イリイチ著、渡辺京二訳『コンヴィヴィアリティのための道具』日本エディタースクール出版部、1989年

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人々は、エネルギー奴隷に頼るのではなくおたがいに頼りあうことをふたたび学ぶ場合にのみ、よろこびにあふれた節制と人を解放する禁欲の価値を再発見するだろう。(24頁)
自立共生的道具とは、それを用いる各人に、おのれの想像力の結果として環境をゆたかなものにする最大の機会を与える道具のことである。(39頁)
教育が競争しあう消費者を生みだし、医療は、消費者が要求するようになった工学化された環境のなかで彼らを生かし続ける。官僚制は、人々に無意味な仕事をさせるためには社会的に管理する必要があることの表れである。(87頁)
環境危機の唯一の解決案は、もし自分らがともに仕事をしたがいに世話しあうことができるならば、自分たちは今より幸わせになるのだという洞察を、人々がわけもつことなのである。(93頁)
学校は、学ぶことを教育と定義しなおすことによって、学ぶことへの根元的独占を拡張しようとしてきた。人々が現実について教師がくだした定義を受けいれるかぎり、学校の外でものを学んだ人々は公式には’無教育’という烙印を捺された。(99頁)
独力でどれほど学ぶことができるかということにとって決定的なのは、道具の構造である。すなわち、道具が自立共生的でなければないほど、教えるという行為が助長される。(110頁)
学校は有害でありまったく非効率的であるけれども、その伝統的な性格は少なくとも生徒の若干の権利を護っている。学校という抑制から自由になった教育屋ははるかに効率的でありうるし、猛烈な調教師となりうるだろう。(113頁)
人々は限度内で暮らすことを学ばねばならない。このことは教えてもらうわけにはいかない。生き残れるかどうかは、人々が自分たちには何ができないのかということを速やかに学ぶことにかかっている。人々は、無制限に繁殖したり消費したり使用したりするのを慎むことを学ばねばならない。(125頁)
→教育産業への批判か。
●訳者の文より。
錬金術師が教師と教育学者の暗喩となっていることはいうまでもない。教育の失敗が何度明らかになっても、彼らは失敗の科学的理由を見つけて、ふたたび教育を開始するのである。教育とは絶対に成功することのない錬金術だというイリイチの含意がこめられている。(34頁)
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