映画『マイ・ビッグ・ファット・ウェディング』

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 今日起きると、14時になっていた。寝たのは4時である。長く寝たものだ。昼過ぎに起きたとき、快晴であるととても損した気分になる。けれど、今日は雨。ザーザー降っていると、「まあいいか」と開き直ってしまう。うーん、ダメ大学生・石田一。何とか直したいものだ。
 寝坊した日は、何か価値的なことをしたくなる。本を読了するとか、演劇を見るとか。大体はツタヤや映画館で映画を観る。今日は早稲田松竹にいった。映画は未来の自分への蓄積となる。一度見た映画は何となく覚えているからだ。将来、教育学についてものを書くときも「昔、こんな映画を見た。このシーンは教育学で言う……という現象を示しているように思える」と書くことができる。未来の自分への「遺産」となるからこそ、寝坊したときは将来の蓄積をしたくなるのだ。

 さて、早稲田松竹18時上映開始の本作の原題は、邦題より少し長くなる。「My big fat Greek wedding」。「ギリシャの」という説明が追加される。何故邦題から「Greek」が消えたかは分からない。
 本作はアメリカにおける、マイノリティーとしてのギリシャ人コミュニティーを描く。アメリカに移民していても、ギリシャ人の誇りは常に忘れない。通常の学校とは別にギリシャ語学校に通わせる両親の姿が描かれる。多文化社会を考える上で非常に興味深い映画だ。特に印象的なのは結婚式のシーン。ギリシャでは悪魔払いのおまじないとして、人にツバを吐きかける。結婚式場でも、入場してくる新婦に対しそれを行う親戚たち。新郎の両親は眉をしかめる。説明されると分かるだろうが、されない限り「一体なんなんだ!」と思ってしまう。異文化理解の難しさを感じた。
 主人公はギリシャ料理店の「婚期を逃し」そうな娘。この枠組みは小津監督の『秋刀魚の味』にもあった(中華料理店の主人と彼の「行き遅れた」娘が描かれている)。眼鏡でダサい服を着る彼女が、大学講師に恋をする。「自分を変えたい」。その思いから大学に行き、コンピュータを学び始める。その技術を使って「オリンピア旅行代理店」(本当にギリシャ人コミュニティを象徴するような名前だ)という親戚の会社で働くこととなる。偶然、憧れの講師が店に来て、双方恋に落ちる。映画の後半は結婚準備に追われる新郎・新婦とその一族の姿が描かれている。結婚準備中、新婦一族のやかましいギリシャ文化と、新郎側の静かな生活との対比が描かれる。衝突が何度も起こり、その度結婚の可能性が低くなるように映る。果たして2人は無事結婚式を迎えられるのだろうか? 

 映画の本筋とはあまり関係ないが、教育学者を志す私としては本作に“教育による輝き”が描かれているように感じた。主人公は大学に行き、新たな自分を作っていった(「自分探し」という言葉が嫌いなのでこう書いた)。大学で学び始めることで、親の言いなりの〈か弱い娘〉から、自分の運命を自分で切り開く〈自立した女性〉に変わっていった。『人形の家』のノラと同じだ(ところで彼女は何故突然自立したんだっけ?)。“教育による輝き”に有効性があった、ということを久々に実感した。
 女30、未婚で子無し。日本ではこの人々のことを「負け犬」と呼ぶことがある。たとえ「負け犬」ではあっても、大学で学ぶことで人生を変えることは可能であるのだ(それにしては〈大学でコンピュータを学ぶことで新たな仕事に就く〉というベタな展開である)。
 適当に学びにいける場所としての大学。敷居が高くない大学。これからの余暇時代・高齢化社会ではこの映画のような「手軽に行ける大学」が重要になってくるように思われる。実際、主人公の弟も大学でアートを学び画家を目指すシーンがある。
 学びとは新たな自分になること。生き方を変えること。教育に対して肯定的評価を下している映画であった。

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