イリッチ『生きる思想』から、『レイ・リテラシー』前半部。

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 読む技術を、私たちは自明のものと考えている。しかし、実はそうではなかったことをイリッチの本を読んで知った。『レイ・リテラシー』という文章自体、私は黙読で読んだが、これって実は高度なテクニックであったのだ。あのアウグスティヌスが「発見」と、わざわざ『告白』で書いていることなのだ(『生きる思想』131頁)。まあ、このことについてイリッチは結構あちこちで書いている。前に読んだ『シャドウ・ワーク』にも書かれていた。

 この『生きる思想』にはページ番号も振ってあり、章ごとに見出しもあり、章と節にも番号が振られている。おまけに段落分けもしてあれば各章のはじめに軽い要約すら施されている(133頁)。現在の私たちは「本って、こんなものだ」という認識でいるが、実はそうではなく数多くの技術(イリッチは「二ダースもの技法」と言っている)の発見によってかろうじて成立しているのが、現在書店に並ぶ「本」なのである。小学校の教科書以来、ページ番号や章ごとに見出しのある文章に私たちは馴染んでいるが、「本」を成立させているこれらの技術は、決してはじめからあったものではない。

 『レイ・リテラシー』では「テクスト」成立までの物語が説明されている。〈参照、引用の照合、黙読が一般化〉(134頁)することにより、〈ひとつひとつの手書き本から独立した「テクスト」という観念がすがたを現し〉(135頁)た。〈印刷機がもたらした社会的影響としてしばしば考えられてきたことの多くは、じつは、見て調べるlook upことのできる「テクスト」[という観念の成立]によってすでにもたらされていた結果だったのです〉(135頁)。

 日本で言えば『源氏物語』が例になるだろうか。平安の時代、源氏物語を多くの人が読みたがり、積極的に写本が行われた。その写本も写本がなされる。「伝言ゲーム」はどこかで創作が入るもの、写本にはいろんなバリエーションが出来てしまう。古代の人にとっては自分の読んだ本がすべて。けれど、研究者(や現在の私たち)は無数の写本の背後に一つの「テクスト」という真理を見る。

 イリッチの説明により、「テクスト」成立の歴史が分かった。その後、このテクストの神聖性・真理性は「構造主義」により否定されてしまう。

 レヴィ=ストロースは神話の「構造」を研究するとき、神聖不可侵だった聖書にメスを入れ、バラバラにしてしまった。そのとき、テクスト論が始まったと橋本大三郎『はじめての構造主義』(講談社現代新書)に書いてあった。イリッチは言及していないが、「テクスト」あるいは「テキスト」という言葉には構造主義の匂いがしてくる。

〈いちど神話分析の方法になじんでしまうと、そういうことはそっちのけで、勝手にテキストを組み換え、ついには、最高のテキスト(聖書)の権威を否定してしまうことになる。それとともに、「言いたいこと」を伝えていたはずの‘神’も、かき消えてしまう。〉(『はじめての構造主義』123頁)

 いま私はイリッチの『レイ・リテラシー』というテクストをバラバラに分けて論じているが、こんなことを庶民レベルの人間が行えるようになったのは最近のことなのだ。引用や参照という技法も、もともとは高度なテクニック。

 さて、私には少し関係の薄い就職活動の話。いま就職しようとしたら、インターネットでマイナビにリクナビ、人によっては「みんしゅう」に入るところからシュウカツは始まる。PC上でエントリーもセミナーの予約も行い、エントリーシートもやっぱりPCで作成する。いまの世の中、就職するためには①ネットが使える環境にいて、②PCで少なくとも文章を作成するくらいの能力があって、③こうしたシュウカツ情報を入手する能力もある、という三つの要素をクリアしないといけない。簡単に行ってしまえばパソコンもネットもつかえない人間は始めから就職戦線から離脱せざるを得ないのだ。『レイ・リテラシー』は私の担当した前半部を見るとコンピュータ・リテラシーについてを考える手助けとしてレイ・リテラシーについて指摘したようだ。現在、学校の教育(中学では「技術」、高校では「情報」の科目名のもとで)でもコンピュータ・リテラシーの授業がある(学校では「情報リテラシー」と言われることが多い)。いまの社会はすっかりコンピュータ・リテラシーの必要な世の中となってしまったのだ。

 

 本文の中でイリッチは文字の普及(つまりレイ・リテラシー)以来、それ以前の「声の文化」のなかで消滅してしまったものがあることを指摘する。

〈かれ(注 パリー)によれば、文字によってものを考える精神にとって、文字を知る以前の口承詩人がかれの歌をつむぎだすしかたを追体験することは、ほとんど不可能なのです。文字によってものを考える精神に根づいている不可疑の前提certaintiesの側からさしかけられたどんなかけはしも、われわれを口承叙事詩のマグマのなかに連れ戻してはくれません〉(126頁)

 いま、コンピュータ・リテラシーがないと就職活動が出来ない時代だ。レイ・リテラシーの普及によって消滅してしまった文化がある以上、コンピュータ・リテラシーの普及によって消えてしまう文化もあることだろう。

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