チクセントミハイ, 2003,『フロー体験とグッドビジネス 仕事と生きがい』大森弘監訳、世界思想社、2008。

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2/4に早稲田で行われたシティズンシップ教育のシンポジウムの運営を行った。
 運営の統括として、司会にキュー出し・机配置の指示など、イベント運営の中心者の仕事であった。
 バタバタはしていたけれど、うまくイベントとして終了させることが出来た。
 その「過程」がとてつもなく充実していたことを覚えている。

 このことは、チクセントミハイがいうところの「フロー体験」である。
 イベントの運営に集中し、時間感覚が狂う体験。
 頭や神経を使うけれど、なぜかワクワクしている感覚。
 通常以上の集中力を発揮する場。
 これらをまとめて「フロー体験」と呼んでいる。
 
 また、仕事それ自体が「報酬」であるという考え方も「フロー」である。
(中谷彰宏の本のテーゼでもある)

以前私は、ブログのなかで
時間というものを失念するという「現在経験」を
誘発するものほどよい「教育」であり「学び」である、
と述べた。http://zaggas379.blogspot.com/2011/09/blog-post_06.html

チクセントミハイの述べる「フロー体験」についてを
私が記していたわけである。
大森荘蔵の「現在経験」を内面的に見た場合、
「フロー体験」と述べることが可能ではないか、と考えられる。

「フロー体験」は、ある意味で客観的理性を失った状態である。
自分がどこにいるか、何をしているかを認識することなく、
「完全にのめり込んでしまう」(48)ことで
ただ対象と合一の状態になることになるためだ。

「世界中でもっとも広く報告されているフロー活動は、よい本を読むこと、つまり、読書中に我を忘れるほど登場人物になりきり、物語に没頭することである」(49)

前に高橋和巳『悲の器』を読んでいた時も、「フロー」が起きた。
東北の帰りのJRの中で読んでいたのだが、
電車の寒さも忘れ、自分がどこにいるのか・自分がリクルートスーツを着て帰ってきていることすら忘れ、
ただ物語に没頭していた。
読み終えた時、自分が電車に乗っている目的を失念していた。

このように「フロー体験」をする対象とは人物でもよい。
フロー体験は子どもと共に過ごしている際の状態にも当てはまるという。

私は「フロー」を誘発する教員になりたい。
学ぶことに「意味」を求めるのも、もともとは違うのかも知れない。
学ぶことそれ自体が「楽しい」というのが「フロー」である。
大学院での研究も、ある意味それでありたいのだが・・・。

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