山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』

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 この本は恐ろしい本である。特に私のようにイリッチを卒論のテーマに掲げた人間にとっては。

 イリッチに師事した人物だからこそのイリッチ論。他のイリッチ論とはあまりに異なっている。

〈学校化〉が明確にされるとは、つまり「産業的生活様式」が明確になることであって、彼を〈脱学校論者〉として紹介や翻訳をするのは少なくとも本筋をはずれています。イリイチに「脱学校(post-schooling)を求めるのは、「イリイチ思想」の水準では確実に誤りです。(212頁)

 山本はイリッチのdeschoolingを「非学校」と呼ぶ。元々イリッチが言っているのは「非学校」であって、「脱学校」論ではない、ということである。私は強烈な誤解をしていた、ということだろうか。
 『教育思想事典』で森重雄は言っている。

脱学校化とは、冠辞がpostではなくdeであるのだから、厳密には「学校解体」と訳さなければならない。ところが1970年代は、社会学・社会科学において「脱工業化社会」(post industrial society)論が華やかなりし時分であったから、教育会もこれにあやかって「脱」と訳出したものと思われる。(88頁)

 要はブームだったから「脱学校」と訳してしまった。結果、イリッチの真意が伝わりにくくなってしまった、ということだ。翻訳者の責任は意外に大きい(けれど森は続けて「脱学校化という訳出は、学校化からの脱出という点で、はからずも正鵠を射た訳語である」と評価している)。

 卒論を書きつつ、山本の本は真剣に読み、論文の不備を直していきたい。

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