学校の持つ気持ち悪さについて

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 私の卒論のテーマは「学校の持つ気持ち悪さ」の研究である。これは私自身が学校に違和感を持っていた、ということが問題意識の背景にある。
 けれど、人によっては学校時代が楽しくて仕方なかった、という人もいるようだ。学校を「気持ち悪い」と感じるか「楽しい」と感じるか。この違いはどこにあるのだろうか。

 初めに結論を書くが、学校のもつ「気持ち悪さ」を「貨幣」として支払うことに正当性を感じている人は、「学校が楽しい」と感じるのだと考える。言い換えると、「学校の楽しさを味わうためには、この気持ち悪さを感じるのは仕方のないことだな」と感じる人が「学校が楽しい」と言っているということである。

 学校に行けば部活も出来るし、友人とも遊ぶことができる。だから校則や画一的な授業を我慢しよう。この思いがあるのではないか。
 
 私はよく人気ラーメン店にいく。暑い中、行列にならびジッとラーメンを待つ。人の体臭や待つ苦痛。不愉快な時間だ。けれどその代償として食べるラーメンは格別に旨い。学校も同じではないか。
 上野千鶴子は「学校化社会は誰も幸せにしない」といった。「学校」は人々に不愉快さ・「気持ち悪さ」を与えている事実は変わらず、それを「まあ仕方がない」「当然だ」と考えるか、「もう無理なんだけど」「ウザイ」と考えるかの違いしかないのである。
 ・・・ここで書いた部分は、卒論の中核となるところだと思う。
 卒論的には、「学校の気持ち悪さ」を内藤朝雄の「中間集団全体主義」/イリッチのいう学習の「価値の制度化」「学校化」の2つの側面から考察していく。
追記
●ヘルマン=ヘッセの『車輪の下』は、学校の持つ気持ち悪さに拒否感を示し、それがきっかけで自分のアイデンティティすら失い、寂しく冷たく死んでいく少年の物語である。この物語も、卒論に使おうとおもう。
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