『シャドウ・ワーク』を読む。第2章前半。

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●「60年代に、「発展=開発」は「自由」や「平等」と肩を並べる地位を得てきた」(40頁)
→「もっとたくさんの学校、もっと近代的な病院、もっと広く長い高速道路、新しい工場、高圧送電システムを設けること」(同)が重視された。
→際限のない拡大・開発を求め続けてきたのが近代である。1章に「発展=開発と平和を一緒のものと見る」ことへの批判があったが、この章でも「発展」観の見直しをイリッチが訴えている。

●その結果、「外部不経済」や「逆生産性」が現れてきた。
例:「学校や病院の税金負担が、どのような経済も支えきれないほど莫大になった」(40)
  「制度の顧客である多数の貧しい人々は、たえず欲求不満におちいることになった」(41頁)のだ。
  「大多数の人間にとってラッシュアワーにしか使えない交通機関は、自由に選ぶことのできる移動や相互的な接近の機会を減少させて、通勤の乗物に隷属しながら費やす時間を増やすことになる」(42頁)
→つまり、制度の発展によって人間の自由や仕事が奪われるのである。

●「経済成長はすべて不可避的に環境の利用上の大切な価値を衰弱させるのだ」(43頁)
→環境と経済成長の関係。いまよくいわれているようなことである。
→イリッチのこの指摘を解決する方法として、宮台真司は次のように主張する。〈経済発展を皆が目指すのだから、企業のみに「環境に配慮せよ」とはいえない。そうではなく、「環境に配慮した会社が儲かる」ような社会システムを設計することが重要だ〉。その例として炭素税などを宮台は提案する。

●「新たな『満足』を手にすることよりも、開発のもたらす損害から身を守ることのほうが、人々の一番求める特権になった」(43)
例:自宅で子どもを産むこと。かつては「普通」だったが、いまでは「エリート層」の人の特権となった。
  新鮮な空気を吸うこと。

「今日の下層階級を構成するものは、逆生産性のお荷物一式を消費しなければならないもの、みずから買って出た奉仕者たちのお情けを何としても消費しなければならないもの、にほかならないのだ。これと逆に、特権階級とは、逆生産的な装置一式と手前勝手な世話やきを自由におことわりできる人々のことである」(43)
→自分の力で何かが出来る人/制度に頼らずに生きていける人が、いまでは特権的なことになった。

「この社会(商品集中社会)では、専門家によって企画・指定され、しかも彼らの管理のもとで生産される商品やサーヴィスの規格化といった観点から、ニーズというものが定義される傾向が強まる」(45頁)
→自分たちが自由にものをつくったり、生活したりしていた中世と違い、近代に入ってから自分の意のままに生活していくことができなくなってしまった。そこでは専門家や企業・政府の意図によって人々のニーズがつくり出されることになる。

●「経済成長」に対立するものとして「生活の自立と自存を志向する、共同の環境の使用が生産と消費にとってかわることに高い価値を与える社会、を置きたい。すなわち、『ホモ・エコノミクス』の観点から組織される社会にたいして、『ホモ・アーティフィクス』、つまり人間生活の自立と自存にかんして伝統的な仮説を回復した社会を対立させるのである」(46頁)
→経済という「制度」に頼る生き方ではなく、「生活の自立と自存を志向する、共同の環境の使用が生産と消費にとってかわることに高い価値を与える」生き方を志向していくべきなのだ。本人の「自立」「自存」に留まらず、「共同の環境の使用」(あんまり意味が分からない…)を目指していくべきなのだ。

●「現代社会の形態は、実際、これらの独立した三つの軸に沿っていまなお行われている選択の結果である」(46頁)
3つの軸とは?

X軸:「ふつう『右』と『左』ということばで表される問題、たとえば、社会の階層性、政治的権威、生産手段の所有、資源の配分をめぐる諸問題を配置したい」(44頁)

Y軸:「『ハード』と『ソフト』とのあいだの技術上の選択がくる」(同)

Z軸:「特権や技術でなく、人間の満足=欲求充足の性質それ自体が問題となる」(45頁)
Z軸の下限:「商品集中社会」。「経済成長につかえる社会」(46頁)
Z軸の上限:「実にさまざまな社会が、扇形に並ぶ。そこでは、生活は自立と自存を志向する活動のまわりに組織され、それぞれのコミュニティは、成長の要求に懐疑的になることで、コミュニティ独自のライフスタイルをいっそう強化する」(pp45~46)。「生活の自立と自存を志向する、共同の環境の使用が生産と消費にとってかわることに高い価値を与える社会」(46頁)

「政治形態への信用の度合いは、三つの選択のそれぞれの組合せに、人々がどの程度参加するかに依存しはじめる」(46頁)

イリッチは「社会のユニークなイメージ、つまり社会の諸部分が明確に分節され、独自に関連づけられているイメージというものは美しい」と語る。

「質素とつつましさという特徴をそなえ、現代的ではあるが手作りであって、小規模に営まれている生活様式というものは、市場化をとおしてのそれ自身の伝播をなかなかゆるさないものである。こういうふうにして、歴史上初めて、貧しい社会と豊かな社会とを掛け値なしに対等の関係に置くことができるようになるだろう」(47頁)
→文化相対主義とも言うべきか。

イリッチは続ける。「このことが本当に実現するためには、開発の視点から国際的な南北関係の問題をみる現在の認識のあり方が、何をおいてもまず破棄されなければならない」(同)。

ここから、『シャドウ・ワーク』というイリッチのことばの解説がはじまる。

「仕事は雇用と同一視され、名誉ある職業は男性に限られていた。就職口と切り離して行われる〈シャドウ・ワーク〉の分析はタブーだった」(47頁)
そして、このシャドウ・ワークは「開発が進めば、そのような労働は消えていくだろう」(48頁)と考えられていた。

※シャドウ・ワークの説明:
『社会学』(長谷川公一ほか、有斐閣)には、「家事労働は資本主義社会を支える相補的労働でありながら、賃労働の影の部分として暗黙に存在するシャドウ・ワークとなり、労働として自覚されなくなっていく。そのように分離された中で、性別役割分業を基軸とする〈近代家族〉は、男性を市場で営まれる有償労働に、女性を家庭で営まれる無償労働に一般に割り当てることになる」(389頁)
→イリッチの本文の記述と近い。イリッチは「家庭内という領域での女の隷属状態は、今日もっとも明らかかなその代表である。家事には給料が支払われない。しかも、昔は女の仕事の大部分は生活の自立と自存をめざす活動であったが、今日の家事ではそうではなくなった」(50頁)といっている。
つづけて「現代の家事は、生産を支えることに向けられた産業的な商品によって規格化されている」(同)と説明する。
「賃金労働者を再生産し、休養させ、賃労働にかりたてる原動力となる役割に彼女たちを押し込めている」(同)

「シャドウ・ワーク」は「経済学の分析の手からすりぬけていた」(51頁)。そのために、下の2つの活動のうち①のみが重視されるようになる。

賃金が支払われない二種類の活動:
①賃労働を補う〈シャドウ・ワーク〉
②本当の自立・自存の仕事

●「コミュニティが人間生活の自立と自存を志向する生活の仕方を選ぶときには、いまとは正反対の仕事観が広がってくる。その場合には開発を逆転させること、消費材をその人自身の行動におきかえること、産業的な道具を生き生きとした共生の道具に変えることが目標となる。そこでは賃労働と〈シャドウ・ワーク〉はそれこそ影をひそめるだろう」

人間を「成長中毒患者」とみるかどうかは、「非雇用」や失業を「みじめな禍とみるか、あるいは有益な一つの権利とみるかの分かれ目を決めてしまう」(49頁)

商品集中社会:「基本的なニーズは、賃労働の生産物によって満たされる」(49頁)
商品集中社会を動かす労働倫理:「給料や賃金のための仕事を正統化し、それと反対に自律的な活動の価値を引き下げる」(49頁)

(本来、まだ続くのですが、できませんでした)

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