なぜ妖怪物語の舞台が高校に移ったのか?

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 『かのこん』というアニメを見た。主人公・小山田耕太(おやまだ・こうた)はいつも源ちずると犾森望(えぞもり・のぞむ)という「恋人」たちに振り回されるという単なるラブコメ(ただしR指定が付く)。ちずるも望も実は「妖怪」で、物語の裏テーマに妖怪との共生が描かれている。

 観ていて一つ気づいたことがある。それは《妖怪の出る高校》が舞台である点だ。

 90年代後半に連載されていた『地獄先生ぬーべー』と『かのこん』は非常に似ている。妖怪の出てる学校が舞台で、登場人物達はその妖怪に振り回され、主人公の活躍で妖怪が退治される、というストーリー運びに共通性が見られる。違うのは『ぬーべー』が小学校が舞台なのに対し『かのこん』は高校が舞台であるという点だ。
 昔から妖怪と出会う物語の主人公は、学齢期以前か小学校の年代の子どもであった。座敷童が見えるのは小学生低学年ごろまでであった。『となりのトトロ』では二人姉妹がトトロという妖怪(と言って悪ければ異界の存在)と出会う物語であり、『ゲゲゲの鬼太郎』は鬼太郎と小学生たちの交流を描いた物語であった。
 一昔前は妖怪が見える(言葉をかえるなら「異界と出会える」)のは小学生までの子どもであった。けれど『かのこん』において妖怪と出会うのは高校生。段々と妖怪と出会う物語に出てくるキャラクターの年齢が上がってきているのだ(アニメ化されると言うことは「高校生が妖怪と会うなんてありえない」と言う声よりもこの舞台設定を受けいれる読者が多いということを意味する)。
 昔、妖怪を含め「異界」と出会うのは文字通りの「子ども」のみであった。彼らはよく世の中を理解できないため、説明不可能なものを「妖怪」と感じたこともあっただろうが、「子ども」でしか見えない/出会えない世界があった。それが「異界」であり、「妖怪」であった。異界は成長するにつれて、段々見えなくなっていく。そのため、以前ならば中学校以上を舞台にした「異界」「妖怪」ドラマは成立しなかった(というか、読者というオーディエンスの側が受容したがらず、物語が作られることがなかった)。いま『かのこん』という高校を舞台にした妖怪ドラマが存在しているということは、その分、妖怪の存在を受容する年齢が上がってきたことを意味しているのだろう。
 いまのところ、「大学」に異界が広がるアニメやドラマは存在しないように思える。しかしそれも程度問題である。知らない間に大学を舞台にした異界との出会いを描く物語が登場することだろう。そうなったとき、日本人の「幼稚化」はさらに進むであろう。
 あるいは異界と現実が混じり合っていた中世に逆戻りするのかもしれない。ポストモダンとを中世回帰のように認識する人もいるが、それこそ日本の未来の世界ではないだろうか。
 スピリチュアルな言動を見聞することが最近多いが、「異界」との出会いを人々が求めている証拠と言えなくもない。
追記
 民俗学では「妖怪が見える」ことを非科学的だ、と批判することはない。「なぜ妖怪談義が語られるか」に問題意識を持つ。同様に「何故子どもは妖怪物語の主人公になるか」と言えば、それは子どもという存在がカオスに包まれた存在だからである。
再帰
 冒頭の「妖怪との共生」について。
 本作では耕太少年はちずるという先輩に振り回されつつも彼女を受容し、彼女を愛そうとする。それが「妖怪」との恋愛であることを百も承知で、耕太は日々生活を送っていく。ちずるの「母」たちが耕太少年へのテスト(結婚することを見越した上で、ちずると耕太を結婚させるべきか否かのテスト)を行っても、耕太とちずるの仲は深まっていく一方であり、周囲からも承認を得られていく。
 多文化共生社会となった昨今、我々は異質な「他者」と共生を余儀なくされる。ちずるが「妖怪」であることは、「他者」概念の比喩なのではないか。つまり、他者との共生を「妖怪との共生」に置き換えることで、このドラマは急に現代的テーマを持ってくるのである。
 映画『ビッグ・ファット・ウェディング』には保守的ユダヤ社会と陽気なギリシャ社会との「共生」の困難さとそのダイナミズムが描かれる。『ビッグ・ファット・ウェディング』では新郎側が在米ギリシャ人コミュニティに加わることで共生(ここでは結婚)を実現していた。結婚することが決まっても、共生をスムーズに行うためあえて時間をかけて新郎側と新婦側が交流をしている。『かのこん』でも「新郎」である耕太少年が妖怪社会を受容することで源ちずるとの共生を実現させようとしているのである。その受容と妖怪コミュニティからの「承認」には時間がかかるため、本作(アニメ版)では「一線を超える」ことなく恋愛関係を続けている。
 結論。「共生」にはコミュニティへの受容が必要である。そして受容され「承認」されるには時間が必要である。下手をすれば結婚を決めるまで以上に時間がかかることもあるが、それを素っ飛ばして結婚しても、結局はうまくいかない。
 従前は親やコミュニティが結婚相手を決めていた。その際、新郎側と新婦側のコミュニティの間に受容と承認のプロセスが存在していた。結婚が「愛し合う二人の問題」になった現在、新郎・新婦両コミュニティの承認なく結婚関係を行うことが多くなった。『かのこん』や『ビッグ・ファット・ウェディング』は、異文化を持つ相手と結婚をする際には両コミュニティとの間で受容と承認のプロセスを持つべきであるということを描いた作品なのである。
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