イリイチVSフレイレ『対話 教育を超えて』からのアフォリズム その2

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ここからは、「解説」以外の部分、つまり「本文」から抜粋を行っていく。

フレイレ わたしたちは、何よりもまず、どのような教育を人々が本当に必要としているのかを知る必要があると思います。わたしたちは往々にして、人々の真の要求には無頓着なまま、教育内容を云々しがちです。わたしたちが与えようとしているような体系的な教育は、必要とされないことが多いものです。(40頁)
(石田注 イリイチの発言から)
価値の学び方はふた通りあると思うんだ。ひとつは、本質的に親密な個人的な交わり、つまり、互いに顔をつきあわせているふたりの人間の責任にもとづいて行われるもの。もうひとつは、価値の他律的な生産であって、一般の人々は、その価値を必要とするように、管理する側から期待されているんだ。その中には、車の右側通行の仕方を教えてもらうことが必要だといったことから、何がしかの「代理人」をして、かれらに、民衆は意識を必要としている。(42頁)
(フレイレの発言から)
すなわち、教育が社会を形づくるわけではなく、社会が、権力を持つ者の利益にかなうように教育を形づくるのです。この過程が機械的ではないからこそ、そのように申し上げたのです。つまり、教育はある時点で社会によって形づくられながら、社会のために特別な条件を築きあげるのです。(44頁)
(イリイチに対してのフレイレの発言。両者の違いについて)
あなたは教育が人間の現象であることは認めていらっしゃる。別なことばで言えば、いろいろな理由から人間が教育を生み出したことは認めていらっしゃるようです。しかし、ある地点を超えると、教育は人間性を失ない、もはや人間のコントロールの及ばない悪魔の手先になってしまうと言うことです。ここが、わたしの考え方とは違うのです。わたしは、何よりもまず、教育が永久的な過程であると考えてきました。この点で意見が異なるのです。教育は、人間が未完成であり、歴史的な存在であり、永久に探求を続ける存在であるからこそ、永久的な過程なんです。さらに、人間はこの探求の中で、自らの現実を知り、また自分が知るということを知る能力を獲得しました。したがって、わたしは、教育の重要な一面は、いつの時代にも、知識を実行に移すための理論というところにあったし、現実もそうであると考えています。(95頁)
(ダウバーという人物が、イリイチとフレイレの議論を聞いて)
ふたつの概念の相違は、はっきりしました。イバン(石田注 イリイチのこと)は、「発展を制限する上での基準」という否定的なものを問題にし、パウロ(石田注 フレイレのこと)は、メチャクチャにならない教育の過程、つまり意識化という肯定的なものを問題にしています。(101頁)
(イリイチのことば)
ぼくは限界閾と限界設定とを、はっきり区別しているということだ。(112頁)
(ダウバーの発言)
非学校化は、集権化や制度化や専門化を排除しようということです。制度のもつ力に対して限界を設定すれば、社会における政治的・経済的な矛盾が自覚されてくるはずです。制度を変革する行動に立ちあがれば、必然的に政治闘争に足を踏み入れるようになります。そしてこれが、わたしの理解している限り、パウロがいく度となく繰り返している意識化の過程なのです。(119頁)
(イリイチの発言)
ぼくは、教育なんてものは、西洋の中身のないからっぽの機構、つまりもっとも異端的な教会でしかないと思っている。ぼくが子供について話すのを避けてきたのは、全世界の民衆が幼児化されるという危険がつきまとっているからなんだ。今この瞬間にも、あらゆる政府や国際組織、さらには教会でさえ、教育的な治療を広めようという政策でのぞんでいるわけだ。ぼくが、ここにやって来たのは、ただ、子供時代を社会的に拡張することに対して警告を発し、それに反対の態度を示そうと思ったからなんだ。(122頁)
この対談の中では、deschoolingを「脱学校」ではなく「非学校」と訳している。これ、山本哲士の影響であろう。
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