教育における「悪」(ワル)の重要性

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 『キーワード現代の教育学』(東京大学出版会、2009)という本を読んでいる。そこに「悪―悪の体験と自己変容」という章がある。ここでいう悪とは〈通常、悪が論じられているように「善」や「正義」の概念の反対の意味ではなく、理性による計算を破壊することそれ自体が目的であるような思考の体験を指す〉(164頁)。筆者の矢野智司は「悪」を「冒険」や「死」・「性愛」・「快楽」などとして認識している。これらは子どもが親に隠れて触れるものであり、予め教育プログラムに規定できないものだ。偶然性というものがつきまとう。

 前にわたしは「教育のための社会」とは?という文章を書いた。そこの結論を、次のように私はまとめた。

「教育のための社会」を、「教育的でないもの、反・教育的なものを排除した社会」という認識の仕方は誤りである。「異質・異様な他者」を排斥することにつながるからだ。
 ということは、「教育のための社会」とは逆説的ながら、反・教育的なものを包摂した社会ということができる。教育のための社会とは、「いい教育のために~~しなければならない」という言葉が存在しない社会、つまり「異質・異様な他者」や反・教育的なものすら受け入れる社会であるといえるかもしれない。

 ここに書いた「反・教育的なもの」とはまさに「悪」のことだろう。「悪」が「悪」である由縁は教育プログラムに設定できないところにある。子どもの冒険は、子どもが勝手におこなうから冒険なのであり、親が「冒険してきなさい」といって行わせることができないものなのだ。
 教育における「悪」の存在の重要性とは、教育者が被教育者(=子ども)の全てを担うことができない認識をするということと同義である。いくら親といえども、子どものすべてを知ることは出来ない。他人なのだから。まして教員が子どもの全てを認識することはさらに不可能だ。であるならば、教育者は被教育者の全てを見ることを諦める必要がある。「悪」の存在の重要性は、教育者がある種の「全てを知ることへの〈あきらめ〉」を知らしめてくれるところにあるのではないか。
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