算される社会への批判である(内田樹もフェミニズム批判の文脈の中で同様の発現をしている)。「癒し」ブームも、これが金というモノサシで測られた資本主義社会ゆえのブームである。
●大学院では学部以上に、自らのテーマがないと何の意味もなくなる。受け身になると、何も学べないのだ。教えてくれるのを待つ姿勢であってはならない。自分で集中して研究する姿勢が大切だ。
●研究者になるならば、①自分のやりたいテーマを育て、②語学を1つ極めると、幅が広くなる。
→私は①はフリースクール、②は英語をやっていきたい。①は毎日ブログに書く形で研究している。しかし②はどうやって勉強しようか? i podに英語教材を入れてそれを聞くくらいしかできていないのだ。
●中世から続く「青年団」も、ある意味フリースクールであった。寺子屋もそうであった。自発的に人々が学ぶというサークル活動でもあった。こういう団体ならば世界中にある。
 このような草の根的フリースクール活動は昔からあるが、学校へのカウンターパートとしてのフリースクールは比較的新しい。
●フリースクールの起こりは東京シューレにしてもどこにしても、「自分の子どもをあんな学校に入れたくない」という思いから始まっている。
●現在、学校への不適応はそのまま「社会への不適応」も意味する。
●「学校でなければならない」という思いから外れる人にあわせて創られたのがフリースクールである。
●学校を絶対視してはならない。日本の学校はせいぜい130年くらい。それよりも圧倒的に長い期間(「青年団」などを入れると、ということである)、フリースクール的な学びがあった。
●商人が自分の職業や礼儀を学ぶために創ったのが実学思考の寺子屋である。これはフリースクールであった(本年1月11日のフリースクール全国ネットワークでの汐見先生の講演も、テーマはここにあった)。
●いま、いろんな形でフリースクールはある。それらは何故作られたのであろうか? その背景には受験戦争などの学校の荒廃がある(アメリカではスプートニクショック後の理数重視の教育への反発や公民権運動などで生まれたマイノリティー救済の発想が背景にある)。
 では、何故これらがあったのだろうか? 学校内だけでなく、社会的背景がある。これを踏まえた上でフリースクールを研究するといい。
 その中では、イギリスのサマーヒル、フランスのフレネ、ドイツのシュタイナーについてなど、個々の思想家が考えたフリースクールについても視野に入れていく必要がある。
●デモクラシーには2つの側面がある。①草の根のデモクラシーと、②輸入思想としてのデモクラシーである。
 ①は人々の中でじわじわ育っていった発想である。共同体の中でのルールであるなど、デモクラシーという語が使われないことすらある。②は大正デモクラシー期や戦後民主主義導入期など、外からもたらされた思想である。
 よく②のみがデモクラシーと考えられているが、人々の生活の中にも①的なデモクラシーの発現があった。
 ①と②、両方が必要なのである。
 明治の近代化は②のみで達成されたのでなく、①があったからこそ実現できたところがある。
 識字率の低いところで学校は作れない。日本は①的な価値を実現する寺子屋などにより、識字率が高かった。また知識のある人もそれなりにいた。そのため、近代学校を始める際も人的インフラは整備されていたのだ。
 フリースクールもそうだ。「草の根」的発想も「海外思想」を生かした発想も、両方があいまってフリースクールができている。
●教育は政治そのものである。中教審も政治の問題に基づき、教育の中身を決めている。教育に政治的中立性はない。そして政治は経済(つまり資本主義)につながっている。
●デューイは学校の中だけで教育を考えていた。その点をボウルズやギンテスらが批判している。本来は学校だけでなく、社会全体の変革が必要なのである。
●フリースクールの 歴史についてをまとめた研究はまだない。フリースクールの実践は各自細切れなものしかないからだ。年表をつくるだけでも意味がある。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。

コメント

  1. 小中春人 より:

    おつかれ!!
    私はこのコメントを書いたら寝ます。

    英語の勉強とか書いてあったけど、ひとつ提案。
    ブログのある特定のラベル(例えば、卒論に関係のあるもの)を英訳して掲載してみる。

    この習慣を身につけると原書分析とか容易にもなるし、英語で考えるようにもなるかもよ。
    私もちょっとやってみようかと思ってます。
    (三日坊主にならないようにしますけど・・)
    ちょっとしたアドバイスでした。
    ではおやすみ!!

  2. 小中春人 より:

    『アメリカ資本主義と教育』私も読んでみたいと思います。参考になりました。
    来週は私の番。期待してくださいね。

  3. コメントありがとう。しかも2つも(笑)。

    英文を「書く」というのも重要そうですね。

    ぜひやってみます。

いしだ・はじめ へ返信する コメントをキャンセル

*

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください