子どもにとって「夕暮れ」とは何か?

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 『学校の現象学のために』には「行き暮れる実在」としての子どもが描かれる。

 映画『家族ゲーム』において一家の弟はノートに「夕暮れ」という文字ばかりを何時間も描き続ける。
 「たま」というアーティスト(たち)は『夕暮れ時のさびしさに』を歌う。少年時代の思いも込めて。
 この三つは「夕暮れ」ということをテーマに共通点を持っている。そしてこの共通点は3つの作品にかぎらず、少年一般に言えるのではないか。つまり、少年は(そして少女は)「夕暮れ」を志向するものではないだろうか。昼と夜の間という不安定な時間。不安定ゆえに心惹かれるものがある。もっと遊びたいのに、「もう5時だ、家に帰らないと」という思いにかられる。「夕暮れ」には少年にしか感じられない特異な思いが存在するのだろう。
 『夕暮れ時のさびしさに』のように、夕暮れは不安で、寂しい時間。子どもから「夕暮れ時のさびしさ」を奪うのが塾や制度的習い事や少年野球(あるいはサッカークラブ)である。子どもだった私は夕暮れ時には自分をさらいにくるモンスターがいるように思えていた。
 子どもにとって不安な時間帯である「夕暮れ」どきを、大人が奪っているのではないだろうか。「たま」が『夕暮れ時のさびしさに』を歌うのも、『家族ゲーム』の少年が「夕暮れ」でノートをいっぱいにするのも、奪われた「夕暮れ」への郷愁があるからではないか。
 『家族ゲーム』の松田優作演じる家庭教師は少年の「夕暮れ」のノートを見て、少年を殴る。「夕暮れ」を志向する少年は否定され、現実に立ち返るのだ。これが一般的ならば、奪われた「夕暮れ」を誰が少年に与えてくれるのだろうか。
 
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