エヴァレット・ライマー『学校は死んでいる』抜粋

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ブラジルの教育者パウロ・フレイレほど教育を的確に定義した人はいないが、彼によれば、人の現実を、それに対する有効な行動に導くような形で、批判的に自覚するプロセスこそ教育であるという。教育を受けた人は、自分の世界に適切に対処できるまでに、その世界をよく理解している。このような人が充分な数だけいたら、現在の世界の不条理をそのまま放置するはずはない。(225頁)

教育を受けることは、社会を変革することと同義である。うーむ、実に面白い。

大衆化、実用性、革命的目標が力説されながらも、論争は常に学校制度を如何に改革するかという論議であって、学校に代えて何かほかの制度を導入しようという発想はない。(43頁)

学校は昔から、子どもに考えさせないためには、忙しくさせて置けばよいことを知っている。(86頁)

→野口悠紀夫は〈大会社の社長ほど、一人旅を年に一度はすべきだ。職場を離れていろいろ考察することがなければ、会社の将来性はしぼんでしまう〉と、休暇/旅行の重要性を語る。実際、忙しいときには冷静な判断ができないことが多い気がする。

教育だけでは問題は解決できない。現在の安定がどれほど頼りない基盤に立ったものか、教育はそれに対して人々の目を開かせてくれる。実行可能な代案を具体的に認識させてくれるが、それを実現するためには、さらに何かが必要とされる。すなわち教育だけでは、革命的な社会変革をもたらすことはできない、ということだ。(pp227~228)

驚くなかれ、このように学校制度というものは、わずか1世紀足らずの間に、世界中のあらゆる国民の間で、あらゆる種類の価値を配分する主要な機構になってしまい、家庭や教会や私有財産制度がかつて果たしていたそういう機能を、大部分肩代わりしてしまった。資本主義国についていえば、学校がこれら旧来の制度の価値配分機能を肩代わりしたというよりも、強化したという方が正確かも知れない。(41頁)

子どもたちが学校で学ぶことは、学校の価値観だけではなく、その価値観を受け入れることであり、それを受け入れて体制の中で泳いで行くことでもある。子どもたちが学ぶのは体制順応の価値であり、この学習は学校だけに限られているわけではないが、学校に集中している。学校はたいていの子どもが最初に出会う、高度に制度化された環境である。(48頁)

我々は、段階づけられたカリキュラムの学習のために、教師が監督する教室に特定の年齢群の者が常時出席することを要求する機関として、学校を定義する。ある機関にこの定義が正確に当てはまれば当てはまるほど、その機関は学校のステレオタイプに近いということになる。教育における代案は、このステレオタイプから離れるものとして、最も一般的に定義することができる。その離れ方が学校制度の「引力」から逃れられるほど遠く、かつ速くないと、ふたたび学校制度に吸収されてしまう。(60頁)

→ライマーの学校の定義である。「引力」の比喩は印象的だ。イリイチと同じく、①フルタイムでの出席を要求し、②年齢ごとに授業し、③教師が授業をし、④その内容はカリキュラムで決められている、という要素をもつものが〈学校〉である。イリイチは技能修得や高等教育のための〈学校〉はあっても構わない、といった。ライマーはどうか?

学校教師は一人三役を演じる。アンパイアと裁判官と助言者だ。アンパイアとしての教師は、答えが正しいか誤りかを判定し、採点し、進級の可否を決める。裁判官としての教師は、(中略)学校の道徳的規範にしたがわない者に罪悪感を自覚させる。助言者としての教師は、学業または道徳の規準に合致しない者のいいわけを聞き、学校の内外で生徒が行う選択について助言を与える。こういっても何も奇異な感じがしないのは、生徒が公民権のない人間とみなされているからだ。(pp64~65)

追記
ライマーはイリイチの共同研究者。そのため〈学校は金がかかる割に効果が出ない。アメリカなどの先進国でもうまくいっていない。では第三世界の人々の教育はどう行っていくべきなのか〉との問題意識を、ライマーも持っている。その他の所でも共通点が多い。一つの例として、「仲間探しのネットワーク」という、イリイチのラーニングウェッブ同様の制度を本書で提唱している点が挙げられる。
よく似た思想のライマーとイリイチ。相違点はどこか、も調べていきたい。

参考として小中さんのブログを見るといいですね。

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