欲しないと水は飲めない。

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 イリッチは『脱学校の社会』(山本哲士によれば『学校のない社会』)のなかで、子ども自身/人間個人の「学び」が、「学校」によって失われるということを批判していた。学校により、人々は「学んだことは教えられたことの結果だ」という大いなる勘違いを行ってしまう。「学校化」されてしまうのだ。
 宋文洲『社員のモチベーションは上げるな!』という本がある。その中に、次の話が出てくる。

やる気のない人を放っておこう。
 やる気のない部下を許そう。
 これが本書の“本質”です。
 喉が渇いたら、馬は自ら水を探します。そのときは、馬が真剣に、水の匂いを嗅ぎ分け、道を探すのです。
 水がいらない馬を、川に引っ張っていくことは、ムダなことであり、自己満足にすぎません。
 乾きこそ、モチベーションの源泉です。
 他人に与えられるのではなく、自分で感じ取るものです。
 生きていれば、必ず渇くときがあります。
 他人にモチベーションを上げてもらおうと考えた瞬間に、モチベーションの炎が、あなたの心から消え去ります。(6~7頁)


 学校の教育は、いわば水を欲しない馬(子ども)にむりやり水を飲ませよう(学ばせようとすること)とするものである。需要がない所に、無理やり供給をもたらそうとしている。ムダである。これが学校化社会の特徴でもある。
 引用文ではモチベーションを謳っているが、学校においては「学ぶモチベーション」と考えることができるだろう。学校は、無理して子どもに「学ぼうよ」「勉強しようよ」と呼びかける。あるいは恫喝的に「勉強しろ!」「宿題忘れるな!」を叫ぶ。
  これだけで済めばいいのだが、子どもたちは次第に「学校化」される。自分の「学ぶ意欲/モチベーション」を他者に上げてもらおうと考えるようになる。小中 高と、他人から「学べ!」と強制され、結果的に自分から学ぼうとしなくなる。「誰かに言われるから」という自主性のない学びのみとなる。
 現在の大学もそうなっている。高校の延長でやってきているため「自分の研究をしなさい」と言われても「何をすればいいんですか?」「やる気が起きません」とシラッと返す。完全に「学校化」された姿だ。自主性をもった「学び」が起きない。

 私は、学問と言うものは「禁止されても、ついついやってしまう」麻薬みたいなものだと思う。「本を読むな!」と仮に言われても、こっそり陰で呼んでしまうだろう。学問に志すと言うことは、ある意味麻薬を始めることに似ている。学ばずにはいられなくなる。
 本来の学びは、これくらい中毒性の強いものなのだ。真に自発的に「学ぶ」意欲が湧いたとき、人間は果てしなく学んでいくものなのだろう。それを無理やり学ばせようとするから、「学べ!」と強制されない限り自分から学ばない「学校化」された個人が誕生してしまう。

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